礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年5月3日
 
「『信じるもの』になろう」
CSデー礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
ヨハネの福音書20章24-29節
 
 
[金言]
 
  29   イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
(ヨハネ20章29節)

 
聖書(ヨハネの福音書20章)
 
 
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 
1.「ふたご」のトマスさん
 
 

今日おはなしするのは、イエス様の12人の弟子の一人、トマスさんです。トマトでもありません。ナスでもありません。その中間のトマスさんです。覚えてください。トマスっていうのは、ユダヤの言葉では双子っていう意味です。ギリシャ語では「デドモ」です。このトマスさんは、双子のお兄さんだったのかもしれません。ちゃんとした名前を持っていたのかもしれませんが、双子が珍しかったためか、「双子ちゃん」って呼ばれることが多かったらしいんです。かわいいですね。

このトマスさん、どういう訳でイエス様のお弟子になったのか聖書に書いてありません。ただ一つ言えるのは、イエス様のこと大好きだったことです。
 
2.「イエス様と一緒に死ぬ」
 
 

ベタニヤという村にやっぱりイエス様大好き家族がありまして、そのうちのひとり、ラザロさんが病気になって、それが重くなって、死んでしまいました。イエス様は、病気の時にはお見舞いに行かないで、死んだというニュースを聞いてから、じゃあ出かけよう、とおっしゃったのです。他の弟子たちは、「先生、行くのは無駄でしょう、それにあの場所には先生のことを殺そうと思っている人がウジャウジャ居るから危ないです、止めましょう。」といいました。その時、普段は静かにしているトマスさんが突然こう言い出しました。「先生、先生が死ぬんなら、私達も一緒に死にますよ。ねえ、みんなそうだろう。」トマスさんが、どんなにイエス様を深く愛していたかが分かります。ヨハネ11:16「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」他の弟子たちもびっくりしました。普段おとなしいトマスさんが、イエス様の危険を嗅ぎ取って、主が死になさるのなら、私達も一緒に死のうと、言い出したのです。トマスさんはものを深く考える性質を持っていました。そして、自分の命を捧げるほどイエス様を愛していました。
 
3.「イエス様、どこへ行くのですか?」
 
 

イエス様が十字架にかかられる前の夜のことです。イエス様は12人のお弟子さんにお別れのお話をなさいました、「私はいなくなるけれども心配しなくてもいいですよ。私はあなた方がついてこられるように、道を作っておいたからね。」他の弟子たちはぼーっと聞いていましたが、トマスだけは、一生懸命聞いていましたから、「はい、先生、質問があります。」って手を上げました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」学校でもそうですが、先生が大好きなのは、よく質問する生徒です。先生の話をよーく聞いている生徒は、良く質問します。先生のことが好きですし、先生の言うことをよく分かりたいからです。トマスはそんな弟子でした。
 
4.あのイエス様が十字架に(!?)
 
 

トマスさんにとって大きなショックは、トマスさんが大好きなイエス様が、事もあろうに十字架にかかってしまったことです。あのイエス様が、あのむごたらしい十字架につけられるなんて、そんなことってあり?とトマスさんはものすごく落ち込みました。

それから三日経ちました。その三日目の朝のことです。女の弟子達駆け込んできて、「イエス様が生き返った」「そのイエス様にお会いした」と口々に言うのです。本当かなという気持ちと、死んだ人生き返るなんてそんな馬鹿なことがあるものか、という気持ちが混ざったような変な気持ちになりました。トマスさんは心の中で言いました、「だから女は困る、簡単に夢とか幻を信じてしまうんだから・・・」そのまま友達の弟子たちと別れて、静かなところに引っ込みました。信じたいんだけれど素直に信じますというと、お前って単純、って言われそうでそれも出来ない、心の中の戦いを感じていました。
 
5.「ボクは信じないゾ!」
 
 

トマスが出かけた後、弟子たちがユダヤ人たちの迫害の手を恐れて、一箇所に集まっていたところイエス様が現れてくださいました。弟子たちは、大喜びで、「本当にイエス様は甦ってくださった。」とはしゃいでいました。そんな騒ぎの真っ最中にトマスさんがそっと戻ってきました。「トマス君、信じられるかい?イエス様が現れたんだよ。君も、もう一時間早く戻って来ればよかったのに」とか、「君はこんな大事なときに何しに外へ行ってきたんだい。」「君は、いつでも勝手な行動をするからいけないんだよ、こんな大事件を見逃してしまうなんて。」と棘が入ったようなみんなのことばがシャワーのようにトマスさんの耳に降り注ぎました。「そうか、よかったね。」と言おうとしたトマスさん、急にひねくれてしまいました。「死んだ人が生き返るなんて、そんな馬鹿なことがどうして信じられるの?」といってしまいました。「いやー、僕らもそんな馬鹿なって思ったんだが、それがあのイエス様と同じなんだ、声だって顔だって、あのときのままだったよ。」「じゃあ、聞くけどね、イエス様の手に十字架で釘付けられた傷跡はあったかい?わき腹を槍で刺されたけど、その後はあったかい?」「ウン、あったとも、あれは絶対その通りだったよ。」一瞬黙ったトマスさんはこう聞きました「その傷跡に触ってみたかい?手を突っ込んで傷を確かめたかい?」「うーん、そこまではしなかったけど・・・」「そら見ろ、だから君たちは非科学的なんだ。物事は、きちんと確かめないで信じちゃいけないんだよ。」「そんなこと言ったって・・・」「いいや、僕は信じない。この目で傷跡をしっかり見て、この指をイエス様の手の傷跡に突っ込んで、この手をイエス様のわき腹の傷に突っ込むまでは、絶対信じない。」トマスさんはますますむきになって言い張りました。他の弟子たちは、ああ、またトマスの理屈が始まった、と思って黙ってしまいました。

私達も思わず不信仰の言葉を言ってしまった後で、自分で自分を責めてしまうことがありますね。愛するイエス様に対して、手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、私の手をその脇に入れなければというのは、いかにも失礼な言葉です。しかも、決して信じない、力を込めて言ってしまったトマスは、自分でも言い過ぎたな、と反省して、一週間、自分の言葉に悩み続けたことと思います。他の十人のように単純に信じられたらうれしいな、と言う気持ち、私は確信を得るまでは疑ってやるぞと言う頑固な気持ち、それらが心の中で言ったり来たりの一週間でした。
 
6.「イエス様、ごめんなさい」
 
 

ちょうど復活後一週間目、つまり、日曜日の夜、イエス様はもう一度11弟子に現れてくださいました。そして、一番最初にトマスさんに向かってこういわれました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

トマスさんは、自分が傷跡を見、指を突っ込み、胸の傷跡に手を突っ込まなければイエス様がよみがえったなんて絶対信じない」と叫んだその激しい言葉が、実はイエス様に聞かれていたんだ、と思ってびっくりするよりも、顔が真っ青になりました。ああ、イエス様は全部知っていらっしゃるんだな、イエス様は僕のことを愛しておられるんだなという気持ちがトマスさんの心に溢れてきました。

もちろん、「では、触らせていただきます。」なんて野暮なことは言いません。「イエス様ごめんなさい。あなたは本当の救い主です。いいえ、人間の形を取っているけれども、本当は神様です。」といったまま、涙に暮れて、イエス様の前にひれ伏してしまいました。トマスさんはユダヤ人でしたから、人間を神様として拝むなんて絶対しちゃいけないという気持ちを強く持っていました。そのトマスさんが、人間であるイエス様を神様と崇めて礼拝すると言うことは、驚くべきことです。こんな信仰は、実は疑ったからこそ生まれました。トマスさんは、徹底的に反発をし、疑い、迷った末に、他の誰でも到達できなかったような強くて高い信仰を持つことが出来たのです。このときのことをしっかりと覚えているひとりの弟子が居ました。それは、ヨハネです。そのヨハネがイエス様のことを書こうとヨハネ伝を書いたとき、このトマス物語を一番最後のエピソードにおいて、イエス様が神の子であることをはっきりいうことがヨハネ伝の目的だとまで言ったのです。

イエス様はやさしくトマスさんにおっしゃいました。「信じるものとなりなさいよ。信じないのは、とても苦しく、不自然だよ。神様のことについては、何にも見ないでも、単純に信じなさい。」その言葉はトマスさんの心に深ーく留まりました。
 
7.宣教師になってインドへ
 
 

トマスさんはそのとき思いました。「そうだ、このお方に一生涯を捧げよう、宣教師になろう。」そう決心したトマスさんは、他の弟子が考えもしなかったずーとずーっと遠い東の国、インドへ行きました。そして、イエス様のお話をして、教会を建てました。最後は(多分マドラスで)キリスト教に反対する人々に殺されてしまいました。しかし、トマスさんの建てた教会は、マートマ(聖トマス)教会として、今でもケララ地方にしっかりと残っています。
 
8.信じる者になろう
 
 

私達も、トマスさんと似たところがあります。もちろん、みんながみんな、トマスさんのように疑い深くはありません。単純に信じることが出来る人もいます。でも、疑いの心を持つ人の方が多いのではないでしょうか。疑ってもいいのです。でも自分の心に正直であることは大切です。分かることは分かる、分からないものは分からない、はっきりと自分を持つこと、そして、その心の姿をイエス様にぶつけることです。イエス様は私達の疑いを真正面から受け止めてくださいます。そして、ご自分を表してくださいます。イエス様にもう一歩近づきましょう。金言を覚えて終わります。
 
お祈りを致します。