礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年3月22日
 
「多くの人の罪を負い」
イザヤのメッセージ(51:最終)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書53章4-6,10-12節
 
 
[中心聖句]
 
  12   彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
(イザヤ53章12節)

 
聖書テキスト
 
 
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
 
はじめに
 
 
一昨年11月からイザヤ書を始めました。その時は、この膨大な預言書の講解が終わるかどうか不安も抱えていましたが、各章に散りばめられた珠玉のようなメッセージに、豊かな恵みを頂きました。今日は、イザヤ書に流れている鍵となることばの一つを取り上げて締めくくりたいと思います。
 
1.「担う」、「背負う」ということば:イザヤ書を解く鍵
 
 
それは、「担う」、「背負う」、「負う」という言葉です。そもそも、「担う」と言うのは、自分自身の上に重荷を置き、しっかりと力を入れて持ち上げることです。私の子供の頃、京成電車にはかつぎ屋さんというおばさんたちが東京と千葉を行き来していました。驚くほどの重さの荷物を背負って、魚、野菜、米などを行商していたのです。その力の強さに子供ながら驚嘆していたことを思い出します。背負うと言うのは、全身をこめて、しっかりと重荷を受け止め、支える行為です。そのピクチャーが、神が人のためになしてくださる行為として、イザヤ書でしばしば登場するのです。
 
2.神は、「その民」を背負い給う(46、63章)
 
 
・46:3−4を読みましょう「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りのものよ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

・63:9も読みましょう。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

これらは何を意味しているでしょうか。

・過去的には、苦しい中から助け出された「出エジプト」という出来事に示されるイスラエルの歴史の始まりから、

・現在的にも、「バビロン捕囚」に象徴される、途中の苦しみ、悲しみを全部共感しながら、助け導いておられる主

・そして、将来的には、個人の生涯の終わりまで、民族的にはその回復と完成まで責任を負って導き給うその約束を示したものです。

・イメージ的には、母鷲が雛を背中に乗せて運ぶ姿を描きながら、この描写がなされています。

 
3.主のしもべは、「民の罪」を背負う(53章)
 
 
53章では、私達の罪、咎、苦しみ、痛みを背負い給う主として描かれています。同じような言葉が5回出てきます(6節の「負わせる」は少しニュアンスが違いますが・・・)。これを一体として扱います。

・4節「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」

・6節「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

・11節「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」

・12節「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 この5つの言葉からいくつかポイントを拾います。

・「担う」イメージ:「責任を負う」「他人の身代わり」
この動詞は、罪の結果責任を負う、という意味で使われています。自分の犯した罪の罰を負う、他の人の身代わりになる、という二つの意味です。それを現わすイメージは、生贄の山羊です。レビ記に記された贖いのシステムで使われる言葉です。レビ16:21−22には、「贖いの日」に選ばれた二頭の山羊について語られています。一頭はイスラエルの罪の身代わりとして殺され、他の一頭もイスラエルのすべての罪を負って野に放たれます。このように「負う」「担う」とは、身代わりとなって背負うこと、背負い去ってくださることなのです。正に主イエスは私達の身代わりとして十字架にその命を捧げてくださいました。罪の身代わりと言うのは、罪という物質を担うというイメージではなくて、私達の立場に立って罰を受けるという意味があります。

・担い手:「主のしもべ」(担わせるのは、父なる神)
それでは、この場所で担うのは誰でしょうか。それは、11節にありますように、「わたしの正しいしもべ」です。「主のしもべ」と呼ばれるキャラクターは、この場合、数百年後に登場するメシア・主イエスを預言したものです。それでは、誰が負わせたのでしょうか。それは、父なる神ご自身です。6節には「主は、私達のすべての咎を彼に負わせた。」と書いてあります。神の御子(しもべ)として、キリストは進んでその罪の重荷を負おうとします。「お父様、私がその大任を負います。人間的には苦い杯ですが、それしか人類を救う方法がないのでしたら、喜んでそれを飲みます。」と語られました。父なる神は「そうか、大変だが、この重荷を委ねるよ。」と彼に重荷を負わせることを嘉してくださったのです。

・担うもの:4つ記されています。病、痛み、罪、咎です。
@病とA痛みは同じものと考えてよいでしょう。肉体的および精神的な弱さや傷、どこに行っても、癒されない心の傷が不思議なようにキリストによって癒されるのです。癒しとは、最近流行っている言葉です。私達は「癒し系」の顔、癒し系の音楽、癒しを齎す環境などを求めます。これらは悪いことではありません。しかし、多くの場合、心理的な自己満足に終わります。キリストの癒しは、徹底的な痛みを持つ罪の傷が、徹底的に癒されることを意味します。

B罪とは、ハタアが語源で、的を外す、正しい方向を外すことです。神に従い、神を喜ばせるために生きるべき人間が、人生の方向を誤ったことが示唆されます。

C咎とは、アウォンが語源で、道からの逸脱です。義の道から逸れて、悪を歩む道に入ってしまうことです。人があるべき道から外れて自分勝手な道に進んでいく様、迷子の羊に譬えています。

Dこの章で出てくるもう一つの言葉に「そむき」(ペシャ)があります。文字通り、神の権威に対して不服従の態度を現すことです。

・担う方法:身代わりとして、文字通りの苦しみ
身代わりとして、文字通りの苦しみを通して主は十字架を負われました。私達の身代わりとして、私達の病、痛み、罪、咎を文字通り一遍に、そして一身に背負って、その苦しみを体験されました。その苦しみが余りにも残酷悲惨でしたので、最初にこのピクチャーを見せられたイザヤは、何でこの人はここまで苦しむのだろうと不思議に思いました。きっと、それに値するような悪いことをしたに違いない、それにしてもかわいそうな人だ、という思いを持って、じっと見つめました。しかし、この人が悪いことをしたような影は、一片たりとも見つかりません。そうか、この人は、誰かの代わりに苦しんでいるんだ、という感動、ショックが、4節の、「まことに」という言葉の背景です。十字架の物語について言いますと、主イエスの祈りを思い出します。「父よ、彼らを赦し給え。そのなすところを知らざればなり。」というとりなしの祈りを、背くものに対して祈られたのが主イエスです。

・担い去る:罪の完全な帳消し
そして、それらの痛みを終わりにしてくださいました。「担う」(ナーサー)とは、carry awayという意味も含まれています。担い去ってくださった、完全に終わりにしてくださったことを意味します。十字架の上で主イエスは、「事は終わった。完成した。」と叫ばれました。罪の身代わりとして徹底的に苦しむことによって、私達の罪を完璧に終わりにした、と宣言されたのです。その成果を示唆するのが、11節の「多くの人を義とし」という言葉です。罪の記録を無かったものとして帳消しにしてくださるのです。私達が交通違反などを犯した場合は、コンピュータに記録され、次の免許を受けるときの条件を重くします。しかし、ある一定の期間が過ぎると、その記録そのものも抹消され、賞罰なしというフレッシュなスタートを切れるような仕組みになっています。それと同じように、いや、それ以上に、主キリストの十字架は、私達すべての罪、咎、を完全に消し去ってくださるのです。十字架の贖いは、象徴的なものではなく、文字通りの罪の解決でした。
 
4.21世紀の私達の「重荷」を背負ってくださる
 
 
・完全な救いは「今」の私達に:
これは2千数百年前のイザヤにとって意味のあるものであり、また、2千年前のイエス・キリストにおいて完全に成就しただけではなく、21世紀の私達にとっても真実であります。ヘブル7:25は、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」と言っています。勿論罪の重荷だけではなく、すべての思い煩い、病、痛み、の課題を主に委ねる時、主は「それは終わったことだよ」と優しく取り上げてくださいます。

・信じて委ねるものに:
完全な救いを頂く条件は、私達が重荷を委ねることです。主イエスは、「すべての人」の罪を負ったのですが、ここで3回も「多くの人」と記されているところに含蓄があると思います。つまり、潜在的に、救いはすべての人々に意味されているのですが、心を開いてその良き音ずれを受け入れるものだけに与えられます。その意味で、ここでは「多くの」という言葉が使われているのではないでしょうか。
 
終わりに:キリストへの感謝と信頼を!
 
 
これから聖餐式に臨みますが、このような救いのために命を注ぎつくしてくださった主イエスに感謝しましょう。彼が罪と苦しみと悲しみを担い去ってくださったことを感謝しましょう。私達の荷物を主に委ねましょう。
 
お祈りを致します。