礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年3月29日
 
「仕えるために」
受難週に向かう
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書10章35-45節
 
 
[中心聖句]
 
  45   人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
(マルコ10章45節)

 
聖書テキスト
 
 
35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 
始めに
 
 
年会を超え、主のご受難を覚える聖なる季節に差し掛かりました。主イエスが、そのご生涯の最後の旅としてエルサレム行きをなさったその途上に語られた十字架予言を通して、十字架に向かう主イエスのお心を知りたいと思います。
 
1.「十字架予言」(10:45)の背景
 
 
・ヤコブとヨハネのリクエスト:
この言葉のきっかけは、主イエスが最後のエルサレム行きの旅をなさった時、道々になされたヤコブとヨハネのリクエストです。差し迫った苦難に戦き、大きな贖いの業を前に張り裂けそうな程の緊張を強いられていた主イエスのお気持ちを全く理解していなかったいわば脳天気な質問です。「さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。』イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか。』彼らは言った。『あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。』」ここで、「栄光の座」とは、神の国が現実政治の中に顕れる、その様子です。その「神の国」の支配者であるイエス様の傍の高い地位を得たいと願ったのです。イエス様のことも、他の十弟子のことも考えていません。自分達だけの出世を考えて、他を出し抜いてでも高い地位に着きたいという競争心丸出しのリクエストです。

・イエスの応答:
主はリクエストに対して、質問をもって応じられました。「あなたがたは、わたしの飲もうとする(十字架という苦い)杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」という厳しい質問でした。ヤコブとヨハネは分からぬまま、「出来ます。」と答えました。

・十弟子の立腹:
他の十弟子達はこれを聞いて立腹しました。ヤコブとヨハネがイエス様のお気持ちを汲み取らなかったからではなく、自分達が出し抜かれたから立腹したのです。つまり、ヤコブとヨハネと同じ土俵にあることを、この立腹は露呈してしまった訳です。

・主イエスの悲しみ:
主イエスが悲しまれたのは当然です。神を知らず、畏れない世間一般のあり方は、癒しがたい権力指向ですが、それが弟子たちの中にもはっきりと見られたからです。人は動かされるよりも動かすこと、支配されることよりも支配することを好みます。ですから、誰が優位に立つかを巡っての権力闘争が起きるわけです。主イエスは、このような権力指向が教会内に持ち込まれてはならないと断言されます。「あなたがたの間で(神に高い評価を受ける、本当の意味で)偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」と語られました。

・主イエスの精神:
その上で、ご自分のあり方を証として語り、さらに十字架を予言されました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」この御言を中心に思い巡らします。
 
2.この世に来られた主:「人の子が来たのも、・・・ 」
 
 
・人の子:
主イエスは、繰り返し、ご自分のことを「人の子」と呼んでおられます。マタイ福音書だけからでも主イエスは、「私」という代わりに「人の子」と呼んでおられるところが45箇所あります。「人の子」というのは、普通の人間という意味もありますが、隠れた意味としては、メシアの呼び名でもあったのです。(ダニエル書 7:13=「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」)

・来られた方:
主は、「来た」という言葉も繰り返しておられます。「わたしは・・・ 罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:32)「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」(ルカ12:49)「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)他の世界からこの世界へ、ある目的を持って来られたお方であることを繰り返し強調しておられます。
 
3.世に来られた目的:「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」
 
 
その目的とは、「仕える」ためであって、「仕えられる」ためなのではない、と。

・仕えられるためではない:
「仕えられる」人は、いわゆる「偉い人」のことです。地位が高い人、お金のある人、権力のある人、学識のある人などなどが、地域社会でも、国でも、「偉い人」と注目を集めます。そして、人々は、喜んで、彼に仕えます。尊敬を持って仕える人も居るし、何かの目的を持って仕える人も居るし、色々でしょう。ともかく、彼のかばんを持ち、自動車のドアを開けてあげ、行くところに赤じゅうたんを敷き、食事の時には上席に据え、最上のご馳走を持って仕えます。そのように仕えられるほど「偉い人になりたい」というのは、多くの人々の願いです。そうなることが「成功」の徴である、と多くの人は考えます。この言葉のきっかけとなった事情は、先ほど申し上げました。ヤコブとヨハネが「神の国」において、そのような地位につけてくれと主イエスに猟官活動をしたこと、それを怒ったほかの十弟子も、出し抜かれた悔しさで怒っていたこと、でした。もし、偉くなりたい(仕えられたい)と言うのが人生のゴールであったとしたら、主はそれに価するものを元々持っておられました。彼は、すべての天使に仕えられるお方でした(ヘブル1:6=「神のみ使いはみな、彼を拝め。」)。しかしながら、キリストは、その「偉さ」を完全に打ち棄ててよ匂いで下さったのです。

・仕えるために:
キリスト来臨の目的は、「仕えられるため」ではなく「仕えるため」でした。これは実に偉大なことです。仕えるということは、謙りを意味します。頭が反り返った人は仕えることができません。仕えるということは、相手が自分よりも上であるということを認め、そのように振る舞い、相手の役に立つような行動をすることです。これは、口でいうほど易しいことではありません。クリスマス祝会で子供たちのためにお菓子を配っていた時、大人が割り込んでそれを奪うように持ち去った時、教会でお掃除をしているとき、泥だらけの靴で折角の階段を汚された時、むっとしてしまったことを思い出します。ある意味で、これは当然です。でも仕えると言うことは、そういうことに徹して、何千回もそれを繰り返すことです。主イエスは、文字通り、そのような生涯を送られました。人々のニードに答えるために、食する暇も忘れ、疲れもそっちのけでサマリヤの女性にカウンセリングを行い、眠る間も惜しんで病の人々を癒し、飢えた人々に食を与えなさいました。十字架を前にした最後の晩餐の前には、旅で埃だらけになった弟子たちの足を洗われました。仕えるものの姿を実行されたのです。仕える者は自分の主張をしません。彼は、自分を奴隷の位置においているからです。主は、ご自分の立場も、正義も、権利も主張されず、徹底的に譲る姿勢を保ち続けなさいました。
 
4.最終の目的:「贖いの代価として、自分のいのちを与える」
 
 
・贖いのため:
主イエスの「仕える姿勢」の極致は、ご自分の命を贖いとして与えることでした。ここで、「贖い」という言葉が使われていますが、これは、「買い戻す」という行為のことです。元々自分のものであった土地、所有物、自分自身が、何かの都合で人手に渡ってしまったものを、一番近い親戚が、代価を払って買い戻す行為を、「贖い」と言います。

・ご自分の命を代価として:
私達が、罪の奴隷として、本当は願っていないのに罪を犯し、滅びに向かっていく状態から、罪の刑罰を己が身に受けて私達を解放する、それが「ご自分の命を代価として贖う」意味です。具体的には、十字架の上で、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わわれるのですが、それがこの言葉に意味されたことです。つまり、私達の罪の刑罰を一身に引き受けて十字架にかかり、命を投げ出してくださいました(イザヤ53:11-12)。ここに自己犠牲、その犠牲的愛、謙りの極致があります。
 
5.私達への挑戦:「みなに仕える者、みなのしもべになりなさい。」(43,44節)
 
 
・世とは違う生き方を:
主は、彼に従う私達がその仕える姿勢に従うことを期待しておられます。43節に、「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。」と厳しく語り、主の弟子は、世の中の原理ではなく、主イエスの生き方に倣って生きるべき事を命じておられます。

・仕える精神は謙り:
最後の晩餐で、弟子たちの足を洗いなさった後で、主は、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)文字通り洗足式を行う教会もあります。一度中目黒教会でもやって見たいものだと思います。しかし、主イエスが語られた、「仕える」「互いの足を洗う」「しもべになる」とは、形式的なこと、外形的なことではなく、主イエスの謙遜のスピリットを分け持つことでしょう。謙遜とは、他人を自分よりも勝れたものと思い、尊敬し、それを行動にも現わすことでしょう。ピリピ2:3「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という言葉の中に籠められています。「俺は本当のところあんな人より勝れているのだが、勝れていないもののように振舞おう」、というのは謙遜ではありません。これは、はっきり言って謙遜傲慢です。どんなに尊敬に値しないように見える人でも、どう見ても自分よりも知識の点で劣っているように見える人でも、それでも勝れたものと思うというのは偽善でしょうか。やせ我慢でしょうか。違います。神がこの方の価値をどんな風に見ておられるかを神の側から見て、そして尊敬することではないでしょうか。「私の目にはあなたは高価で、尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と不信のイスラエルに語った主は、私達がこんな人間はと思ってしまうような人をも価値あるものとして愛しておられます。そのようなスピリットをもって、互いを尊敬し、愛し、仕えましょう。もっと言いますならば、私達は互いの中に神の形を見ることによって、互いに仕えることが出来るのです。兄弟の中の一番小さな者に行う愛の行為は、主ご自身になす行為と看做してくださるのがキリストです(マタイ25:40)。 私は、この御言を、貧しい人、病める人、牢屋に居る人、つまり、私の助けを必要とする弱い立場の人々への愛の行為の大切さを教える御言と考えていました。そして、その通りです。しかし、それだけではない、私に不利な言動をする人、馬の合わない人、思うように動いてくれない人、つまり、いやだなと思うすべての人の中に神を認め、それに仕えるのだ、と最近教えられています。これは、弱い立場の人々を助けるよりも、ずっと忍耐と謙遜を必要とします。しかし、主はそれを可能にする恵をくださいます。
 
終わりに
 
1.主イエスの十字架を見つめよう
 
 
受難週に向かうこの大切な節期、主イエスが十字架に至るまで仕えてくださったその尊い愛と犠牲の大きさを見つめましょう。感謝しましょう。
 
2.私達も、自分を十字架に
 
 
主が与えることに徹して、一番良いもの、つまりご自分の命を、惜しむことなく、保留することなく、喜んで明け渡してくださったように、私達も兄弟達の為に、おのが身を捨てて仕える者でありたいと思います。本当に兄弟のために己を捨てられるのは、己を十字架につけたものだけです。私達は自分を主と共に十字架に釘付けしましたか。彼と共に死んだ者と自分を考えていますか。それが聖化の経験です。主に明け渡しましょう。
 
お祈りを致します。