53章では、私達の罪、咎、苦しみ、痛みを背負い給う主として描かれています。同じような言葉が5回出てきます(6節の「負わせる」は少しニュアンスが違いますが・・・)。これを一体として扱います。 |
・4節「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」 |
・6節「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」 |
・11節「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」 |
・12節「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」 |
この5つの言葉からいくつかポイントを拾います。 |
・「担う」イメージ:「責任を負う」「他人の身代わり」 この動詞は、罪の結果責任を負う、という意味で使われています。自分の犯した罪の罰を負う、他の人の身代わりになる、という二つの意味です。それを現わすイメージは、生贄の山羊です。レビ記に記された贖いのシステムで使われる言葉です。レビ16:21−22には、「贖いの日」に選ばれた二頭の山羊について語られています。一頭はイスラエルの罪の身代わりとして殺され、他の一頭もイスラエルのすべての罪を負って野に放たれます。このように「負う」「担う」とは、身代わりとなって背負うこと、背負い去ってくださることなのです。正に主イエスは私達の身代わりとして十字架にその命を捧げてくださいました。罪の身代わりと言うのは、罪という物質を担うというイメージではなくて、私達の立場に立って罰を受けるという意味があります。 |
・担い手:「主のしもべ」(担わせるのは、父なる神) それでは、この場所で担うのは誰でしょうか。それは、11節にありますように、「わたしの正しいしもべ」です。「主のしもべ」と呼ばれるキャラクターは、この場合、数百年後に登場するメシア・主イエスを預言したものです。それでは、誰が負わせたのでしょうか。それは、父なる神ご自身です。6節には「主は、私達のすべての咎を彼に負わせた。」と書いてあります。神の御子(しもべ)として、キリストは進んでその罪の重荷を負おうとします。「お父様、私がその大任を負います。人間的には苦い杯ですが、それしか人類を救う方法がないのでしたら、喜んでそれを飲みます。」と語られました。父なる神は「そうか、大変だが、この重荷を委ねるよ。」と彼に重荷を負わせることを嘉してくださったのです。 |
・担うもの:4つ記されています。病、痛み、罪、咎です。
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@病とA痛みは同じものと考えてよいでしょう。肉体的および精神的な弱さや傷、どこに行っても、癒されない心の傷が不思議なようにキリストによって癒されるのです。癒しとは、最近流行っている言葉です。私達は「癒し系」の顔、癒し系の音楽、癒しを齎す環境などを求めます。これらは悪いことではありません。しかし、多くの場合、心理的な自己満足に終わります。キリストの癒しは、徹底的な痛みを持つ罪の傷が、徹底的に癒されることを意味します。 |
B罪とは、ハタアが語源で、的を外す、正しい方向を外すことです。神に従い、神を喜ばせるために生きるべき人間が、人生の方向を誤ったことが示唆されます。 |
C咎とは、アウォンが語源で、道からの逸脱です。義の道から逸れて、悪を歩む道に入ってしまうことです。人があるべき道から外れて自分勝手な道に進んでいく様、迷子の羊に譬えています。 |
Dこの章で出てくるもう一つの言葉に「そむき」(ペシャ)があります。文字通り、神の権威に対して不服従の態度を現すことです。 |
・担う方法:身代わりとして、文字通りの苦しみ 身代わりとして、文字通りの苦しみを通して主は十字架を負われました。私達の身代わりとして、私達の病、痛み、罪、咎を文字通り一遍に、そして一身に背負って、その苦しみを体験されました。その苦しみが余りにも残酷悲惨でしたので、最初にこのピクチャーを見せられたイザヤは、何でこの人はここまで苦しむのだろうと不思議に思いました。きっと、それに値するような悪いことをしたに違いない、それにしてもかわいそうな人だ、という思いを持って、じっと見つめました。しかし、この人が悪いことをしたような影は、一片たりとも見つかりません。そうか、この人は、誰かの代わりに苦しんでいるんだ、という感動、ショックが、4節の、「まことに」という言葉の背景です。十字架の物語について言いますと、主イエスの祈りを思い出します。「父よ、彼らを赦し給え。そのなすところを知らざればなり。」というとりなしの祈りを、背くものに対して祈られたのが主イエスです。 |
・担い去る:罪の完全な帳消し そして、それらの痛みを終わりにしてくださいました。「担う」(ナーサー)とは、carry awayという意味も含まれています。担い去ってくださった、完全に終わりにしてくださったことを意味します。十字架の上で主イエスは、「事は終わった。完成した。」と叫ばれました。罪の身代わりとして徹底的に苦しむことによって、私達の罪を完璧に終わりにした、と宣言されたのです。その成果を示唆するのが、11節の「多くの人を義とし」という言葉です。罪の記録を無かったものとして帳消しにしてくださるのです。私達が交通違反などを犯した場合は、コンピュータに記録され、次の免許を受けるときの条件を重くします。しかし、ある一定の期間が過ぎると、その記録そのものも抹消され、賞罰なしというフレッシュなスタートを切れるような仕組みになっています。それと同じように、いや、それ以上に、主キリストの十字架は、私達すべての罪、咎、を完全に消し去ってくださるのです。十字架の贖いは、象徴的なものではなく、文字通りの罪の解決でした。 |