礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年3月1日
 
「共に苦しみ給う主」
イザヤのメッセージ(48)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書63章7-19節
 
 
[中心聖句]
 
  9   彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
(イザヤ63章9節)

 
聖書テキスト
 
 
7 私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。8 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、13 荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。14 家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。15 どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。16 まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。17 主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。18 あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵は、あなたの聖所を踏みつけました。19 私たちは、とこしえからあなたに支配されたことも、あなたの御名で呼ばれたこともない者のようになりました。
 
始めに:63章について
 
 
いよいよイザヤ書も残すところ4章となりました。名残惜しい感じです。しかし、数えて見ますと、これが終わって丁度受難週になりますから、これも摂理でありましょう。

さて、59-62章では「シオンの栄光」が預言されました。この63章と64章は、その続きで、イザヤの祈りと訴えです。

この章のアウトラインを先ず述べます。

・エドムを裁き給う主(1-6節):
この文節は恐ろしい戦士の姿を描写しています。全部の節がそうですが、特に6節「わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」その戦いの相手はエドム、その首都はボズラです。エドムとは、イスラエルの南東に位置する国民のことですが、ここでは、特別にエドムへの審判という歴史の出来事ではないようです。むしろ、エドムに代表される世俗の力、神の支配に逆らおうとする人間の罪の象徴としてエドムが示されているのです。

・神の恵の回顧(7-10節):
第二の文節は、前とは打って変わって、恵と慰めに満ちています。イザヤは、人間側の大きな罪を認めながらも、それを乗り越える神の豊かな恵みを思い出しています。その冒頭が7節です。「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」この7節で二回繰り返されている言葉は「恵み」です。ヘブル語ではケセドと言います。他の国の言葉に訳しにくい言葉で、「揺るがない愛」「慈愛」「誠実」「憐れみ」と色々な訳がなされますが、基本にあるのは、「契約に基づく愛」です。人間の世界では、結婚の時の誓約と似ています。誓約に基づいて、状況が変わっても、気分が変わっても、変わらない愛を伴侶者にささげる行為がケセドです。イザヤは、8−9節で、出エジプトの出来事を思い起こし、そこに神の誠実なる愛を見出します。10節は暗転して、その誠実な愛を裏切ったイスラエルの罪が描写され、11−14節には、そのイスラエルが悔い改めて主を求め、その結果主の助けを頂いた歴史も回顧されます。

・神への訴え(15-19節):
イザヤは、罪の結果に苦しむイスラエルの現状を再び見つめなおし、その回復を祈ります。その祈りは17節に集約されます。「主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。」

今日はその中でも、神の恵みの回顧をしております9節に焦点を当て、神のみ業の三つの側面を学びます。
 
A.苦しみ給う神
 
 
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、・・・」

・エジプトの奴隷状態を共感(出3:7−8):
イスラエルがエジプトにおいて奴隷の状態に置かれ、呻き苦しんでいた時、その叫びは、たしかに神の御許に届きました。出3:7−8にこう記されています、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地・・・に、彼らを上らせるためだ。」その時、神は、イスラエルの悩みをご自身の悩みとして受け取りなさったのです。

・教会への迫害=自分への迫害 (使徒9:4):
教会がサウロ達によって迫害されていた時、主イエスは、「なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)とサウロ(後の名はパウロ)に問われました。つまり、キリストは、苦しんでいる教会とご自分を一体化されたのです。サウロが迫害していたのは「教会」でした。彼は、キリストに直接逆らうという意識よりも、彼の弟子グループを破壊しようという意識を強く持っていました。パウロ自ら「神の教会を迫害し」(ガラテヤ1:13)と後に語っていることからもこれは明らかです。そのパウロに対して主イエスは、「あなたは私を迫害している」と語られました。ウェスレアン注解は、「キリストは、迫害で苦しむ民と、ご自身を同一であるとされたことが明白に告げられた」と説明しています。もっというと、教会の痛みは私の痛みだ、教会を迫害することは私を迫害することだ、と語ることで、教会はご自分のからだなのだ、と主張しておられるのです。

・受肉は、苦しみの共体験 (ヘブル2:17−18):
私達と共に苦しんでくださる神の究極的な表現は、キリストの受肉と十字架でした。なぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、苦しんでいる人類の苦しみを共に舐めてくださるためでした。「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17−18)私達は、こんな苦しみをしているのは世界中で私だけだ、誰も私の苦しみを理解してくれないと思ってしまうことはありませんか。私達が苦しむ時、主はともに苦しんでくださいます。イエスは同じ苦しみを通り、理解しているよと語ってくださいます。子供が苦しみに遭うとき、親はそれ以上の苦しみを経験するのではないでしょうか。神は私達の苦しみを父なる神として共に経験されるのです。

・十字架は、悩みを負う行為 (イザヤ53:4):
主イエスは、その苦しみの極致として十字架の苦しみを負われました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53:4)

私達が困難や悩みにぶつかる時、神は超然としておられるお方ではなく、私達と共に悩んでいてくださる、という事実を思い出しましょう。
 
B.救い給う神
 
 
「ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、・・・」

・「ご自身の使い」とは、主の臨在(出33:14):
神は、ただ心情的に私達と共感してくださるだけではありません。力ある御手をもって私達を助けてくださいます。「ご自身の使い」と訳されている言葉の元は、「御顔の使い」です。「御顔」というのは、神の臨在のことです。出33:14には、「わたし自身が行って、あなたを休ませよう」と言われていますが、それもヘブル語の表現では、「私の顔が行って・・・」となるのです。ですから、ご自身の使いと言うのは、神の代理人というのではなく、神ご自身が見える形で臨在を表し、イスラエルを助けなさることを意味していました。

・出エジプトにおける奇跡的救い:
出エジプトのとき、エジプト人の長子を打ち、紅海を二つにわけて下さった神として働いてくださったのです。

・迫害者サウロを変えた奇跡:
その神は、イザヤの時代も変わらず働いてくださいました。初代教会でも働いてくださいました。キリストは、その力強い御手をもって迫害の親玉であるサウロを見事にひっくり返しなさいました。

・今日も変わらず働き給う神:
主は、苦しむご自分の民を放置なさいません。そして、今日も変わらず働いておられる神です。
 
C.担い給う神
 
 
「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

・出エジプト時「鷲の翼に載せて」(出19:4)導かれた:
私達を救い給う事実が、「担う」という表現で繰り返されます。これは、出エジプトのとき、主が「あなたがたを鷲の翼に載せて・・・」(出19:4)民を導きなさいました。主はご自分の責任で、民を安全な道に導いてくださるお方です。

・その後もイスラエルは担われた(イザヤ46:3):
私達を背負い給う主ということについては、昨年9月21日の愛老聖日で、イザヤ46:3−4から詳しく語りました。イスラエルは「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者」と呼びかけられます。出エジプト時代から鷲の翼に載せて担われて来たイスラエルは、今、捕囚の憂き目に遭ってが、主はバビロンから運び出してくださる、というのがこのお約束の主意なのです。

・一生涯私達を担い給う(イザヤ46:4):
主は、神の民個々人を一生涯責任を持ってくださいます。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束してくださいます。「あしあと」という詩の締めくくりは、こんな言葉です。

「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。
 あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 足跡が一つだった時、
 私はあなたを背負って歩いていた。」
 
終わりに:苦しみ給う主にすべてを打ち明け、救い給う主を信じ切り、担い給う主に委ね切ろう
 
 
私達は、個人としても、また地域教会としても、更に、日本・世界の教会全体としても、多くの悩みと苦しみを抱えています。しかし、主を信じましょう。主は、そのみ使いを遣わして、私達を助け、否、私達を背負い給う主であることを。苦しみ給う主にすべてを打ち明け、救い給う主を信じ切り、担い給う主に委ね切りましょう。
 
お祈りを致します。