礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年2月15日
 
「解放の福音」
イザヤのメッセージ(46)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書61章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  1   神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・・
(イザヤ61章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。5 他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。
7 あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。8 まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、永遠の契約を彼らと結ぶ。9 彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。
10 わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。
 
はじめに
 
 
私は今聖書通読がイザヤ書に差し掛かっており、この連続的説教のために印をつけた聖書を読み直しています。改めて、イザヤ書の壮大さ、福音的な響きに感動しています。正にイザヤ書は第五の福音と呼ぶに相応しい預言書です。その福音書の中でも最も感動的な、そして明るい希望に満ちた部分がこの61章です。先ず61章の流れを見、それから、核心部分の福音に私達の心を向けます。
 
A.61章の流れ
 
 
・60章は、回復して「光り輝くシオン」:
先週は、60:1から、”Arise, shine”というメッセージでした。罪を悔い改め、主の贖いを頂いたシオン(に代表されるイスラエル)が、光り輝く存在になって、周りの国々を照らす、という壮大な神の救いのご計画が示されているのが60章です。

・61章は、光の元である「主のしもべ」:
この61章は、その続きですが、続き以上です。エルサレムに光を齎す人間が「わたし」という第一人称でかたっているのです。それは、後に説明しますが、「主のしもべ」です。尤も、61章全体がしもべの告白ではなく、主ご自身の宣言も挿入されています(8-9節)。8節は、「わたしは公義を愛する主だ。・・・」と語ります。残りの節は、みな神に油注がれ、神に派遣されたものとしての「わたし」です。

・「主のしもべ」とは「主の使命を遂行するために選ばれ、立てられた人物」:
1節を読みましょう。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」これは、イザヤ書の中で41、42、50、53の各章で「主のしもべ」として断続的に示されてきたキャラクターの延長と見ることが出来ます。さて、主のしもべとは「主の使命を遂行するために選ばれ、立てられた人物」のことです。具体的には、イスラエル全体とか、イスラエルの中の特別な人々とか、預言者とかを指すのですが、究極的には、来るべきメシア(救い主)を指します。

・61章のしもべは、メシア(油注がれたもの)のこと:
特に、この61章で示されるしもべは、来るべきメシアに当て嵌まります。なぜなら、そのしもべは「聖霊に満たされ、油注がれ、神に派遣されたもの」として紹介されているからです。この預言は他の人物ではなく、メシアを指すものと考えられます。キリストということば(ヘブル語でメシア)が「油注がれたもの」という意味であることは、何回かお話ししました。主イエスは正に神に油注がれ、力と知恵とに満たされたメシアでした。

・主イエスのナザレ訪問の出来事(ルカ4:15-22):
主イエスは、その奉仕を始めなさった初期のころ、イエスの故郷であったナザレを訪れ、安息日にいつものようにユダヤ人会堂を訪れ、礼拝に加わりなさったとき、たまたま開かれたイザヤ書61章を朗読し、イザヤ書の巻物を巻き返して、そこに集まってきた礼拝者に語り掛けました。固唾を呑んで見守る聴衆に向かって「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われました。ご自分が約束のメシヤであると間接的に宣言されたことを意味します。この驚くべき宣言は、これを聞いた多くの人々には喜びをもって受け入れられました。ここで人々が聞いた「その口から出て来る恵みの言葉」とは、イザヤ61章の解説として、神がその民を顧み、本当の釈放と救いを与えなさるという福音のことばのことでありましょう。素直な心をもってイエスのことばを聴いた人々は、これに驚き、喜びました。
 
B.解放の福音
 
1.貧しい人々に良きおとずれが伝えられる
 
 
・貧しさを自覚するものに:
自分の霊的状態が貧しく、乏しいと自覚するものがキリストの良きおとずれを受け取ることができます。「貧しい」という言葉を説明するものとして「心の傷付いた者」ということばが続いています。主は、苦しむものと共に苦しみ給う主です(63:9)。人生の悲劇や悲しい状況や罪が齎す心の傷が、キリストによって癒される姿を指します。

・贖い主ご自身が「良いしらせ」:
良きおとずれとは何でしょうか。それは、伝達者の存在そのものです。彼は、53章において、人々の罪を負い、傷つき、苦しみ、その贖いを全うしてくださいました。それが良きおとずれです。
 
2.捕われ人が解放される
 
 
・罪とサタンの縄目にあるものに:
この釈放とは、直接的にはバビロン捕囚からの釈放が意味されていますが、究極的には、罪とサタンの縄目から自由にされることを意味します。私達は奴隷でしょうか。主は答えられました。「罪を犯すものはだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)と。パウロもまた、「あなたがたは、もとは罪の奴隷でした」(ローマ6:17)と言い、それを描写して、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:15-24)と告白しています。

・王たる権威で釈放:
その奴隷状態から釈放するのは、王様としての権限と権力を持った人だけです。イスラエルの歴史では、ペルシャ王クロスが捕囚の民を釈放しました。私達の時代では、総理大臣などが特赦をすることが出来ます。メシアである主のしもべは、心においては謙り、仕えるものですが、実は王として油注がれていたのです。その王なるしもべが、全き贖いの代価を払い、罪の赦しと罪の束縛からの釈放を宣言されるのです。これ以上の自由はありません。赦免とは、文字通りには、「目が開かれること」(パークァーハという動詞の繰り返し形で、目が広く開かれること)です。牢屋の扉が急に広く開かれ、暗きにいた囚人が目がやっと光を見たという思いで立ち上がる様を想像してください。
 
3.悲しみの極致から喜びの極致に
 
 
・灰(悲しみ、嘆きのシンボル)→頭の飾り(お祝いのシンボル):
主のみわざとして、主の恵みの故に文字通り変えられるのです。因みに、大きな悲しみのときに灰を被った事例として、ダビデの娘タマルが異母兄アムノンにはずかしめられた時に、「灰を頭に被り、上着を引き裂き、手を頭に当てて嘆きの叫びを挙げながら歩いていった」(2サムエル13:19)ケースを挙げることができます。

・悲しみ→喜びの油(髪に油を塗ることは祝福のシンボル):
喜びの油とは、詩篇45:8にもありますように、王としての任職の油であり、また、マタイ6:17にありますように、元気印の身だしなみだったのです。

・憂いの心→賛美の外套:
憂いの心の代わりに賛美の外套が私達の存在のすべてとなります。
 
4.生命力が横溢する
 
 
・神からはなれた命の枯渇(イザヤ1:30):
自己中心で、神から離れた生活は、葉の萎れた樫の木のようです(イザヤ1:30)。

・神に連なる命の横溢=常緑で生命力溢れる樫:
しかし彼らは、「義の樫の木」、栄光を現わす主の植木」と呼ばれます。しかし、神の力と義の中に生きている人は、樫の木が常緑で生命力があるように、地味ではあっても命に溢れた生活を送ります。こうした、個人的変革は、民族的・国家的祝福に繋がっていきます。それが4-11節に記されていますが、省略します。
 
5.これらは、「現実のもの」である
 
 
・「恵の年」=主の受け入れ期間:
さて、このような祝福が手の届くところに在るよ、というのが「恵の年」という言葉です。ヘブル語の語根はラーツォーンで、〇〇を喜ぶ、好意的に受け入れるとの意味です。英訳はacceptable, or of favorとなっています。この期間は特別な配慮で受け入れるよ、という期間のことです。同じ言葉が、49:8にありますので参照しましょう。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」この言葉は、新約では、パウロがこれを、主が憐れみの期間として、悔い改めるものを赦し、立ち返るものを回復させるために備え給うた期間を指すものとして引用しています。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Uコリント6:1-2)。

・その期間には終わりがある(Uコリント6:1-2):
一つ覚えなければならないことは、恵の日には終わりのあるものです。それが、「恵の年」に続く「復讐の日」の宣告の意味であると思われます。
 
おわりに
 
 
提供されている釈放の福音を受け入れるかどうか、それは私達に掛っています。今は恵の時、救いの日です。今日と呼ばれるときに、主を呼び求めましょう。
 
お祈りを致します。