礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年1月11日
 
「心砕かれた者の幸い」
イザヤのメッセージ(42)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書57章14−21節
 
 
[中心聖句]
 
  15   わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、謙った人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
(イザヤ書57章15節)

 
聖書テキスト
 
 
14 主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。16 わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。17 彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。18 わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。19 わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。20 しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。21 「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。
 
1.イザヤ57章は?
 
 
57章は、56章後半(9-12節)に描かれているイスラエル指導者の罪への糾弾の続きです。

・イスラエルの民一般の罪の糾弾(1-13節)
1-13節では、イスラエルの民一般の罪が糾弾されています。1-2節は敬虔な人々を無視する罪。3-13節は偶像崇拝と姦淫との罪が非常にどぎつく描写されています。まともに読むことが憚られるほどのひどい描写です。これは、イスラエルの捕囚以前の道徳的状態と思われます。神は捕囚という形で厳しい審判を与えなさったのですが、その審判は審判の為のものではなく、人々を悔い改めに導く為だったのです。

・謙るものの祝福(14−21節)
14節で、こうした罪を除くようにとの命令が下されます。回復の条件は罪の除去であることが示唆されます。「主の道を整えよ」(40:3-5)、「土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて・・・」(62:14)等の類似箇所は、捕囚からの帰還にあたって、罪を取り除くことが大切であることを示しています。15-16節は、卓越し、しかも同時に謙った神が示されます。これについては、今日のテーマとして後述します。17−18節は、罪人への懲罰と癒しについて述べています。19-21節は、平和を造り出される神について述べています。
 
2.神の限りなき高さを見よう
 
 
・卓越性(Transcendence)と内在(Immanence)の神:
今日の本題に絞ります。詩篇の中には、神の「神の限りなき高さと低さ」というコントラストが多く見られます。例えば「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。」(詩篇113:5、6)とか、「まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」(詩篇138:6)という御言です。神は私達より遥かに高いところにおられるお方であり、同時に、私達の内におられるお方です。この両面をしっかり捉えるところから、活き活きとした信仰が生まれます。

・神の聖さと高さ:
神は、私達が想像することの出来ないほどの高みにおられるお方です。イザヤが奉仕の始めに見た神の幻はそれでした。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」(イザヤ6:1)のです。ごみごみした人間の営みを遥かに超越した永遠の世界に存在し、君臨し給うのが私達の神です。その聖さは、罪ある人間が近づくのを畏れさせる厳かさを持ったものです。この幻を見たイザヤは、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(同6:5)と言わなければなりませんでした。人間がこの聖い神に近づくためには、動物の生贄を通してでなければならなかったところに、神の聖さと人間の罪深さの対比が象徴されています。私達は今朝「聖なる、聖なる、聖なるかな」と歌いましたが、その驚くべき恐れの感覚を失ってはなりません。

・罪を責めなさる神:
この57章の成り立ちを先ほど概観しましたように、56:9-57:13は、この神の聖さに基づくイスラエル指導者の断罪宣告です。そこでは、彼らの自己中心(56:9-12)、不公平(57:1-2)、偶像礼拝(57:3-10)、偽り(57:11-13)が容赦なく糾弾されています。大切なポイントは、イスラエルは、好んでこうした罪に陥ったというよりも、正しくあろうと努めながら、内にある弱さのゆえに様々な罪に陥っているということです。主は、私達の弱さを知っておられますから、ただ断罪するだけでなく、私達の側に降りてきてくださって、解決を与えなさいます。
 
3.神の限りなき低さを見よう
 
 
・それは、神の謙り:
もし、神が高みにおられるお方という側面しか持っておられなかったならば、私達は、ただひたすら畏れかしこむだけで、このお方と交わりを持つなどととても考えられません。しかし、感謝すべきことに、この高きお方が、もっとも低いところまで降りてきて下さるお方なのです。特に「心砕けて謙るもの」つまり、自分の罪を悲しみ、悔い改める魂に、主はいと近くあられます。

・「砕かれる」とは?:
「砕かれる」というのは、ヘブル語ではdakaa(crush)です。ある物を叩いて原形を留めないまでに粉々にするという意味です。イラスト@を見てください。お皿が床と至近距離から落ちた場合には、無傷であることもあります。少し高いところからですと、パキンと割れます。もっと高いところから落ちると粉々に砕かれます。それがdakaaという意味です。

それが「心」に当てはめられた場合、大きな悲しみか衝撃の故に、心が徹底的に意気消沈し、何を行う気力も、何をしゃべる元気も失せてしまった状態を指しています。その衝撃は、罪または失敗への神の審判という形で齎されることがあります。その時、心からの悔い改めをし、徹底的に謙らされることがあります。それが「心砕かれた」状態です (イラストA)。15,16節は、1-13節の審判、14節の障害除去、17節以下の罪に対する神の怒りと刑罰とに挟まれていることから明らかなように、神の刑罰をもろに受けて、砕かれた状態を指します。勿論、罪とは関係なく、環境的理由で「心が砕かれる」こともありえます。どちらのケースであったとしても、主は、試練や困難を通して私達の心を砕き、神に近づく道を備えなさるのです。しかし、どんな衝撃を受けても、一向に悔い改めない頑なな人もありますし、悔い改めても、表面的な人もいます。

・ダビデの例(詩篇 51:17):
ダビデは罪を犯し、その後に、深刻な悔い改めをしました。彼は、何の自己主張も、弁解も、頑なさも示さず、徹底的に砕かれました。神の前だけでなく、人の前にも見栄や面子を捨てて、どんな辱めも刑罰も喜んで受けますという態度を示しました。その折に、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇 51:17)という確信を述べています。「砕かれた、悔いた心」とは、宗教のエッセンスです。どんなに信仰生活が長くなり、周りの人々から高い評価を受けるようになったとしても、「救われた罪人」であるという謙った自覚を失ってはならないと思います。

・サウルの例(Tサムエル15章):
サウル王も不服従の罪を犯しました。アマレク人を徹底的に滅ぼしなさい、家畜も財宝もみなそうしなさい、という命令を受けながら彼は、良いもの、良い人々を残しておきました。預言者サムエルにその事実を指摘された時、彼は罪を隠蔽しました(Tサムエル15章13節)。隠しおおせられないと分かった時、彼は見え透いた嘘で言い訳をします(15節)。言い訳が通らないと分かった時、彼はその責任を部下に転嫁しました(20−21節)。それも通らないことを見ると、一応悔い改めます(24節)が、これは面目を維持するためのものであって(30節)、彼は最後まで砕かれませんでした。この中途半端な悔い改めは、ダビデの徹底的な謙りと物凄い隔たりを示します。ダビデは徹底的に砕かれることをしっていたゆえに、神に愛されました。サウルは、その中途半端な悔い改めゆえに捨てられました。
 
4.心砕けるものは幸いである
 
 
・恵が与えられる:
このように、主は謙るものに関心を持ち、贖いの恵みをもって、そのような魂を生かしてくださいます。「悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:4)と記されている通りです。神が共に住み給うとは、何たる恵みでしょうか。神が慰め手として、理解者としてご自身を現し給います。19節以下の平和はここで約束されています。イザヤ66:2には、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」とある。詩篇34:18には、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」とあります。心砕かれた者は、神の臨在を必要としています。ですから、神をより近く感じることができるというのが真相ではないでしょうか。神は何処にもおられるお方です。しかし、心砕かれるものが、その神の臨在を強く、深く感じるのです。

・活かされる:
神は、「共に住む」だけではなく、私達の心に働き、力と希望を与えなさいます。詩篇51:17には「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。更に詩篇 147:3には「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。」とある。心砕かれた者こそが救いの対象なのです。

・私の証:
今から15年ほど前の話です。ケニアで私達が共に働いていた宣教団と教会の委員会で、我々の将来の奉仕の場所と形態について、常識を越えた奇妙としか思えない決定がなされました。その決定の内容もさることながら、そのプロセスがもっと奇妙でした。実状は、委員の中の誰かの思いつきの様な発言で、皆が深く物事を考えずに賛成したのです。教団の総理は耳が聞こえなかったので、動議の内容を把握せぬまま挙手したそうです。後になって、こうした誤りが認識され、次の委員会ではこの決議が撤回されました。私が証ししたいのは、こうした事情そのものではなく、こうした事態を迎えた時の私の心境であり、その中での主のお取り扱いです。人々の無関心、礼儀の欠如は私達の心をいたく傷つけました。しかし、私はその中にも、いえ、そのなかにあればこそ、豊かな主の臨在と慰めと励ましとを頂きました。もしその経験がなかったなら、恐らく気付かない傲慢と誇りの罪に陥ってしまったかもしれません。主は幾たびかこうした環境を私が通ることを許され、その度に近くにあるよと確認下さった事を感謝しています。
 
5. 主の前に「心砕かれる」者となろう
 
 
・キリストと共に十字架に:
ガラテヤ2:20にありますように、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と、信仰をもって言いうる立場に自らを置きましょう。

・この立場を継続:
私達は多く、神の前に心砕かれる経験をしますが、その際、人の前にも砕かれる程徹底しているでしょうか。「ごめんなさい。」が言える人になっているでしょうか。私達は、思い切って砕かれる魂となりましょう。裃や鎧を捨てて、互いに砕かれた魂としての交わりをしましょう。主のみわざがそこから始まると信じます。(教会内の人間関係のぶつかりは、信念と信念のぶつかりではなく、砕かれない魂同士のぶつかりが多いのです。これは、皆が砕かれた魂である時には起き得ないことです。)主が私達の交わりを祝し、本当に砕かれたもの同士としての交わりに成長させてくださいますように。
 
お祈りを致します。