礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年1月18日
 
「潤された園のように」
イザヤのメッセージ(43)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書58章1−14節
 
 
[中心聖句]
 
  11   主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。
(イザヤ書58章11節)

 
聖書テキスト
 
 
1 せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。2 しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。3 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。4 見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。5 わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。8 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。9 そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。11 主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。
13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、14 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。
 
始めに:イザヤ58章
 
 
・58章から終わりの66章までは、イザヤ書後半(40-66章)の第三の区分です。

第一区分(40-48章):「贖いの型である出バビロン」
第二区分(49-57章):「贖いの執行者である主のしもべ」
第三区分(58-66章):「贖いの完成としてのシオンの栄光」
と分けられます。

・58章は、救いに至る条件が示されるのですが、それは、偽りの敬虔と真の敬虔との比較という形でなされます。
 
A.偽りの断食と真の断食の比較(1−11節)
 
1.偽りの断食
 
 
1−11節では、偽りの断食と真の断食が比較されています。特に、その始まりの警告の強さを注目したいと思います。預言者は、その声を精一杯(のどを振り絞って)出して、民を警告しなさいと告げられます。人々が断食を始めたのは、真剣に神に近づこう、神の定めを守ろうという良い動機からでした。しかし、いつの間にか、その断食の概念がずれてきたのです。そのずれは深刻です。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。 」という気持ちで断食を行っています。それなのに、1節には「そむきの罪」と断罪されています。その理由が二つ記されています。

・功績主義:
断食を功績として誇るようになりました。これだけ断食しているのだから、神はこの祈りに聴くべきだという要求がましい気持ちまで生まれました(3節)。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」ここに、神に対して功績を積み上げて、神の祝福を勝ち取ろうとする「功績主義」がはっきり見えます。はっきり言って、これは神との取引です。一生懸命のように見えても、お百度とか滝に打たれるとか、お遍路さんという行動の背景にはこの思想があります。私達の福音は、これとは全く違った原理です。恵みと憐れみの原理です。私達は救いに値しないものなので、神の一方的な憐れみと恵みにすがる以外には立場がないのです。その恵みを本当に知ったものでありたいと思います。

・精神の履き違え:
断食の真のスピリットである祈りと黙想と悔い改めが失われ、自分が働かない代わりに他人を働かせ、そして、自分は好き勝手な行動をするまでになりました。その好き勝手な行動の果てに、お互いの喧嘩が始まる始末です。「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。 4 見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。」
 
2.真の断食
 
 
・愛の実践:
6-7節に神が喜びなさる断食のスピリットが示されます。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」ここで、断食に伴う肉体的苦行は全く触れられていません。神の関心は、「貧しいものを顧み、肉親の世話をし、経済的・道徳的に奴隷状態にある人々を解放する」という極めて具体的な実践的行動にあります。初代教会では、施しと断食とは祈りの両翼として行われていました(マタイ6:1と16)。正にこれこそが神の御心を行う行動といえましょう。それは、神の御心を知り、実践することです。自己放棄、克己は、内面的なものに留まってはならず、隣人への愛の実践という形で外に現されるべきものなのです。

・真の敬虔:
9-10節にも、約束の成就のための条件が記されています。「もし、・・・するならば」という句です。「もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、 10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら」と記されています。圧制による支配をやめること、嘲りの態度をやめること、神の聖さを汚す談話を行わないこと、がその内容です。
 
3.敬虔なものへの祝福
 
 
このような魂に対して、すばらしい約束が与えられています。「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、『わたしはここにいる。』と仰せられる。・・・あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」(8-11節)

祝福の内容は7重です。

@主の明らかなご臨在と栄光が伴うこと(8節)
A祈りが答えられること(9節)
B主の栄光が加えられること(10節)
C確かな主の導きが与えられること(11節)
D私達の健康を守ってくださること(「骨太」は健康の証拠で、骨を強くする納豆などが流行っています)
E私達自身を豊かな祝福の源としてくださること(11節)
F私達を回復の器としてくださる(12節)
 
B.安息日遵守のスピリット(12-13節)
 
1.安息日らしくない行動
 
 
この章の末尾の13-14節には、断食について述べられたと同じ原則が、安息日遵守について適用されています。先ず安息日らしくない行動が三つ挙げられます。

・出歩くこと、旅をすること:
言うまでもありませんが、安息日は、肉体を休めるために主が定めなさった日です。疲労を齎すような運動や、長旅にこの日を用いることは、制度のスピリットに合いません。安息日の規定がそのまま日曜日に当てはめられるかどうかは簡単に言えない面がありますが、それにしても、私達クリスチャンが一週間に一度の休みを大切にすべきことは当然です。

・自分の好むことをする:
イザヤの暫く前のアモスは、安息日に商売をしたくてたまらない人々への戒めが述べられています(アモス8:5)。安息日の商売は論外としても、祈りや賛美が、自己満足のためになされる危険性は絶えずあります。祈りとは神を喜ばすための良き香りですし、奉仕は神の喜びに向けてのものですし、礼拝とは神を受け入れられるためのものです。この視点を失って、エンターテイメント的な音楽やその他のプログラムが入り込んでしまうと、それは「自分の好むところをする」礼拝となってしまいます。

・むだ口を叩くこと:
主の聖名によって集まる時、その集会の前や後に、噂話、批判的なおしゃべりをすることは、集会のホストである主を悲しませることです。礼拝式という限られた時間にキチンとした態度を取るだけではなく、その前や後の交わりも、礼拝の続きであるという意識をもって主の日を過ごしたいものです。
 
2.安息日らしい行動
 
 
・「喜びの日」と呼ぶ:
間のエンターテイメントという意味ではなく、神ご自身を喜ぶ喜びのことを指しています。楽しさというのは、肉を喜ばせる楽しさのことではなく、神と共にある、神の民と共にあるという深い楽しさです。これを忘れた、エンターテイニングな楽しさを教会の集まりが求めるようになったら、その霊的な命は終わってしまいます。もちろん、礼拝のプログラムをわざと詰まらなくする必要はありませんし、私達の興味と必要を考えてプログラムを工夫することは大切ですが、楽しいプログラムとすることを第一に考えるのは邪道でしょう。

・「はえある日」と呼ぶ:
普通私達が「はえある日」と言いますと、「自分が認められて晴れがましい日」というニュアンスになりますが、ここでは違います。神の栄光を顕すことを目的とした活動、発言、心の姿が求められます。主の祈りで私達は「聖名が崇められますように」と祈りますが、それは礼拝の一部としてではなく、私達の全生涯的な祈りと願いでありましょう。
 
3.安息日を守る祝福
 
 
・主が私達の喜びとなる:
これは、私達の心が神の存在、恵、栄光を喜ぶものとなることを意味します。ネヘミヤは、「主を喜ぶことはあなたがたの力である」(ネヘミヤ8:10)と言いました。主が与えて下さる数々の恵を喜ぶのは、信仰者として初歩の段階です。神ご自身の臨在、その素晴らしさを絶えず賛美し、喜ぶものとなりたいと思います。ダビデは言いました、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)と。

・豊かな養い:
「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」という言葉は、主ご自身が私達を喜びとし、誇りとしてくださることを意味します。天地宇宙を造られた方が、虫のような私達を捕まえて、I am proud of you.と語ってくださるのです。何という素晴らしい特権でしょうか。
 
終わりに:再び11節に注目(イラスト参照)
 
 
メッセージの締めくくりに、11節を再び読みましょう。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」何という素晴らしいお約束でしょうか。

・「潤された園」とは、砂漠の中のオアシスをイメージしたものです。殺伐とした世の中にあって、私達の存在と行動が多くの人々に元気を与えるものとなるのです。このところは英訳では、well-watered gardenとなっていて、私は大好きな言葉です。足踏み式の灌漑装置のようなものを使って、自分の努力で水をまき続けるのではなく、主ご自身によって水注がれ、その恵の露で潤され、その御言によって養われる魂の絵です。それによって、植物は成長し、花を咲かせ、実を実らせます。その恵に浸り、委ねる姿勢を学びましょう。

・「水の枯れない泉」とは、泉の湧き出る口の部分のことです。ヘブル語の直訳は「その水は裏切らない」というもので、そのおいしさ、爽やかさは素晴らしいと約束されているのです。主イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と約束されました。すべての信仰者の心には、永遠の命にいたる活ける水の泉が与えられています。それは、自分自身から湧き出るのではなく、キリストご自身からのもので、それは決して枯れることがありません。私達の存在は真に小さなものでありますが、活ける水が泉のように湧き出る、そして、それが周りを潤すのだと約束してくださいます。私達が、家族にとって、社会にとって、民族にとって祝福の源となるのです。その確信をもって、今週の戦いに臨みましょう。
 
お祈りを致します。