礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年1月25日
 
「御霊によって前進」
教会総会に臨んで
 
竿代 照夫牧師
 
ガラテヤ人への手紙5章16-26節
 
 
[中心聖句]
 
  25   もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
(ガラテヤ5章25節)

 
聖書テキスト
 
 
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
 
始めに
 
 
第61次総会の朝を迎えました。この朝、教会の主であるキリストを仰ぎ、このお方に従って歩む歩みを新しく誓って出発したいと思います。キリストに従うということは、ガラテヤ書によれば、「聖霊によって歩む」ということと同じです。今日は、16節と25節に注目します。
 
1.聖霊によって歩まないと?
 
 
→律法主義におちいる(1、18節):
1節には、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とあります。18節には、「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」ガラテヤ教会に入り込んできたユダヤ主義者は、律法を守り行うことによって救いが完成すると説きました。現代のクリスチャンの中にも「クリスチャンだからこうしなければ、あああしなければ。」というガンバリズムが信仰生活だと思っている人が案外多いのです。これでは自分も不自由だし、見ている人もくたびれてしまいます。聖霊による歩みは、ガンバリズムから私達を解放して、しかも頑張りによって達成出来ない律法の真髄を達成させるものです。反対に、御霊による歩みを知りませんと、律法主義に戻ってしまいます。

→罪の生活に戻る(16、13節):
16節は「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と、御霊による歩みが肉欲に負ける人生から釈放することを約束します。13節は「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と言って、福音の自由が、わがままを奨励するものではないと警戒しています。福音はdoとかdon’tという決まりから私達を自由にします。しかし、それは、なんでもやりたいことをやり放題しても良いというデタラメ主義を生むものではありません。聖霊による歩みは、デタラメ主義から私達を守ります。反対に言えば、聖霊によって歩む歩みを知らないと、クリスチャンといいながら、罪にどっぷりつかったまま歩むという危険があるのです。

・実は、律法主義もデタラメ主義も、肉(神を離れた人間性)から来るものです。それがガラテヤ教会の問題であったし、今でも続いている課題でもあります。それを解決する道が「御霊によって歩む道」です。
 
2.聖霊によって歩むには?
 
 
・聖霊によって生まれる:
25節「もし私たちが御霊によって生きるのなら(ているのなら)」という言葉は、御霊によって歩むための前提を示します。この「生きる」とは生かされている、命が与えられている、との意味です。御霊によって歩む歩みのスタートラインは、聖霊によって新しく生まれ変わっていることです。

・悪しき情欲と肉性を十字架につける:
24節には、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。肉を情欲や欲望と共に肉を十字架に付けるとは、人間としての自然の欲望を罪悪視して、それをタブー扱いし、それを押し殺すことではありません。自然の欲望は神の創造になるもので、美しく豊かな人生の一部です。問題は、欲望を第一にすること、正しい道でなくそれを満たそうとすることなのです。肉性とは、神を離れた人間性、つまり、罪の性質のことで、私達の罪の性質を十字架につけるということは、キリストの十字架で本当はこの解決がなされているということを、信仰をもって頷き、受け取ることです。これを聖化の転機です。信仰によって、そのことをはっきりと頷き、認め、告白し、その信仰に立つことが必要です。ローマ6:11には、「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と命じられています。
 
3.聖霊による歩むとは?→個人的には、聖霊の感化と方向に沿って歩むこと
 
 
・聖霊の感化と方向に沿って歩む:
「よって」との表現(in spirit), 「御霊によって」(pneumati)とは「御霊にあって」という意味よりも強い「御霊に頼って」との意味です。もっと言えば、彼の感化と方向と指導とに従ってとの意味です(16、25節)。そのためには、

・彼に聞こう:
時を取って、聖書を学び、祈りの中の思い巡らしましょう。他人の忠告の中にも聖霊は語り掛けなさいます。人から忠告を受ける時良くその意味を考えましょう。良心に語りかけなさる御霊の声を聞きわけましょう。

・御霊に頼ろう:
事ごとに、日毎にその力にすがりましょう。

・御霊と物語ろう:
祈りのときに、自然な形で物語りましょう。何でも自分の感じるまま、思うままを打ち明けましょう。

・御霊の導きを仰ごう:
自分の知恵と経験に頼らず、語り掛けを聴く努力、従う柔軟さを持ちましょう。
 
4.御霊によって進むとは?→共同体としては、隊列を作って進む
 
 
・互いの歩調に合わせよう(25節):
25節の「進む」(stoichoomen)は「歩む」とは違って、軍隊で列を作って行進するという意味です。御霊による歩みは、個人的な営みであることは勿論ですが、それと共に、教会として共同的なものでもあります。潔めの歩みが個人の内面的な生活に限定されていて、クリスチャン同士の人間関係をどう開発するかを充分解明しませんと、きよめられたはずのクリスチャン同士で抜き差しならない緊張関係が生まれてしまいます。それを防ぐのが、互いに歩調を合わせて行進するという互いへの気遣いです。相互の魂への関心を持ち、相共に御国の旅路を進むことを励ましあいたいと思います。それが次の諸節で具体的に示されます。

・互いに尊敬しよう(26節):
異なる賜物を持ったお互いに対する心からの尊敬がありませんと、「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走って」しまいます。

・互いに愛を持って警告しよう(6:1):
もっと大切なのは、謙遜と愛をもって忠告することです。もちろん、陰での批判を慎むことが一番大切ですが、これはとても難しいし、実行もされていません。私達は、同じ教会に属するものとして、もっと率直に互いの問題点を言い合う雰囲気を育てねばなりません。

・互いの重荷を負おう(6:2):
互いに忠告するだけでなく、親身になって、互いの弱さ、辛さ、悲しさを担い合うものとなりましょう。祈りにおいて、実際の助け合いによって・・・。

・“Let us”のスピリット:
パウロはこの勧めを命令としてではなく、さあ、そうしましょう、という語りかけの形で示しています。これって素晴らしいことですね。主もまた、「どう思いますか、やりましょう。」という形で私達に語っていてくださいます。私達はどう答えましょうか。
 
5.聖霊によって歩むと?→「御霊の実」を結ぶ
 
 
御霊の実とは、キリストの持っておられた麗しい品性のことです。詳述は避けて、以下の9つについて、その反対概念との比較を述べます。

@憎しみでなくて愛
A悲しみでなくて喜び
B思い煩いでなくて平安
C短気でなくて忍耐
D意地悪でなくて親切
E邪悪でなくて善良
F疑いでなくて誠実
G暴虐でなくて柔和
Hでたらめでなくて節制
 
終わりに:「御霊の実」が豊かにを結ばれる一年であるように!
 
 
このような素晴らしい品性の実が、教会全体の空気となりますように。そして、その空気に導かれて多くの魂が主に導かれる一年となりますように!
 
お祈りを致します。