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40日が過ぎてから、10日間弟子達は聖霊を求めて祈り続け、丁度50日目(ペンテコステの日)その祈りが答えられたのです。 |
私達が今過ごしているのは、教会のカレンダーとしては、聖霊降臨を待ち望んで祈り続けた弟子たちの心に倣って、私達と聖霊との関係を思い巡らし、新たな満たしを祈り求める幸いな時です。 |
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2.「聖霊の約束」の背景 |
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・時: これは、先ほど示した復活後の主の顕現の第五番目です。復活の日の夜、弟子達が集まっていたところに主が現われました。ヨハネによると10弟子ですが、その直前に、エマオ途上で主と出合ったクレオパと他の弟子が駆けつけてきたことをルカが記していますから、10人よりは多かったと思います。 |
・場所: 場所は最後の晩餐に使ったマルコの母マリヤの家の二階でした。 |
・状況: 弟子達は、片方では主が復活したというリポートを聞いて希望を起された反面、ユダヤ人指導者によって一網打尽に捕まるかもという恐怖とないまぜの心境でこの夜を迎えていました。もちろん、そのドアは固く閉じられていました。 |
・主の現われ: そこに主イエスが現われたのです。弟子達は、驚き恐れて、イエスの幽霊を見ているのだと思った、とルカは正直に記しています。(ヨハネは「喜んだ」と結果だけ記していますが、その喜びの過程には驚きと恐れ、そして疑いもあったのでしょう。)そこで主は、その傷ついた手とわき腹、そして傷ついた足も示されました。それは幽霊などではなく、十字架に付けられたその生々しい傷跡を保っておられるイエス様ご自身でした。それでも、幽霊かもと疑っている弟子たちのために、主イエスは、一緒にパンと魚とを召し上がり、肉体を持っていることを示されました。 |
・「平安」のメッセージ: 主が、恐れ戦いている弟子達に「シャローム」の挨拶を送られたことは、一昨週ヨハネ福音書から学びました。 |
・宣教命令と聖霊賦与の約束: ヨハネは、それに続いて宣教の命令があり、聖霊賦与の約束がなされたと記しています。「父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。」(21節)「そして、息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22節)ルカは、違った表現でこの宣教命令と聖霊の約束を記していますので、今日はルカに従ってこれを見てみましょう。 |
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3.宣教命令が与えられる |
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・四つの福音書に共通: 46-48節を見ます。「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」ここで、主の宣教命令が記されています。四つの福音書の締めくくりは、状況こそ違いますが、キリストの宣教命令であったことは、私達が彼の弟子としてしっかりと確認しなければならないポイントです。さてその内容は何でしょうか。 |
・聖書に基づく救い: 44節を見ると「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」と、一連の出来事が、旧約聖書の予言の成就であることをもう一度確認されます。「モーセの律法と預言者と詩篇」とは、ヘブル語の旧約聖書の構成順序で、旧約聖書全体ということです。創世記からマラキ書まで、旧約聖書は救い主メシアの予言で満ちています。 |
・成し遂げられた救い: 主イエスは、その予言(特にイザヤ書53章が顕著ですが)に従って、私達の罪の身代わりとして十字架の苦しみを受け、救いを完成されました。そして、詩篇16篇を始とする一連の予言に従って、三日後の復活し、その救いの確かさを証されました。 |
・罪の赦しを齎す悔い改め: その完成された救いを自分のものとするのは単純な心をもってキリストを主と受け入れることです。その時、私達の犯した罪は赦され、罪の心が清められるのです。 |
・エルサレムから全世界に: 四つの福音書と使徒の働きが主の宣教命令を違ったニュアンスで記録していますが、その共通的特徴は、世界的であることです。それまでの主イエスの奉仕は、第一義的にユダヤ人に向けられていました。しかし、すべての人の贖いを成し遂げた今、主は弟子達の目を世界にと向けておられます。 |
・証人としての宣教者: 証人という言い方は、使徒1:8にも繰り返されています。文字通り、弟子達は十字架と復活の目撃証人であったのですが、この場合には、その出来事を積極的に証言する証人という意味です。私達は、この肉眼をもって十字架と復活を見たわけではありませんが、救いをいただくという個人的な経験に関して「証人」であります。私達の宣教も、説教も証言的な響きを持ったものでありたいと思います。 |
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4.聖霊賦与が約束される |
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「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(49節) |
・もう一人の助け主として: 「父の約束」のもの、とは端的に言えば聖霊の賦与です。主イエスは、十字架に掛る前夜、特にこの約束を提示されました。ヨハネ14:16-17を読みましょう、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」 |
・キリストを証する霊として: 続く26節には、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」また、15:26には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」と、聖霊がキリストと切り離された存在ではなく、むしろ、キリストを心に印刻されるお方として紹介されています。 |
・力を与える霊として: ルカは49節で、聖霊が「力を被せる」方であると紹介しています。使徒1:8も同様です。聖霊無しに、キリストの宣教命令は実現できません。 |
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5.「都に留まる」とは |
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聖霊付与のお約束を実現する為に弟子たちがしなければならなかったことは、祈り待ち望むことでした。使徒1:4,5にもそれが繰り返されています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 |
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・活動よりも心: 「留まる」(カティゾーというギリシャ語は、「座り込む」、「住む」という意味です)ということは、活動よりも心(Doing よりもBeing)の強調を意味しています。私達は何かをしていないと落ち着かないという活動中心的な強迫観念すら持っていますが、主は反対です。わさわさと活動に走らないで、じっと坐って神の御心を探り、自分を整えていただき、神のみちからを待ち望むことに時間を使いなさいと主は望んでおられます。 |
・祈りと待ち望み: 「留まる」という営みは、当然ながら祈り、待ち望みを意味する。聖霊が清めてくださるように、強めてくださるように、イエスの言葉を思い出させてくださるように、聖霊を祈り求めねばなりません。聖霊の干渉無しには全く無力で、罪深く、知恵のないものだという謙った認識がそのスタートです。 |
・約束に基づく: 弟子たちの祈りと求めは約束に基づくものです。ヨハネ16:7には、聖霊賦与の条件が語られています、「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」 |
・共に求める姿勢: 弟子達がみんなで共に祈るようにと勧められています。一人の祈りではなく、心を合わせて祈る祈りが大切なのです。共に祈ることで、彼らは一致できない自分たちであることを知らされ、悔い改めに導かれ、謙って共に祈るように整えられました。 |
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終わりに:必要を認め、切なる思いで待ち望もう |
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今日の主テキストを思い巡らしましょう。「・・・まで」というのは、時間の長さではありません。私達の準備態勢のことです。主の助け無しには、どうにもならないものだということが徹底的に分かるまでの過程なのです。私達は、その心を共有しているでしょうか。今日、心を開いて、聖霊を待ち望みましょう。 |
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