礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年4月12日
 
「弟子達は、主を見て喜んだ」
復活節に因み
 
竿代 照夫牧師
 
ヨハネの福音書20章19-23節
 
 
[中心聖句]
 
  19,20   イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネ20章19-20節)

 
聖書テキスト
 
 
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
 
1.復活の確かさ:信頼できる証言によって
 
 
イースターとは、今から2千年前、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかり、死んで墓に入れられた主イエスが、その三日後に生き返られことを記念する日であります。死人が復活するなんて、そんな馬鹿なことはありえない、キリストを崇める弟子達が作り上げたお話しに過ぎない、と考える人も居ることでしょう。しかし、そのように疑う方にはっきりと申し上げたい点があります。著作年代が明確に確認できる公開書簡のうち、一番早いものとして認められているものはAD55年ごろですが、その中に復活の事実を見証した人が多く居ることが記されています。キリストの死後25年も経っていないころです。復活が単なる幻想や思い込み、噂に基づくものであったら、また、復活とはキリストの精神が弟子の中に生きているという単なる「精神的復活」であったら、当時の読者が容易に反論出来たはずです。私はこのことからだけでも、復活の事実性を確信できると考えます。
 
2.復活の日の出来事:
 「その日、すなわち週の初めの日の夕方」(19節a)
 
 
さて、「その日」とは、ユダヤの過越祭の安息日の翌日、つまり週の初めの日(日曜日)に当たります。この日に主イエスが復活されました。この日、主は多くのグループに、異なる形態で、ご自分の復活を示されました。四つの福音書を総合しますとこうなります。

・未明に復活される、地震とともに墓石が転び去る(マルコ16:2-4)

・香料を塗りに来た女性達が、空虚な墓を発見、復活の使信を受ける(マルコ16:5-8、ヨハネ20:2-10)

・マグダラのマリヤ、復活の主に出会う@(ヨハネ20:11-18)

・他の女性達も、復活の主に出会うA(マタイ28:9-10)

・午後、クレオパと他の弟子がエマオへの道で主に出会うB(ルカ24:13-32)

・ペテロ、主に出会うC(ルカ24:33-35)

・夕、10弟子が主に出会うD(ヨハネ20:19-25、ルカ24:36-43)

今日、ヨハネ20章で読みましたのは、この第五番目の顕現に当たります。弟子団に主が現れたのは、この時が初めてです。
 
3.弟子たちの不安と恐怖:
 「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」(19節b)
 
 
・弟子達がいた所:
多分、最後の晩餐に使ったマルコの母マリヤの家の二階で、十字架の前後にイエスとガリラヤ出身の弟子団がエルサレムでの拠点として使っていた場所でした。

・状況:
この日は、最後の晩餐から数えて僅か三日後でしたが、この三日間は物凄く沢山の出来事の詰まった期間でした。晩餐の後、ゲッセマネに行って主と共に祈ったこと(実際は居眠りでしたが・・・)、主が囚われて、自分達が雲の子を散らすように離散してしまったこと、夜中の裁判、ペテロの否認、そして、あの恐ろしい主イエスの十字架刑・・・。弟子達は思い出すだけでも恐ろしく、後悔の多い出来事の連続でした。やっと十字架を遠巻きにして、再結集はしたものの、自分たちも捕まらないだろうかという恐怖が先に立って、先生である主を丁寧に葬ることもできませんでした。

・弟子団消滅の不安と迫害の恐怖:
復活の朝、女たちは主を見たという報告を齎しました。にわかに信じることもできず、ペテロとヨハネとは、空っぽの墓を確認しましたが、それが何なの、という気持ちは拭えません。弟子団ではあるが、12弟子よりも外側に居るクレオパともう一人の弟子は、弟子団を去って、エマオにいってしまいました。このまま、弟子団は空中分解かもというような不安が時間を追って増大してきました。先生として仰いで来た主イエスが社会の敵意を一身に浴びて惨殺された、経済的に彼等を支えて来たサポーターもどうなるか分からない、将来を考えると、お先真っ暗です。そして今晩あたり、ユダヤ人指導者によって一網打尽に捕まるかも、という恐怖でドアを固く閉め、鍵を掛けて、震えながら隠れていました。
 
4.主の表れと第一声:
 「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」(19節c)
 
 
・復活体の自由さ:
ドアは固く閉じられていましたが、そこに主イエスが現われたのです。まるでスリラー映画です。私達にはどうしてそんな事が可能か分かりませんが、パウロはこれについて、あるヒントを示しています。復活の体というものは、今の肉体とは基本的な素材が異なる、けれども、今の肉体と復活体との相似は認められる、と。ここで主は、その傷ついた手とわき腹を示しなさいました。ルカの福音書は、足も、と記しています(ルカ24:39)。幽霊などではなく、十字架に付けられたその生々しい傷跡を保っておられるイエス様ご自身でした。

・「平安あれ!」との強力メッセージ:
閉ざされたドアから入ってこられたというだけで驚いている弟子達、それ以前に、ドアを閉ざして恐怖に震えていた弟子達に必要なのは、平安でした。主の第一声は「シャローム」です。通常の挨拶用語であったかも知れませんでもなく、が、主は弟子たちの様子を熟知して、「平安あれ!」と力を込めて語られたと思います。しかも「あなたがたに!」と付け加えて・・・。それは大きな慰めをもって弟子達の心に迫りました。これは単なる願望ではなく、平安をあげます、受け取りなさいという力強いメッセージでした。この挨拶の中に、弟子達が必要としているあらゆる恵が含まれていたのです。主イエスは、十字架で完成した救い、その復活によって現実化された救い、心の安らぎ、神との和解、互いの協力をここで弟子達に与えようとされたのです。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
 
5.弟子たちの喜び:
 「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20節)
 
 
・不安と恐怖が解消:
弟子達が不安と恐怖とに囲まれていたことは、先にお話ししました。その不安と恐怖が、復活の主との出会いによって取り除かれました。

・キリストをどんなお方と見るか:
キリストをどんなお方と見るかが私達の一生を変えます。キリストは、歴史上の偉大な人物、善いことを沢山教えた教師、神のメッセージを伝えた預言者だけなのでしょうか。それらは間違いではありませんが充分ではありません。弟子達は、私達の罪を負って死んでくださった救い主、甦って今も生き給う主、私達のすぐ傍を歩いて励まし、導いてくださる主として仰ぎました。

・喜びの爆発:
弟子達は喜びに満たされました。その喜びは、単なる再会の喜びという一時的なものではなく、この主イエスが、予告しておられたように、死から甦った救い主、神の子なのだという確信による喜びです。そのお方が、これからもずっと居てくださるという安心に満ちた喜びです。迷子になった子供がお母さんに会って心から安心して喜びのようなものです。
 
6.新しい派遣:
 「父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。」(21節)
 
 
その喜びに立って、主は弟子達を新たに宣教へと派遣されました。この点については、要点のみを述べます。

・最初の宣教師イエス:
「父がわたしを遣わしたように」――主イエスは最初の宣教師として世に来られました。宣教師という言葉はミッシオ(遣わす)という言葉から来ています。遣わされたもの、これがミッショナリーです。主イエスは父なる神から特別な使命を帯びて派遣された宣教師でした。

・弟子達への信頼:
「わたしもあなたがたを遣わします。」――被派遣者である弟子達は、不信仰で、不真実で臆病で、ユダヤ人の迫害が恐ろしくて中でガタガタ震えているような情けない状態でした。愛するイエス様を裏切って我が身可愛さに逃げ散ってしまったというトラウマから脱却していない弟子達でした。しかし、そのような弟子達を主イエスはあくまでも信頼し、回復のチャンスを与え、さらに大きな、光栄ある務めにと召しなさったのです。私達の弱さも失敗も、裏切りでさえもご存知でありながら、なお信頼して用いようとなさる主、その主ご自身が私達を遣わしておられるのです。

・宣教の目的:
それは福音をのべ伝え、信じる人々に罪の赦しと聖めと永遠のいのちを与えるためです。その行く先は何処でしょうか。キリストは、汚濁と争いに満ちた世の真っただ中に入り込んで受肉という方法で、人間と同じ形を取られました。私達も高いところから人々に呼びかける傲慢を捨てて、人々の間に同化し、心を開いていただくことが必要です。人々と同じ目線で関心を持ち、話題に加わり、共に喜び、共に悲しむ姿勢が無ければ魂を捉えられません。私達キリスト者が今の社会に溶け込んで友達を得ること、主に導くことに心を用い、時間を費やしたいと思います。
 
7.宣教の動力:
 「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22節)
 
 
キリストが派遣されたときに与えられた同じ権威と力を付与されました。ここで弟子達が息を吹きかけられたことは象徴的です。聖霊の主導権と力と生かす働き無しには全く無力であることを示すためなのです。逆に言えば、聖霊の力が与えられる時にこそ弟子達の臆病は取り除かれ、大胆に熱心に、しかも知恵を持ってキリストの福音が宣べ伝えられるようになります。
 
終わりに
 
 
今日の主テキストを思い巡らしましょう。

・弱さの自覚しよう:
「弟子達は」――弱さ、不安、恐れなどに囲まれていませんか。それらを包み隠さず主に申し上げましょう。

・復活の主を仰ごう:
「主を見て」――キリストをどんなお方と見ていますか。私達の罪を負って死んでくださった救い主、甦って今も生き給う主、私達のすぐ傍を歩いて励まし、導いてくださる主として仰ぎましょう。

・喜びを体験しよう:
「喜んだ」――その時、喜びは自然に湧いてくるでしょう。この肉眼で主を見ないとしても、喜びは湧いてくる、とペテロは言っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Tペテロ1:8)
 
お祈りを致します。