礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年12月28日
 
「主は望む港に導かれた」
一年の終わりに臨んで
 
竿代 照夫牧師
 
詩篇107篇23−32節
 
 
[中心聖句]
 
  29,30   主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
(詩篇107篇29-30節)

 
聖書テキスト
 
 
23 船に乗って海に出る者、大海であきないする者、 24 彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。
25 主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。 26 彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。 27 彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。
28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。29 主があらしを静めると、30 波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
31 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。32 また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。
 
はじめに
 
 
2008年は、「変」という漢字がその様相を表す文字と選ばれたほど、激変の一年でした。その激変にも拘わらず、あるいは、激変であったからこそ、主のみ助けも豊かでありました。主の大いなるみ助けを思い巡らしつつ、詩篇107篇を味わって見たいと思います。
 
A. 詩篇107篇の成り立ち
 
1.テーマ
 
 
この詩篇107篇は、神の救いを経験した者の感謝です。その背景は、イスラエルがバビロン捕囚から釈放されたという共通体験ですが、それに限らない人生の全ての局面が歌われています。
 
2.内容
 
 
この篇の骨格をなす部分は

1)全般的な賛美(1−3節)に続く、4つの文節からなっています。
2)導き:荒野の彷徨から(4−9節)
3)釈放:牢獄から(10−16節)
4)癒し:重病から(17−22節)
5)守り:航海中の大嵐から(23−32節)

2)−5)の共通点は、@苦難、A叫び、B助け、C感謝です。その後、

6)大いなる回復のみ業への賛美(33−43節)

で締めくくられます。
 
3.強調点
 
 
特に43節、人生の様々な出来事を通して経験した事を「心に留め」、その中で教えられた神の恵みを「悟りなさい」ということが、この詩篇の作者が一番強調したかった点でありましょう。人間は傲慢な生き物ですから、苦難という炉を経ないと、なかなか神のみ前に謙って叫ぶことをしないものです。しかし、謙って叫ぶとき、神は豊かに答えて下さいます。詩篇の作者が言っているのは、そうした過去の経験を過ぎ去った出来事として遠くに置いてしまわないで「心に留め・・・悟る」必要があるということです。

・「心に留める」とは、私達の人生に起きた神のみ業を深く思い巡らし、記憶に留め、出来れば、記録に留めることです。

・「悟る」とは、心に留めることからもう一歩踏み込んだ心の営みです。単なる出来事の羅列ではなくて、その中に私達の人生を含む歴史全体を動かしておられる神がおられる、そのお方は私達に愛と恵みだけをもって扱っておられるという「神の事実」を悟ることです。「悟る」には時間が必要です。ちょっと立ち止まって考えるだけでは間に合わないほど、主の恵みは深く、行き届いており、豊かなものです。忙しさの中に埋没して、「心に留める」営み、「悟る」営みを怠ることのないようにしようではありませんか
 
B.大嵐からの救い
 
 
さて、今日は航海中の大嵐からのみまもりを学びます。
 
1.地中海貿易の船(23−24節)
 
 
「船に乗って海に出る者、大海であきないする者、彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。」

大海とありますから、ガリラヤ湖(旧約時代には、キンネロテの海と呼ばれていました)のことではないでしょう。ガリラヤ湖では、漁業は盛んでしたが、交易のための大きな船は使われていませんでした。一方地中海は、交易のための大型帆船が昔から行き来していました。旧約時代では、地中海沿いにあるヨッパが、貿易の拠点として知られていました。ヨナがヨッパ発のタルシシ行きの船に乗ったことは有名です(ヨナ1:3、更にU歴代2:16)。
 
2.嵐と絶望(25−27節)
 
 
「主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。」

・嵐も主の御心:
地中海は、内海独特の季節風が折々吹いて、航海に難儀を齎すことがあります。旧約聖書では、先ほど述べたヨナの船、新約ではパウロの乗ったローマ行きの船がそれです。双方とも、大波に翻弄されて船が沈みそうになったと記されていますが、この詩篇の描写もそれを彷彿とさせます。ただ詩篇の作者は、それが主の命令で起きるものだ、と理解しています。積極的に起したかどうかは別として、主のみ許しの下にすべての自然現象が起きるということを謙って覚えたいと思います。

・水夫達の絶望:
こうした現象にぶつかって、船員の心は溶け去り、船酔いには強いはずの水夫達でさえもすっかり船酔いをしてしまうのです。
 
3.祈りと平安 (28−30節)
 
 
「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」

・困難は祈りを生む:
先ほども申し上げましたが、人間、「困った時の神頼み」的な傾向を持っていることは、何処でも同じです。予期せざる苦しみにぶつかり、それが自分のコントロールの及ばない遥かに大きな力で支配されていると気がつくとき、人間に残った手段は祈ることしかありません。本来、人間は霊的に造られています。祈ることが自然であり、喜びであるはずなのに、それをしません。それは、人間が余りにも傲慢であり、自信に満ち溢れているからです。その傲慢を打ち砕くために、神は折々困難な状況をお許しになります。その時、この船乗り達のように、真剣に神を呼び求めるものでありたいと思います。今、世界全体が、未曾有の経済危機という暴風雨に打たれています。仕事の無い人々が見る見る増加し、住むべき家を失った人々も少なくありません。1929年以来の大恐慌という人もいます。余りパニックになってもいけませんが、この指摘は当たっているかもしれません。しかし、人間のピンチは神のチャンスです。人間が作り上げた社会経済的機構が機能しなくなって、人々が混迷の中に落ち込む時、私達は上を見上げることが出来ます。主は、私達人類全体に、それを望んでおられるのではないでしょうか。

・嵐を静め給う神:
さて、詩篇に戻ります。この祈りによって、「主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」のであります。波が凪ぐ、とは主イエスがガリラヤ湖を弟子達と旅行し、大きな嵐に遭って混迷した時に「黙れ、静まれ」と嵐を鎮めなさった時の情景を思い出させます。主こそ自然界の支配者であり、嵐を鎮め給うお方です。

・「望む港」に導き給う神:
免れたのだから、何処でも良い、港でなくて、陸地ならば何処でも良い、と私達が思うでしょう。事実、パウロの場合は、当初計画とは全く離れたマルタという島に、しかも、難破状態で辿り着きました。これに引き換え、この詩篇の作者は、その予定コースの港に導かれたと言っているのです。主は、私達に願いを起させなさるお方です(ピリピ2:13)。私達が主の起させなさった願いに従って歩み、その成就を祈りつつ進む時、「その望む港」に導きなさいます。「主はあなたのすべての願いを遂げさせてくださいます」(詩篇20:5)勿論、それは、私達のわがままな願望がすべて叶えられるということではありません。計画通り物事が寸分たがわず進むことでもありません。むしろ逆のことが多いのが人生です。しかし、大きな目で見ると、途中の紆余曲折はあったとしても、「望む港」に導いてくださるのが神様ではないでしょうか。この年、私達は一人ひとりのために「望む港に」導いてくださった主を褒めたたえ、主に栄光を主にお返ししましょう。
 
4.主の恵への感謝(31―32節)
 
 
「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。」

・神の恵みへの感謝:
感謝すべきことが二つあります。一つは、主ご自身の性質に関してで、もう一つは主のみ業に関してです。主は恵み深く、憐れみに富み、私達を見捨てなさるお方ではありません。このようなお方が私達の主であること覚えることは大きな励ましと安心感を与えます。

・神のみ業への感謝:
もう一つは、奇しい業に関してです。通常の道筋では考えられない、そして、主のご干渉としか考えられないような不思議なみ業のことです。

・公に証しすること:
32節では、こうした感謝を心の中で留めておかないで、公の礼拝で感謝を表しなさい、と詩人は勧めています。私達も、感謝を集会における証の形で、感謝献金という形で、積極的に表したいものです。
 
終わりに
 
 
「知恵のある者はだれか。その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。」(43節)

・心を留めよう:
この一年の終わりに、私達は、過ぎこし方をじっくりと振り返り、その出来事の一つ一つに心を留めましょう。

・感謝しよう:
そして、その背後にある神の恵みについて深い思い巡らしをしたいものです。
 
お祈りを致します。