礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年4月19日
 
「エンジェルのように」
召天者を憶えて
 
竿代 照夫牧師
 
ルカの福音書20章27-38節
 
 
[中心聖句]
 
  36   彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。
(ルカ20章36節)

 
聖書テキスト
 
 
27 ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、28 こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』29 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。30 次男も、31 三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。32 あとで、その女も死にました。33 すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。37 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました。38 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」
 
1.今日のテーマ:死後の命のあり方
 
 
今年も、召天者記念礼拝を迎えました。私達の友達、家族、先輩たちのありし日を偲び、その生涯のゆえに神の恵みを称え、そして、私達も同じ天国に向かって希望を持って人生の歩みを整える幸いな機会です。今日は、天国にある人々はどんな状態にあるのか、ということについて聖書の光を得たいと思います。

私達は、死んだ後どうなるのでしょうか。「千の風になって」と言う歌は、亡くなった人が「大空を吹き渡る千の風、畑にふりそそぐ光、ダイヤのようにきらめく雪、朝目覚めさせる鳥、あなたを見守る星」になって身近にいると歌っています。これは、私達の願望をこめた一種の文学的表現でありまして、特に、そうなることが確かだというわけではありません。あの世に行って帰ってきた人はいませんので、確かなことは誰も言えないのですが、ただひとり、天から来られたと自ら主張され、そして、私達もそのことを信じている、主イエス・キリストが齎された情報は、聞くに価する証言です。

この問題に関する主イエスのお答えは単刀直入です。「彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」というものです。この言葉を理解するためには、この主イエスが、どんな状況でこの言葉を語られたかの背景を少し見て見たいと思います。
 
2.声明のきっかけ:「サドカイ派」の質問
 
 
・サドカイ派:
仏教やキリスト教と同じように、ユダヤ教の中にも色々な宗派がありまして、その内の一つがサドカイ派と呼ばれる流れです。死人が復活するなど問いう事はありえないといういわば理知的な人々でした。魂の永遠性も信じない人々で、魂は肉体と共に滅びる、来世はない。その彼らが復活の希望を説く主イエスを馬鹿にしようと思って、難問を考えました。

・その質問:
簡潔に言えば、一人の女性が一人の男性と結婚したところが、その夫が死に、その弟と結婚したら、その弟も死に、という風に、7人の兄弟の妻となった、この女が死んで復活したら誰の妻になるか、というまことに愚かしい質問です。本当にそれを疑問に思っていたのではなく、この難問で、この若き宗教家をやり込めてやろう、という意図が見え見えの質問です。

サドカイ派の興味本位な質問とは別に、純粋な意味で、あの世での結婚関係はどうなるのかな、と疑問に思っている人は多いのではないかと思われます。近松門左衛門原作の有名な歌舞伎である「曽根崎心中」では、醤油屋の丁稚である徳兵衛と遊女のお初の悲恋が描かれ、二人の無理心中で終わるのですが、それは決まってあの世で結ばれるという期待で終わるわけです。ロミオとジュリエットも同じです。本当にそうなのでしょうか。それから、地上で、伴侶者の死別などによって再婚した人は、天国ではどんな関係になるのでしょうか。興味深い点でもあります。
 
3.主イエスの声明(1):神は永遠であり、生ける者の神である
 
 
・その例証:
主イエスは、この問題について二つの声明を示されます。順序を変えて、第二のものから始めます。それは、「神は、生きているものの神であり、しかも神に対しては皆が生きている」という真理です。「それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(37-38節)死後の世界がある、という真理の例証として、主は出エジプトの指導者モーセへの言葉を引用されます。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」これは、神の自己紹介の言葉です。この自己紹介を、キリストは「(4百年前に死んだが、今別の世界で生きており、私に仕えている、その)アブラハムの神、(4百年前に死んだが、今別の世界で生きており、私に仕えている、その)イサクの神、(4百年前に死んだが、今別の世界で生きており、私に仕えている、その)ヤコブの神である。」と取るべきではないか、何故なら、神は死者の神ではなく、生きたものが仕えている現在的な神なのだ、とおっしゃったのです。つまり、モーセから見て4百年前の人物であるアブラハムもイサクもヤコブもみんな生きているのだ、死後の命を否定するあなたがたサドカイ人は間違っている、と指摘されたのです。

・来世はある、神は「生きている者の神」:
復活について言えば、肉体は滅びても、魂は生きており、その肉体との再結合がある、それが復活である、その再結合こそ、神の奇跡である、神の力への信仰を持とうとキリストは語られたのです。38節の声明は来世に対して、大きな光と確信を与えます。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」
 
4.イエスの声明(2):神の子らはエンジェル的な存在となる
 
 
その復活の状態に関しては、「彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」(36節)と語られました。御使いとは、英語ではエンジェルで、日本語とはちょっとニュアンスが違って可愛らしい感じがしますね。ですから、今日の説教題は英語にしました。もちろん、背中に羽が生えるかどうかは、保証の限りではありませんが、聖書が御使いについて、どんな存在なのか、どんな仕事をするかについて語っているポイントを捉えたいと思います。

@永遠性、不死性:
キリストは、私達の復活の状態に関して、「御使いような存在となる」と単純に語られました。御使いは、死ぬこともなく、永遠の存在ですから、子孫を増殖する必要がありません。私達の来世での存在形態は、御使いのようになる、つまり、永遠に生きるもの、不死の存在になる、従って子孫を増やす必要がなくなる、いわば中性的な存在になります。ですから、私達の多くが経験しているような、夫婦の一体性は違った形になることでしょう。少なくとも、天国に行ってまでも奥さんに向かって「おーい、お茶」などと命令するというようなことは、無くなるでしょう。一方において、長年連れ添った伴侶者と天国で再会した時、「あなたは一体どなたでしょうか」などとよそよそしくなるとも思えません。第一ペテロ3:7には、伴侶者とは「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」と記されていますから、特別な交わりはありえましょう。でも地上における夫婦のような、特別な意味での一体関係ではないと思われます。地上で夫婦であることの喜びに勝る喜びが天国にあるのですから、それで良いのです。私達の想像を超えたすばらしい世界であることは間違いありません。そんな世界で、長男の嫁で、次男、三男と次々に結婚させられた女が、誰の妻になるかということは問題にもならない、それほどすばらしい、高次元の世界が待っている、と主は語られるのです。

A清らかさ:
天使のようとは、悪しき欲望からも解放され、死もなく、苦しみもない状態です。34節で主イエスは、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが」とおっしゃり、かの世では、そのわずらわしさがなくなる、と語られます。人間の間の多くの嫉妬・憎しみ・裏切りは、男女間の欲望から生まれることを思いますと、そのわずらわしさから解放されて清らかな心が与えられる幸いを皆が持つことでしょう。

B賛美の世界:
わずらわしさから解放されて、私達は一体何をするのでしょうか。天国は、暇で仕方がない世界でしょうか。そうではないでしょう。私達は神の恵みの素晴らしさに感動の連続をすることでしょう。そしてフレッシュな心で主を賛美し、互いの交わりを心から感謝することでしょう。アメージング・グレースの第1節は、ノンクリスチャンの間でも、超有名ですが、その5節は余り知らない方が多いと思います。

When we've been there ten thousand years,
Bright, shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.

太陽のように明るく輝く天国で
一万年過ごした時でさえも、
私達が最初に神の恵みを歌い始めたその時から見て、
数日分しか歌っていないと感じることだろう
 
5.私達へのメッセージ:来るべき世への希望
 
 
・初穂として死から甦られたキリスト(Tコリント15:20-21)を仰ごう:
昨週、私達は全世界のクリスチャン達と共に、キリストの復活を祝いました。キリストは文字通り、十字架の上で死に、葬られました。そして、三日後に死を蹴破って復活されました。それは、私達が、死後に甦る道を開いたことだと聖書は記しています。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(Tコリント15:20-21)

・復活の望みに生きよう:
この復活の望みを抱きながら、私達も現在の生涯を主の恵に守られて歩みたく願います。この望みがある限り、現状はどんなに厳しく、暗いものであったとしても、超・明るく生きることが出来ます。
 
お祈りを致します。