礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年2月8日
 
「起きよ。光を放て」
イザヤのメッセージ(45)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書60章1-13節
 
 
[中心聖句]
 
  1   起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
(イザヤ60章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。6 らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来て、主の奇しいみわざを宣べ伝える。7 ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。8 雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか。9 まことに、島々はわたしを待ち望み、タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んでくる。主があなたを輝かされたからである。10 外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。11 あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。12 あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。13 レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。
 
始めに:「メサイア」との関連で
 
 
説教のイントロに、自分の話をするのはちょっと気が引けるのですが、今日の聖書箇所は私に取って特別な意味がありますのでお許し下さい。私は、小さい頃、自分の名前に対してコンプレックスをずっと持っていました。小学校では「テルテル坊主」としょっちゅうからかわれておりましたし、青年期のある時期はやった洗剤に「テル」というのがありまして、そのコマーシャルソングには、しつこいばかりに「テルテルテルテル」と歌われ、その度にみんなが私を見るという具合でした。

しかし、私の名前の由来がイザヤ60:1であり、その60:1がヘンデルのメサイアの中でも、最も印象的な独唱曲の中に入っているということが分かった時、コンプレックスは無くなり、名前に対して感謝を覚えるようになりました。Arise, shine, for thy light is come, and the glory of the Lord is risen upon thee.それほど、60:1というのは素晴らしい御言です。

さて、「起きよ。光を放て。」という御言に思い巡らしを向けます。幾つかの側面から考えましょう。
 
A.誰が「輝く」のでしょうか?
 
 
・闇の中を歩んでいたシオン:
これは、シオンに語られた言葉です。60:1は、59:20−21の続きです。59:20はシオンへの慰めに満ちた約束です。もう少し大づかみに言いますと、60-62章は、イザヤ56-66章部分のクライマックスで、回復された神の民としてのイスラエルの最終的栄光が描かれています。シオンは、「光を待ち望んでいましたが、闇の中を歩み、盲人のように壁を手探りして歩んでいた」(59:9-10)ものです。

・悔い改めて回復されたシオン:
しかしそのシオンが悔い改め、主の贖いを受け入れるとき、彼らは神の民として回復されるのです。

・主の霊が注がれたシオン:
そのシオンに主の霊が注がれ、主の言葉が彼らの思想となることが約束されました。素晴らしいことです。この町の人々は、義とされ、きよめられました。彼らの間では平和が支配し、恵が満ち溢れています。そのような人々は、主の栄光を反映して輝くことができるのだ、という風にこの節に繋がっているのです。

・クリスチャンも:
勿論、この預言は、文字通り「全ての」イスラエル人には当てはめられないでしょう。罪悔い改め、メシアを信じた真のイスラエルのことです。そしてそれは、私達クリスチャンに語られた言葉でもあります。というのは、主イエスが、「あなたがたは世界の光です。」(マタイ5:14)と光としてのクリスチャンの存在について語っておられるからです。パウロもまた、「あなたがたは以前は暗やみでしたが、今は主にあって光となりました。」(エペソ5:8)と語っています。
 
B.どんな状況で?
 
 
・暗黒の世界において(2節):
世界中を暗黒が覆っている、その只中で光るようにとのメッセージです。イザヤの時代は、戦争から戦争、征服と抑圧、暴虐と略奪が繰り返される大変な世界でした。それは、一重に真の神を知らず、畏れない心の闇から来るものでした。21世紀にはいって、状況は変わったでしょうか?変わるどころか悪くなるばかりです。特に道徳的腐敗は目を覆うような状況です。この時代にあって「曲がった邪悪な世代の中にあって、傷の無い神の子供となり、いのちの言葉をしっかり握って彼らの間で世の光として輝く」(ピリピ2:15)事が求められています。学校で、家庭で、会社で。
 
C.輝くとは?
 
 
・輝くこと:
「輝け」のヘブル語の「オール」とは、「光となる」「明るくなる」という意味です。辞書には「太陽のように」と記されています。エルサレムの地形は大変ユニークで、ヨルダン川の東にある高地から突然のように陽が射して来る、周りの谷間がまだ暗やみに覆われているときに、エルサレムの白い城壁が輝き始め、そのまま昼になるのです。私達は自分が発光体ではありませんが、主の栄光を反映して輝くことが出来ます。イスラエルが光り輝けるのは、「主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とその理由が説明されています。私達は鈍い、汚れた鏡のようであってはなりません。主の栄光を、そのまま反映させる、曇りの無い鏡となりたいと思います。その時、光に集まる虫のように、多くの民が礼拝のためにエルサレムに集まってきます。

・立ち上がること:
起きるというのはヘブル語で「クーム(=立ち上がる)」と言います。その多くの用例を見ると、静かな現状維持的な生き方から、積極的な行動・攻勢に打って出る、という意味で使われています。例えば、創世記13:17「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。」という命令ですが、これはアブラハムが甥のロトと別れた後で、神が最大限の土地を与えること約束し、それを獲得するために立ち上がれとおっしゃった時の言葉です。私達も自然に光り輝くこと以上の、意識的行動を取るべきこと示唆しています。主イエスも「あかりを枡の下に置かないで、蜀台におきなさい」(マタイ5:15)と語られました。主から頂いた光を高いところに置いて、その光を届ける積極的行動を勧めておられます。

・魅力的存在になること:
道徳的・霊的な輝きと共に、エルサレムが美しく立て直され、物資が集積し、富が集中するという政治的・経済的な繁栄もエルサレムの魅力の内容です。この章の描写を見ると、イスラエルの黄金時代ともいえるダビデ王・ソロモン王の栄華を思い出させます。その時、周りの国々が競って貢物を贈り、敬意と服従を誓い、更にシェバの女王のように、その栄華の秘訣を探りにわざわざエルサレムを訪れ、その素晴らしさの中に、神の栄光を見ました(7,9,13-16,18節)。
 
D.その結果
 
 
・諸国の民が主に帰依する(9節):
周囲の国々は、競って貢物を持ってエルサレムにやってきます。外国人が、エルサレム復興の手伝いをします(10節)。さらに、外国人が、主の民の模範に習って、主の道を歩みます(3節)。

・嘆きの日が終る(20節):
神ご自身がエルサレムの民の光となるために、自然の太陽も月も必要となくなるほど、人々は輝くのです。20節の言葉は、大きな慰めではないでしょうか。「あなたの嘆き悲しむ日が終わる」。これは何という慰め、何という希望でありましょうか。私達の世界には多くの悲しみがあり、苦しみがあります。それは世の終わりまで続くことでしょう。しかし、その嘆き悲しむ日は終わるのです。その究極的成就を預言しているのが黙示録21-22章です。イザヤの預言を引用している場所に目を留めましょう。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:2-4) 「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。 25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」(黙示21:23-26)「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示22:5)いつ終わるだろうかと思われる長いトンネルを通過中の方がありましょうか。主ご自身が光となってくださるという事実とその恵を信仰によって把握しましょう。そして、悲しみの日には、必ず終わりがあるということを確信しましょう。
 
おわりに:今の立場で精一杯輝こう
 
 
真珠湾攻撃を現場で指揮した淵田美津雄氏が、後にクリスチャンとなり、伝道師として活躍されたことは良く知られています。また、その直接のきっかけが、東京の空襲に関わったデシエーザー宣教師の証であることも知られています。ただ、私は淵田氏が、その前にもう一つ美しいエピソードがあったことを最近知りました。淵田氏が、アメリカ軍に囚われた日本軍捕虜の虐待が無かったかを調査していた時、その反対の事実を知って愕然としたというのです。それは、ユタ州のキャンプに居た20名ほどの傷病兵でした。かれらはマーガレット・コヴェルという20歳前後のボランティアが親身になって世話をしてくれたことでした。朝やってきては、何くれと世話をし、夕方には必要なものを見つけてはメモをして帰る。翌朝にはその必要なものを揃えてくる、という具合なのです。なぜ、そのような献身的な奉仕をするのか、捕虜達が問い詰めたところ、マーガレットはとうとう告白するのです。「実は私の両親は日本の軍隊によって殺されたのです。」両親はバプテストの宣教師であったが、日本から逃れてフィリピンに居る時に捕まって、首を切られました。然し両親は日本軍を恨むことなく、祈りながら処刑されたことを知ったマーガレットは、自分は宣教師になって日本に行きたい、しかし、その前にここに居る日本人に主の愛を伝えようと導かれたというのです。

私達も、遠いところでの宣教は難しいかもしれませんが、今の立場で、多くの人々にキリストの愛を伝えることで宣教は可能です。今の場所で輝くものとなりましょう。
 
お祈りを致します。