礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年3月15日
 
「新しい天と新しい地」
イザヤのメッセージ(50)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書65章17-25節
 
 
[中心聖句]
 
  17   見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
(イザヤ65章17節)

 
聖書テキスト
 
 
17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。25 狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。
 
A.65章前半の概観
 
 
先週は、「天を裂いて降りてきてください」(64:1)というイザヤの祈りから、私達が今必要としている神の干渉を祈りました。主はその祈りに答えて働いておられることを感謝します。

65章は、その祈りに対する神の答えです。それは、罪人への審判と、義なる人への祝福という二つの側面を持っています。祝福の頂点は、今日のテーマである新天新地なのですが、そこに至る前半を先ず概観しましょう。

・神に逆らう民への報復(1-7節):
神に逆らう民に対して厳しい審判が行われます。勿論、神は怒るのに遅いお方ですから、その忍耐は長いものです。「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。」(2節)しかし、神の忍耐は無限ではありません。その忍耐を「甘く見て」、不敬虔なそして反逆的な態度を続けている人々に対して「わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。」(6節)とおっしゃる方です。審判は必ず行われます。特に3、4、7節に描かれている異教的な礼拝の姿は大変おぞましいものです。全く神から離れた、いわば無神論的な思いも困ったものですが、ここで描かれているのは、神の名で行われる礼拝に異教的な風習を持ち込んでいる冒涜です。神を恐れぬ傲慢さが問題なのです。

・神は、そのしもべたちと反逆民を区別される(8-12節):
神は、反逆の民と、ご自身のしもべたちを区別なさいます。この文節で、「しもべたち」「選んだもの」「わたしの民」(8−10節)という人々と、「主を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たち」(11節)とが区別されています。具体的には、イスラエルという名前だけを持っている多数の人々の中に、神を畏れる真実な少数派の人々を描いたものと思われます。8節はその少数派を「(多くの酸っぱい)ぶどうのふさの中の(僅かな)甘い汁」と表現します。少数の真実な人々には祝福があるけれども、神を恐れないイスラエルには厳しい裁きが待っています。「わたしはあなた方を剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」(12節)と記されているからです。神を恐れましょう。

・神のしもべたちは祝福される(13-16節):
さらに、13−15節には、神のしもべたちが、罪の中を歩むイスラエル(ここでは、「あなたがた」)と区別されて祝福を受けることが預言されます。下記の対照表をご覧下さい。

16節はその結論であり、次の文節の序論でもあります。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」
 
B.新天と新地
 
 
17−25節には、神の民のために備えられる新しい天と新しい地が預言されます。
 
1.新天新地の到来
 
 
・主の審判の結果として:
17節は、「見よ」という言葉から始まっていますが、厳密には「なぜなら」(ヘブル語でキイ、英語はFor behold)が入るべきです。主が反逆の民を罰し、その処分を完全に終え、そしてそのしもべたちを祝福なさるという約束が前の文節に綴られているのですが、その約束の背景に、新天新地のビジョンがあると言うことが示されます。

・過去を忘れさせる「新しさ」:
これは、今までの世界の延長ではなく、神の新しい創造になるものです。罪に満ちた古い世界の焼き直しではなく、新しい世界の創造です。天地創造のときに使われた動詞のバーラーは、無から有を生み出す意味での創造でした(創世記1:1、21,27)。そのバーラーがここでも使われています。神は、ここで新しい秩序を創造されるのです。それは、もともとの天地創造の理想の姿への回復という意味を持っています。それは、もともとの天地創造が人の罪によって損なわれてしまった、そして、その罪の解決が終わったと言うところから始まる新しい創造です。

・新約では「神の国」:
Uコリント5:17には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と記されています。新天新地とは、霊的な意味ではキリストにあるすべての人の心に訪れる真理です。これは、主イエスが「神の国」として指差されている事柄です。

・終末に「文字通り」実現する:
これは、終末における人類のために備えられた世界の形態です。その意味で、この部分は黙示録にも引用されます。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録21:1−2)
 
2.新天新地の特色
 
 
この世界は、次の5つの特色を持っています。

・喜び(18-19節):
「楽しみ喜べ。・・・エルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。 ・・・エルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。」楽しみと喜びがペアとなって3回も繰り返されています。それまでの悲しみがなくなり、喜びが満ち溢れます。ここでの喜びは、基本的には神の喜び(神が、その民を喜びなさると言う意味)ですが、その神の喜びは民の喜びとなります。「泣き声も叫び声も聞かれない」至福と満足の世界です。

・長寿(20節):
「数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」新天新地では、長寿が保証されています。病気や戦争がありませんから、長寿が当たり前となります。かといって、死がなくなるわけではありません。100歳が若造であると言うのは、ノアの洪水以前の世界に戻ることです。ある注解者は、この描写を黙示録20:4−6に描かれている「千年期」と結び付けます。

・安全と豊かさ(21-23節):
「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。」ここで描かれている社会は、私達が理想と考えている社会です。勤労が喜びとなり、勤労の実を楽しむことが出来る、という事は、不公正な搾取、圧迫がなくなることです。自分も長生きし、自分の作った工作物も、「使い捨て」にしないで、擦り切れるまで長く使うことが出来る、いわば昔ながらのシンプルライフに戻ることです。多分、その時、私達が頼りにしているパソコンや自動車や携帯も必要がなくなる、エコライフが実現するのでしょう。

・交わり(24節):
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」私達が祈る以前に、その願いは神に知られ、その答えが与えられるほど、私達と神との親密な交わりが生まれるのです。何とステキな世の中でしょう。

・平和(25節):
「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」自然界ののろいは解かれ、平和な世界が出現します。この描写は、私の大好きな画です。他の生物に害を与える狼やライオンが菜食主義となり、噛み付いて毒を注射する蛇も、ミミズのように土を食らうのです。すべての暴虐が止み、平和が支配する世界です。同じイザヤ書の11章6−9節にも、これと似た、しかし、より詳しい描写があります。この11章では、それらの平和的な王国を治めるのが「小さい子供」であると記しています。明らかにこれはメシア王国の絵画です。
 
おわりに:新天新地を待ち望もう
 
 
この世界は、全く新しいものとして与えられます。現在の世界からは想像もできないような素晴らしい世界であることは確かです。今の世界は、環境問題一つを取っても、経済不況、政治的混乱を見ても、もっと個人的に言えば、健康の弱さや加齢など、辛いことが沢山あります。人間関係から言っても、狼やらライオンやら毒蛇のような人々に取り囲まれていると感じてしまうことすらあります。

だからこそ、この新天・新地の到来を待ち望みたいのです。この日への期待が、今直面している困難や疑問を克服する力となるのです。Uペテロ3:9−14までを読んで祈ります。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
 
お祈りを致します。