礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年2月22日
 
「『わたしの喜び』となる」
イザヤのメッセージ(47)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書62章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  4   あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。
(イザヤ62章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。2 そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。4 あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。5 若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。6 エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。7 主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。8 主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。9 取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」10 通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。11 見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。12 彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」
 
はじめに
 
 
59章から62章にかけて、シオン(エルサレム)の回復が預言されています。61章は福音のメッセージが伝えられていますが、62章は、それを伝える熱心さが示されます。特に、シオンの民とその土地の祝福される象徴として、新しい名前が与えられ、町の魅力が輝くことが預言されます。
 
A.「わたしの喜び」の民となる
 
 
・シオンの輝きが回復する(1-3節):
1-3節には、シオンの輝きの回復が預言されます。「その(シオンの)義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。 2 そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。 3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。」素晴らしい預言です。これは、60:1にある「主の栄光があなたの上に輝いている」という預言の思想を引き継いで、より麗しく描いています。シオン(エルサレム)がその霊的な輝きと物質的な繁栄のゆえに、諸国の間で羨まれるような存在となることが、最高の表現力をもって示されています。

・新しい名前が与えられる:
その中でも、「主の口が名づける新しい名で呼ばれる」という預言が、この章の鍵です。4節の前半にこう約束されています。「あなたはもう、『見捨てられている。』(アズバー)と言われず、あなたの国はもう、『荒れ果てている。』(シェママー)とは言われない。かえって、あなたは『わたしの喜びは、彼女にある。』(ヘフツィバ)と呼ばれ、あなたの国は夫のある国(ベウラ)と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。」

・「見捨てられている」民(アズバー、49:14、54:6-8) :
彼らの呼び名は「見捨てられている」と言うものでした。実際、彼らは、その罪のゆえに主から見捨てられたのです(54:6)。それ以上に深刻だったのは、彼らが「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」(49:14)という僻んだ意識を持っていたことです。バビロン捕囚の苦しさを経験している人々は、神に捨てられることの辛さを嫌というほど感じていたに違いありません。私達が似たような経験をしたのは、第二次世界大戦の後であったと思います。自国の利益追求のために無謀な戦争に突入し、あまつさえその戦争遂行の為に妨げとなる考えを持った人々を容赦なく投獄した罪は覆うべくもありません。あの戦争の後で、二度とこの過ちを繰り返さない、と言うのは多くの国民の率直な気持ちであったのです。もしも、この会衆の中に、私は神に見捨てられた、神に忘れられた存在なんだ、という思いを持った方がおられましょうか。仮に、私達の側での罪・反逆のゆえに本当に見捨てられたとしても、それは一時的なものだと覚えてください。「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」(54:7-8)と主が語っておられるからです。

・「わたしの喜びは、彼女に」(ヘフツィ・バハ)へ:
その「見捨てられている」民の名前が、「わたしの喜びは、彼女にある。」(ヘフツィ・バハ)となります。この名前は、ヒゼキヤ王の妃と同じ名前です(21:1)。イザヤと同時代の人物ですから、そこからヒントを得たのかもしれません。いずれにしても、主が、虫けらのように小さく、価値のない人間に目を留めてくださる、そして私達の存在自体が主の喜びとなるとは、正にこれは驚くべき特権です。名前の変更はその背後にある神の大いなる憐れみと、その救いに示される力を示している点で重要です。たかが名前、されど名前です。主は、私達をヘフツィバハと呼んでくださいます。夫婦で言えばマイ・ダーリン、マイ・ハニーといった所でしょうか。主は私達のことを、「しょうもない罪びと」「反逆者」などと呼ばないで、ヘフツィバハと優しく読んでくださいます。嬉しいことですね。
 
B.「夫のある国」
 
 
・「荒れ果てている」国(シェママー)(49:19) :
イスラエルは、その殆どの住民を捕囚によって連れて行かれ、町が荒れ果ててしまいました(49:19)。土地がそのパートナーである人々を失ったら、どうなるでしょうか。正にそれは、ゴーストタウンであり、ゴーストカントリーとなってしまいます。

・「夫のある」国(ベウラ=結婚した)に変えられる:
「荒れ果てている」国は、「結婚した」(ベウラ)の地へと変えられます。先ほど「ああビュウラ、我が地よ」と歌いましたね。あのビュウラの歌の元になっているのがこの聖句です。これは、バアラー(結婚する、所有する)という動詞から来ている言葉です。「結婚する」と「所有する」が同じ動詞であるというのは、なにか意味深いですね。結婚することは、互いの大切な部分を所有することだからです。

・花嫁としての土地と花婿としての住民の結婚:
ここでは、国を女性にたとえ、住民を男性に譬えて、土地と住民が結婚したように賑わいますよ、と預言しているわけなのです。それが、「若い男が若い女をめとるように、あなたの子ら(イスラエルの民)はあなた(シオンの土地)をめとり、」という5節前半の意味です。不思議な言い方ですが、土地が、その土地に相応しい人々によって住まわれるとき、土地は喜び、住むべき人々も喜ぶ様を示しています。土地では分かりにくいかもしれませんが、家ならば分かり易いでしょう。私達がケニアで住んで居りましたナクルの近くに物凄い豪華な館があります。イギリスのイーガートン卿という貴族が、その奥さんを迎える為に100年ほど真に立てた家です。部屋の数が30余り、舞踏会の部屋、小チャペル、図書室、食堂、などなど、どの部屋も豪華でした。しかし、何年も使われずに荒れ果て、その台所に不法占拠した地元の人々が、七輪のようなもので煮炊きをし、洗濯物を干している姿を見て悲しい思いとなりました。この場所に、相応しい住人が戻ってくれば、家も喜び、住人も喜ぶことだろうと想像しました。イスラエルが喜びをもって故国に帰ってくることは、似合いのカップルが結婚するように、相応しい関係なのです。

・花嫁としての民と花婿なる主の結婚:
5節の後半は、結婚関係の比喩が変わります。「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」ここでは、神ご自身が花婿に、そしてイスラエルの民が花嫁に譬えられます。この譬えは、先の譬えよりももっと聖書では頻繁に出てきます。主の喜びはその花嫁であるイスラエルとなります。主の花嫁であるイスラエルの喜びは、主のご臨在にあります。ハネムーンのカップルが互いの存在をこの上ない喜びとするように、主が私達を喜びとしてくださり、私達の喜びも他の物や、他の人ではなく、主に向けられるのです。新約では、花婿であるキリストと花嫁である教会を指しています。私達はみな、三国一の花婿であるキリストに許婚された花嫁なのです。花婿は私達を愛し、命を捨ててくださいました。私達はこのお方に命を捧げています。男女の愛の美しさを歌った雅歌の終わりで、おとめが「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(雅歌 7:10)と歌います。私達の主イエスに対する愛が、こんな風に純粋で新鮮でありたいものです。
 
C.休まず祈れ
 
 
このような素晴らしい互いの関係が確立するためには、主のお働きと、人の働きが必要です。

・主のお働き:
イザヤは、主とイスラエルの関係の回復のためには、「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」(1節)とおっしゃいます。何と素晴らしいことでしょうか。何たる励ましでしょうか。

・私達の祈り:
しかし、私達の側でも、主のお働きを漫然と待つのではなく、城壁の見張り人が叫び続けるように、私達も祈り叫び続けねばなりません。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」(6節)この見張りの役割は二つです。一つは、主ご自身に対して、そのお約束を忘れないようにリマインダーのメッセージを発信することであり、もう一つは、人々に対して、悔い改めて主に立ち返るように促すことです。 その祈りは、目的を達するまで、継続されねばなりません。「主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」(7節)ペヌエルでのヤコブが「私を祝するまでは、あなたを離しません。」(創世記32:26)と迫ったような真剣さが私達には必要です。神が愛し給う魂とは、このような初々しい真剣さをもって主に近づく魂です。
 
終わりに
 
 
主が私達を喜びの対象としていてくださる、そして私達も主を喜びの対象として捉える、これに勝る交わりはありません。礼拝の終わりに、「主よ、わが主よ」を歌います。特に、「今日初めの心地して」というくだりがあります。本当に新鮮な、新婚のような初々しさをもって主を愛し続けるものでありたいと思います。
 
お祈りを致します。