礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年3月8日
 
「天を裂いて降り」
イザヤのメッセージ(49)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書64章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  1   ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。
(イザヤ64章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。2 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。3 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。5 あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。7 しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。8 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。9 主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。10 あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。11 私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。12 主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。
 
64章:神の力強い干渉を求める祈り
 
 
昨週は、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ63:9)という聖句を中心に、私達と共に苦しみ給う主に関して、慰めと励ましを頂きました。その時にも、63章と64章はイザヤの祈りと訴えと言いましたが、その祈りの頂点とも言えるのが1節です。ただ、その前に、64章のアウトラインを先ず述べます。

・神の「顕れ」を祈る(1-5節a):
63章後半で民族の惨状を嘆いているイザヤは、目に見える形で神の干渉と助けを求めます。

・民族の罪の告白(5b-7節):
イザヤは、長年に亘る民族の罪を告白します。そこで使われている絵画的表現には興味を惹かれます。「不潔な着物」(人間の義の限界として)、「枯れ葉」(命の元から断たれた人間のはかない存在)、「風」(罪人への裁き)などです。神を棄てた民が、神に棄てられる悲しい姿が描かれています。

・神の憐れみへの訴え(8-12節):
イザヤは、神が父であり、創造主であり給うことを基にして、民への懲らしめを長続きされないようにと、神の憐れみに対する訴えを致します。本当にこれは悲痛な訴えです。

今日はその中でも冒頭の1節に焦点を当て、イザヤの祈りの心を探ります。
 
A.民族の悲惨な状態
 
 
・神から棄てられている(63:15-19):
64:1の祈りは、前章の後半の思想を受け継いでいます。63:15-19でイザヤは、罪の結果に苦しむイスラエルの現状を見つめています。18節には、「あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵は、あなたの聖所を踏みつけました。」と言って、神から棄てられた同族の惨状を述べ、その状況を見てください、と訴えます。「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。」(64:15)と質問を投げます。預言は、自分の民族の惨めな現状を見て、腸が千切れる思いをしているのです。

・それは罪のゆえ(5b-7節):
5節bを見ましょう。「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。」と自分達の罪を告白しています。神が怒り給うということは、神の気まぐれ的な怒りを意味しません。それは、正義の現われであり、一重に人間の罪のゆえです。それも、尋常な罪ではなく、ひどいものです。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(6節a)私達が正義と思っている事でさえも、神の前では不潔な(文字通りには月のもので汚れた女性の着物のような)ものでしかないといっているのです。「私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます」(6節b) という比喩は、詩篇1篇を思い出させます。命の源である神から離れた人間は木の幹から切り離された葉っぱのように死んだ状態になり、永遠の裁きの下に吹き寄せられるしかありません。

・「聖なる」町のありさま(10-11節):
この罪の結果がどうなっているかを、10−11節は実に厳しく描写しています。「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。」ここで、「聖なる」が二回も繰り返されているところが印象的です。聖い神に属しているはずの「聖なる」町が、荒野となり、聖なる神の臨在の象徴である神殿は火で焼かれてしまう、という歴史的事実の中に、聖い神の聖名が、神の民の不始末によって汚されてしまった悲しい現実を見つめています。
 
B.神の干渉への訴え
 
 
・シナイ山での顕現を思い出す:
1節で、「天を裂いて降りてこられる」「山々が揺れ動く」、2節の「御前で震える」、3節の「降りてこられる」「山々は揺れ動く」という表現は、出エジプトの直後、イスラエルがシナイ山に到着した時の出来事を思い出しているものでしょう。イザヤは、この暗黒の状況を打開するのは、神が圧倒的な顕現をもって臨んでくださるほかに希望はないと考えます。そして、その圧倒的な神の顕現を記録している出エジプトの直後の出来事、イスラエルがシナイ山に到着した時の事を思い出しました。この時神は、イスラエルの神として初めて民の前にご自身を顕わされました。出エジプト記を見ましょう。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」(出19:16−18)とあります。目に見えない神が、人の目に見えるような形で降りてこられた、その時に山々が震い動き、稲妻とラッパの音が鳴り響きました。その恐ろしい状況がこの記事を通して目に浮かんできます。

・イザヤの祈り:
@「天を裂いて降りてきてください」(1,3節):
イザヤの祈りは、シナイ山で下ってくださったときのような神の圧倒的な存在感を再現して欲しいと言うものです。「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。・・・ あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」「天を裂いて」とは、神と人間との距離を一挙に縮めてくださいという祈りです。確かに私達は、罪を犯し、聖なる神様が遠くに折られるように感じてしまっている、しかし、その距離を縮めて降りてきてくださいという切なるイザヤの祈りの気持ちの現れです。雷と言うのは、空中に溜まった莫大な電気エネルギーが、絶縁体であるはずの空気をかき裂いて地上に降りてくる自然現象ですが、正に神が雷のように天を裂いて降りてきて欲しいとイザヤは祈っています。

A「民を清めてください」(2節):
「火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように・・・ 。」聖書を通じて、「火」は神の聖さの積極的な働きの象徴です。イザヤ自身、汚れた唇を、神の火によって清められました。イザヤは、その聖めの火が、神の民を聖め、人々の心を熱くし、その民を作り変えることを祈ります。具体的には、絶望的な状況に追い込まれた神の民が、神の直接的な干渉によって悔い改めに導かれ、神の民として回復されることを祈るのです。この世の中で、固いものは何でしょうか。私は、人との心だと思います。これほど頑なで、自己中心で、壊れにくいものはありません。神の干渉を祈るのは、この硬い殻のような人の心が打ち砕かれることです。

B「主の聖名が崇められますように」(2-4節):
イザヤの祈りの究極は、誰が見ても「神がなさった」としか説明しようが無いほどの鮮やかな勝利を通して、主の聖名は人々に知られ、恐れられる事です。「あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。」神の清き聖名が世に知られることを祈ります。私達の祈りの究極もそこにあります。主の祈りの最初は、「聖名の崇められますように」だからです。

・訴えの根拠:
@主は、イスラエルの父・造り主(8-9節):
このような大胆な祈りの根拠は、神とイスラエルとの親子関係です。64:16は、「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」と語り、神を父と認めています。64章にもその思想は続きます。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。」「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。」(8−9節)と、創造者によって特別に心を籠めて作られた傑作物がイスラエルなのだと言っています。これは、イスラエルが特別に勝れているという意味ではありません。その反対で、何の価値もないイスラエルを、主はその憐れみのゆえに格別に目を掛けて愛しておられるということを示します。ですから、イザヤは、父が子を憐れむように、この窮状を救ってくださいと、せっついた祈りを捧げているのです。

A主は、憐れみの神(12節):
イザヤは、神の御心を知っていると考えています。その神が、どうして現在の絶望的な状況を見て黙っておられるのだろうかという焦りに似た思いを表しています。それが、64章の最後の言葉です。「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(12節)私は、この言葉の中に、憂国の志士としてのイザヤの魂の叫びを見る思いです。イザヤは、神が罪を犯す民を裁きなさること自体に異議を唱えてはいません。しかし、それにも限度があるのではないか、と神の愛に訴えているのです。
 
おわりに:リバイバルへの祈り
 
 
私達は、今の時代をどう見たらよいのでしょうか。イザヤ時代よりも厳しい時代に住んでいるように思います。経済的にも、全世界は、100年に一度と言われる不況のどん底にあります。日本の政治も、指導者達が方向性を失ったかに見える混乱が続いています。道徳的にも、暴力・詐欺・不倫などなど、目を覆うような事件が毎日のように続いている世の中です。霊的にも、世の光たるべき教会が、か細く光を保っている状態です。どうしても、この時代を逆転するような主の鮮やかなみ業を見たいのです。人々の心が霊の感動によって揺り動かされるような、力あるみ業をこの時代のために祈りましょう。教会に先ずリバイバルを祈りましょう。そして私達を主の大いなるみ業のための器として用いてくださるように祈りましょう。
 
お祈りを致します。