メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年3月8日
 
「イエスの手のぬくもり」
ジョイフルアワー・メッセージ
 
竿代 照夫牧師
 
マルコ福音書1章40−45節
 
 
[中心聖句]
 
  41   イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。
(マルコ福音書1章41節)

 
聖書テキスト
 
 
40 さて、ひとりのツァラアト*に冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」42 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。
*ツァラアトとは、聖書が書かれた当時の皮膚病のことです。
 
1.孤独の悩み
 
 
・今日の話は、ツァラアトという病気に冒された人の話です。私達が使っている新改訳聖書という日本語聖書では、ツァラアトと現代の病名との結びつきが医学的見地から明確には分からないものですから、聖書の原語のヘブル語の言葉のままを使っています。ツァラアトとは、人間の皮膚や着物や、建物の壁の変色・変形が起きる現象をまとめたものです。そのツァラアトが、聖書の書かれた時代において、隔離と差別を生んでいたのです。

・ツァラアトを患った人は、一般の人々から隔離され、村はずれの淋しい場所に住むことが義務付けられていました。彼らが歩く時、村人と接触してしまうことがないように、「けがれたもの。けがれたもの。」と声を出さなければならない決まりでした。どんなに悲しかったことでしょうか。村人達から施しの食べ物を受けるときでさえ、村人が食べ物を置くのを遠くから眺めていて、彼らが居なくなるのを確かめてから、その施しをそっと拾って食べるという悲しい生き方をしていました。

・時代が進み、医学の知識が進んで、特定の病気や障害の方への偏見や差別はこの当時から比べるとずっと少なくなってきてはいますが、それでも、私達の間には、人間が勝手に決めた平均的人間像(これを普通の人と呼ぶ)があって、それより外れた人々を異常という言葉で仲間はずれにする傾向があります。インドにはカースト制度が未だ残っており、アンタッチャブルという下層以下の下層階級の人には、文字通り触ることだけでも汚れると考える人が多いのです。日本は差別から解放されていると思いきや、他民族に対して、障害者に対して、経済的弱者に対して、特定の病気の人に対して、偏見と差別がまだまだ残っているのを目にします。
 
2.イエスへの接近
 
 
・さて、このツァラアトに冒された一人の人の話をいたします。名無しでは話になりませんから、ヨアシさんとしておきましょう。このヨアシさんは、この病気を患ってから、かなり長い年月を経ていました。病気は進むばかりで、一向に治る気配はありません。何とも絶望的な気持ちの日々を送っていました。

・丁度その頃イエスという名前のラビが現れて、あちこちで話をしたり、病気を直したりという噂を聞きました。その中には、自分と同病のツァラアトも直されたという話も入っていました。一目でいいからそのイエスとかいう人に会ってみたいもの、という願いをもつようになりました。それでも、人々から離れて生活している身ですから、情報が限られています。

・ある日、人々が動く動きから、何となくザワザワッとした興奮のようなものを感じて、その周辺を追っていくと、その興奮の渦の近くに辿り着きました。

・ヨアシさんが、多くの人々が取り囲んでいるイエスという人に、どうやって近づこうか、それが次の問題です。自分はツァラアトと分かるような服装をしていますし、人々に近づいたら、たちまちキャーっという声を上げられてしまいます。イエスの周りに居る群衆を遠くから眺め、中心にいるイエスという人物を確かめ、心の目に焼き付けました。それから、群衆がイエスの周りから居なくなるチャンスを待ちました。なかなかそのチャンスが訪れません。こんな経験って皆さん、何かの形でお持ちでないでしょうか。パーティなどで誰かと話したい、でもその人はいつも誰かとはなしている、お話中ごめんなさいとも言えず、もじもじしているうちにその人がいなくなってしまうなんてこと私はよく体験しました。今では大分図々しくなって、割り込んでしまうことはありますが・・・。

・とうとうチャンスが訪れました。人波が去って、いわば休憩時間のような形になったとき、すかさずヨアシさんは突進しました。途中で誰かが遮っても止めないぞという固い決心を持って・・・。ヨアシさんは息を弾ませてイエス様の近くに辿り着きました。ついたとたん、ペタンと地にひれ伏して、こう叫びました。「イエス様、私はこのツァラアトを直して欲しいのです。あなたの御心だったら、そうしてくださるはずです。お願いします。」その声は絞り出すような、うめきのような声でした。
 
3.イエスの接近
 
 
・イエスは、このツァラアトの男の苦しみと孤独、苦悶から出てくる叫びに深く感動しました。そして、その右の手をぐうっと伸ばしてヨアシさんの肩に置き、それから彼の手を握ってこう言われました。「私の心だ。きよくなりなさい。」ヨアシさんの心に響いたのは、その温かい声だけではなく、それよりも、その温かい手でした。それは電気がビリビリっと伝わってくるような衝撃でした。なぜかって言いますと、ヨアシさんは、この病気に掛ってから、何年も、人の肌に触れたことがなかったからです。誰も彼も、自分のことを避けて通りました。自分から「汚れたもの、汚れたもの」と叫ばなければ道を通れませんでした。食べ物は辛うじて何とか与えられていたものの、ヨアシさんが飢えていたものは、人の温かさでした。そのヨアシさんに、自分が汚れるかも知れないという可能性も何も構わない、自分が隔離され、差別されているのに、そんな差別を一つも感じないで、触れてくださったイエスの手のぬくもりが、ヨアシさんの心を溶かしました。

・それと同時に、ヨアシさんの体に不思議な感触がずずずーっと走っていきました。自分をあれだけ悩ましていた皮膚の爛れが乾いていき、その下から赤ちゃんのような美しい皮膚が顔を出したのです。自分は直った、直された、清められた、という突き上げるような喜びが湧き上がってきました。

・その時、イエスの声が聞こえてきました。「この出来事を大袈裟に吹聴してはいけないよ。不必要なセンセーションを巻き起こすからね。ただ、ユダヤの掟に従って、祭司のところに行ってあなたの肌を見せ、ツァラアトから直ったという証明を頂いて、普通の生活に戻りなさい。」

・ヨアシさんは、その言葉を聞きながらも、余りの嬉しさに、会う人会う人にイエス様ってどんなに素晴らしいかを話して歩きました。それが、彼にとっての生き甲斐になりました。今まで、人々から隠れるようにして生きてきたヨアシさんが、人々の間に積極的に入り込み、人々に、明るい笑顔で、素晴らしいニュースを伝えて歩く人間に変えられたのです。ヨアシさんは、彼の心に触れてくださったイエスの手のぬくもりを他の人々に分け与える立場に変えられました。

・マザー・テレサの講演の一部を紹介します。「私はあの日のことをけっして忘れはしません。ヨーロッパのある町を歩いていましたら、一人の老いた男との人が道ばたに坐っていました。私はその人のところに行って――私の手はいつも温かいのですが――、握手をしました。すると、その男の人はたいそう感激しました。『何年もの間、私は人の手の温かさにふれたことはなかった。あなたは私の人生に喜びをもたらしてくださった。何年も経って、私は始めて人の手のぬくもりに触れました。』ごらんなさい。これです。これこそ、分かち合って欲しい、愛する喜びです。」と。私達はイエスの愛を頂くと、それを分かち合うことが出来るようになるのです。
 
おわりに
 
 
今日の話はこれで終わります。一つだけ覚えていただきたい点があります。私達が知っているイエスという方は、私達がどんなに汚れていても、近づいて手を差し伸べてくださるお方です。どんなに孤独であっても、近づいて友達になってくださる方です。どんな悩みで傷ついていても、それを癒してくださる方です。私達の悩みの核心に手を差し伸べてくださる方です。

今、3夜連続のNHKの特別番組で白洲次郎の物語が放映されています。次郎の母が神戸の教会に通っていた頃のシーンが印象的でした。教会の皆さんが、関西弁で「主我を愛す」を歌っているのです。「イエスはん、わてを好いてはる、わてのイエスはん、わてを好いてはる」そして、物語の大事なところで、英語の歌がバックに流れます。

”Jesus loves me, this I know, for the Bible tells me so. Little ones to Him belong, they are weak, but He is strong. Yes, Jesus love me. Yes, Jesus loves me, Yes, Jesus loves me, the Bible tells me so.”

このイエスが、あなたを愛しています。あなたは、この愛を受け入れますか。
 
お祈りを致します。