・シナイ山での顕現を思い出す: 1節で、「天を裂いて降りてこられる」「山々が揺れ動く」、2節の「御前で震える」、3節の「降りてこられる」「山々は揺れ動く」という表現は、出エジプトの直後、イスラエルがシナイ山に到着した時の出来事を思い出しているものでしょう。イザヤは、この暗黒の状況を打開するのは、神が圧倒的な顕現をもって臨んでくださるほかに希望はないと考えます。そして、その圧倒的な神の顕現を記録している出エジプトの直後の出来事、イスラエルがシナイ山に到着した時の事を思い出しました。この時神は、イスラエルの神として初めて民の前にご自身を顕わされました。出エジプト記を見ましょう。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」(出19:16−18)とあります。目に見えない神が、人の目に見えるような形で降りてこられた、その時に山々が震い動き、稲妻とラッパの音が鳴り響きました。その恐ろしい状況がこの記事を通して目に浮かんできます。 |
・イザヤの祈り: |
@「天を裂いて降りてきてください」(1,3節): イザヤの祈りは、シナイ山で下ってくださったときのような神の圧倒的な存在感を再現して欲しいと言うものです。「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。・・・ あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」「天を裂いて」とは、神と人間との距離を一挙に縮めてくださいという祈りです。確かに私達は、罪を犯し、聖なる神様が遠くに折られるように感じてしまっている、しかし、その距離を縮めて降りてきてくださいという切なるイザヤの祈りの気持ちの現れです。雷と言うのは、空中に溜まった莫大な電気エネルギーが、絶縁体であるはずの空気をかき裂いて地上に降りてくる自然現象ですが、正に神が雷のように天を裂いて降りてきて欲しいとイザヤは祈っています。 |
A「民を清めてください」(2節): 「火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように・・・ 。」聖書を通じて、「火」は神の聖さの積極的な働きの象徴です。イザヤ自身、汚れた唇を、神の火によって清められました。イザヤは、その聖めの火が、神の民を聖め、人々の心を熱くし、その民を作り変えることを祈ります。具体的には、絶望的な状況に追い込まれた神の民が、神の直接的な干渉によって悔い改めに導かれ、神の民として回復されることを祈るのです。この世の中で、固いものは何でしょうか。私は、人との心だと思います。これほど頑なで、自己中心で、壊れにくいものはありません。神の干渉を祈るのは、この硬い殻のような人の心が打ち砕かれることです。 |
B「主の聖名が崇められますように」(2-4節): イザヤの祈りの究極は、誰が見ても「神がなさった」としか説明しようが無いほどの鮮やかな勝利を通して、主の聖名は人々に知られ、恐れられる事です。「あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。」神の清き聖名が世に知られることを祈ります。私達の祈りの究極もそこにあります。主の祈りの最初は、「聖名の崇められますように」だからです。 |
・訴えの根拠: |
@主は、イスラエルの父・造り主(8-9節): このような大胆な祈りの根拠は、神とイスラエルとの親子関係です。64:16は、「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」と語り、神を父と認めています。64章にもその思想は続きます。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。」「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。」(8−9節)と、創造者によって特別に心を籠めて作られた傑作物がイスラエルなのだと言っています。これは、イスラエルが特別に勝れているという意味ではありません。その反対で、何の価値もないイスラエルを、主はその憐れみのゆえに格別に目を掛けて愛しておられるということを示します。ですから、イザヤは、父が子を憐れむように、この窮状を救ってくださいと、せっついた祈りを捧げているのです。 |
A主は、憐れみの神(12節): イザヤは、神の御心を知っていると考えています。その神が、どうして現在の絶望的な状況を見て黙っておられるのだろうかという焦りに似た思いを表しています。それが、64章の最後の言葉です。「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(12節)私は、この言葉の中に、憂国の志士としてのイザヤの魂の叫びを見る思いです。イザヤは、神が罪を犯す民を裁きなさること自体に異議を唱えてはいません。しかし、それにも限度があるのではないか、と神の愛に訴えているのです。 |