礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年2月1日
 
「あなたの上にあるわたしの霊」
イザヤのメッセージ(44)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書59章1-21節
 
 
[中心聖句]
 
  21   あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。
(イザヤ59章21節)

 
聖書テキスト
 
 
1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。3 実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。4 正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。6 そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。7 彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
9 それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。10 私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。11 私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。12 それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。13 私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、 心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。14 こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。15 そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。
16 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。17 主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。18 主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。19 そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。
20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」──主の御告げ──21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。
 
1.イザヤ59章
 
 
・58章から終わりの66章までは、イザヤ書後半(40-66章)の第三の区分で「贖いの完成としてのシオンの栄光」が示されます。

・59章は、神と人を隔てる罪を克服する救いを示します。
 
2.神と人を隔てる罪の壁(1-2節)
 
 
・イスラエルの疑問(58:3):
1節は、58:3に記されている疑問「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」と関連しています。厳しい生活状況、政治状況の中で、民は、精一杯断食しているのに、答えてくださらない、そこで、神の力(手)と、神の関心(耳)への疑いを持ったというわけです。

・神の御手(力)も御耳(関心)も変わっていない:
それに対するイザヤの応答は、神の力は変わっていない、神の関心も衰えてはいないというものです。

・それを妨げているのは罪:
神の業を妨げているものがあるとすれば、それは人間の罪だ、と主は語られます。自動車がトンネルに入ると、急にラジオが聞こえなくなる時があります。分厚いコンクリートが、強力な電波を遮ってしまうからです。主は、「その御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださる」(U歴代16:9)のであり、そのみ力は今でも変わりません。しかし、一向に祈りが答えられないように感じられるのはなぜでしょうか。イザヤは、それは人間の罪ゆえなのだ、と断言します。勿論、罪以外にも答えられない祈りの理由はありますが、多くの場合はそうであります。
 
3.恐るべき堕落の状況(3-8節)
 
 
ここで描かれている罪とは、イザヤの生涯の末期、ユダの歴史で最悪の王マナセの治世の時の道徳的腐敗を描いているといわれます。人々の罪が、その身体的な特徴で描写されています。

・手→流血と暴虐
・指→よこしま
・くちびる→偽り
・舌→不正のつぶやき
・足→悪行と流血
・思い→不義の思い

・パウロは、ローマ人への手紙の中で、この部分を引用しているのですが、パウロは、この描写が、人の罪とは普遍的であり、しかも深刻なものだという主張の裏づけであると語っています。「義人はいない。ひとりもいない。・・・『彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。』」(ローマ3:10、15−16)
 
4.罪は暗黒を齎す(9-12節a)
 
 
・預言者は、民の罪を負って告白:
神は光の元でありますが、罪という壁が、人間の心と社会に暗黒を齎します。9節が特徴的です。「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」1−2節は、イスラエルのことを「あなたがた」と呼んでおり、3−8節はイスラエルを「かれら」と呼んでいますが、ここでは「私たち」と呼んでいます。つまり、預言者は、民のことを第二人称で呼んでいたのを第二人称に変え、そして、ここでは第一人称「私達」に変えたのです。預言者は、罪の結果に苦しむ人々の真ん中に自分を置き、その罪を身代わりに告白しているのです。「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。」(12節a)
 
5.罪は積み重なる(12b-15節a)
 
 
・反逆と不正義の悪循環:
神への反逆(13節)は、公正や正義の衰えという悪循環を示します。
 
6.執り成し給う神(15b-20節)
 
 
・求む!執り成し手(仲介者):
罪がこのように社会全体を覆っている中で、主はその罪に心を痛める以上に、その罪に対して、執り成し手がないことを嘆いておられます。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(15−16節) 先ほども言いましたように、この罪の描写は、イスラエルの歴史の最暗黒期であるマナセの治世を描いているものと思われます。神は、その恐るべき状況にあって「とりなす者がいない」と驚かれたのです。「とりなす者」とは、ヘブル語ではマプギアです。これはパガ=出会うという動詞の使役形で、出会わせる、仲介する、和解協定を結ばせる、という意味です。英語ではone to interveneです。神はこの絶望的なほどに罪に満ちた人間と、いと清きご自分との間に入ってその断絶した関係を回復する人間を求めておられます。この仲介を見事に成し遂げたのは主キリストですが、しかし、私達は「とりなしのいのり」という形で、マプギアとなれるのです。

・今も「執り成し手」が求められている:
私達が生きているこの21世紀の世界を覆っているは、その暗黒度を増しています。神は、真実な執り成し手を求めておられます。先週の祈祷会は、グローバル祈祷会として、世界の様々な問題、日本の経済・社会・政治の課題を含めて祈りました。小さな祈り会かもしれませんが、私達はこの祈りが、「とりなす者がいない」という主の悲痛な訴えに対する答えであると信じています。

・神ご自身が執り成し手となる:
イザヤに戻ります。主は執り成しての不在に悲しみ、ご自分が執り成してとなろうと宣言されます。それが16節b−20節の言葉です。「そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。17 主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。18 主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。19 そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」この執り成し手は、まず、報複者として登場します。この場合の敵とは誰でしょうか。バビロンでしょうか。アッシリヤでしょうか。近隣諸族でしょうか。どれにも当て嵌まりません。オズワルトは「神はその造り給うたものに対する最終的な敵を滅ぼすために来り給う。それは混沌という名前の怪物ではなく、怪物である罪そのものである。」と解説しています。

・悔い改める者の赦しと癒し:
そして、その後、悔い改めるものへの赦しと癒しがなされるのです。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」(20節)祈りは聞かれないという訴え(58:3)が59章の根底にあったことを先ほど述べました。そうです、自分で自覚している罪を持ったままの祈りは聞かれません(詩篇66:18「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。」)しかし、罪を悔い改める祈りは聞かれます。その例はマナセの祈りです。彼は「史上最悪の男」というレッテルが貼られるほどの悪事を働きました。しかし、鎖を持って外国に連れて行かれて、牢獄の生活をしたときに、神の前に大いに身を低くし、釈放を求めたところ、主はその祈りを聞き入れなさったのです。「マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。・・・そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(U歴代33:9−13)

・「贖い主」キリスト:
ここで注目すべき言葉は「贖い主」です。53:12にあるように、主の僕キリストが贖い主なのです。キリストは贖いの業を成し遂げ、しかも今も生きて私達のためにとりなし続けていてくださるのです(へブル7:25)。
 
7.注がれる御霊(21節)
 
 
・素晴らしい恵みの約束:
恐るべき罪に対する徹底的な解決の上に立って、主はその民に素晴らしい恵みの約束を与えられます。「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」

・神の霊が心に注がれる:
ここで私達の上に注がれるのは、第一に神の霊です。神の霊が私達の霊に注がれる、これはキリストの贖いを元にして、聖霊が注がれた新約の救いの恵を示しています。神を愛し、神に喜んで従い、神を畏れる心、そのすべては聖霊の働きです。それがキリストを信じるものの心に注がれるのです。それによって、私達が義務ではなく喜んで主に従うことができます。それによって、神を愛し人を愛することができます。ある兄弟がクリスチャン生活15年を経て、「自分は本当には人を愛せないものだと分かった」と告白されました。本当に正直な告白でした。本当に人を愛し、神を愛するために、主の御霊が神の愛を注いでくださる以外に道はありません(ローマ5:5)。

・神の言葉が私達の思想となる:
神の言葉が私の上に置かれる、とは具体的に何を意味するのでしょうか。私達の思想、物の考え方、私の言葉が、神の御言によって影響され、導かれることを意味します。言い換えれば、聖書の思想が私の思想となり、聖書の生き方が私の生き方になり、聖書の示す品性が私達の品性となることであります。聖書の言葉に接する時、それは生きて働いて私達の地と肉となるのです。神の御言は生きているからです。イザヤは、その奉仕の初期に唇に火を頂いて清められ、神の言葉を語るものとされました。それはイザヤだけではなく、ペンテコステの恵に預かるすべての信仰者の恵となります。

・その恵は継承され永続する:
更なる恵は、この恵が永遠に続くということです。「あなた(イスラエルの民)の口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」霊的な意味で、イスラエルの子孫であるキリスト者は、正にこの恵の対象です。ここに座っている私達一人一人に約束されているのです。今週のあらゆる場面にも当て嵌まるのです。さらに、私達の生涯の終わりまで、また、生涯を閉じた後でも、いつまでも続く恵です。感謝しましょう。そしてその恵をいただきましょう。その条件は何でしょうか。20節にありますように「そむきの罪を悔い改める」ことです。

・信仰者が世界の光となる(60章):
この様なものを通して、神は今の闇の世界において私達を光として用いてくださいます。次の60章は、その輝きを示しています。主が私達を世における光として用いてくださいますように。
 
お祈りを致します。