礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年5月10日
 
「御霊の自由な働き」
五旬節に向かう(2)
 
竿代 照夫牧師
 
ヨハネの福音書3章5-8節
 
 
[中心聖句]
 
  8   風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者も皆、その通りです。
(ヨハネ3章8節)

 
聖書テキスト
 
 
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 
はじめに:ペンテコステは大切な日
 
 
・初代教会が重視:
今年のペンテコステは5月31日です。教会暦では、クリスマス、イースターと五旬節(ペンテコステ)が三大節期と呼ばれていますが、実際には、三つのうちで一番影が薄いのがペンテコステであるように思われます。しかし、初代教会においては、ペンテコステは大切な節期として覚えられておりました。使徒パウロも五旬節を大切に考えていました。第三伝道旅行の途中で、コリント訪問を計画した時にも、今滞在して居るエペソでペンテコステを祝いたいと言いました(Tコリント16:8)。旅行の最後には、エルサレムでペンテコステを祝いたいと、スケジュールを早めたほどでした(使徒20:16)。

・「聖霊の就任式」:
ペンテコステとは、聖霊がそのお働きを自由にまた力強くなさり始めた「聖霊の就任式」であり、その結果として生まれた教会の誕生日です。自由に、と言いましたが、それまで聖霊が働いておられなかった訳ではありません。天地創造においても(創世記1:2)、人間創造においても(同2:7)聖霊は力強く働いておられました。しかし、キリストの贖いが成就するまでは、完全に自由に働きなさいませんでした。これは、私達の生活を支える給水体制に譬えられます。聖霊は貯水池に貯えられた豊かな水、贖いの恵みは配管工事、私達の信仰と明け渡しは蛇口に譬えることが出来ます。聖霊は豊かな恵みをもって待ち構えておられますが、配管工事が終わらない限りは各家庭に配水されません。配管工事が終わっても、各家庭の蛇口が開かれない限り、水は個人には得られません。ペンテコステは、水道で言えば、配管工事が終わり、蛇口も一杯開けられて、豊かな水が供給され始めた出来事です。

・聖霊の主導権を認める必要:
この給水体制は今でも続いているのですが、どうも水道の出が昔程ではない、と感じている人が多くいます。それは「貯水地の水量」が減ったからではありません。問題があるとすれば、私達の蛇口の開け方が中途半端だからではないでしょうか。現代教会の一つの問題点は、聖霊の主導権ではなく、人間の主導権を重んじる傾向です。聖霊の助けという言葉を言ってはいますが、あくまでも助けであって、活動の中心を人間においていることが問題なのです。その意味で、聖霊の主導権を強調された主イエスの言葉(ヨハネ3:8)に心を留めたいと思います。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者も皆、その通りです。」ここから、聖霊の自由なお働きについて、そして、私達がその働きにどのように協力すべきかについて聖書全体から学びます。
 
A.聖霊の自由なお働き
 
1.それは「風」に譬えられる
 
 
・「ルアハ」と「プニューマ」:
風と息と霊は、へブル語でもギリシャ語でも同じ言葉でして、へブル語では「ルアハ」、ギリシャ語では「プニューマ」です。実際、8節のギリシャ語で「風」と訳されているのは、プニューマです。霊もプニューマです。同じ言葉ですが、文脈によって、訳し分けているだけなのです。

・プニューマ:
辞書的な説明を加えます。プニューマの原意は「息」です。空気が息づくから「風」になります。人間に神の息が吹き込まれるから「霊」となります。その「人の霊」は、「神の霊」である聖霊と交わり、聖霊の感化を受けます。聖霊によって生まれ変わるという事は、福音を信じたものに新しい霊的な命が始まることを意味します。そのようにして生まれ変わったクリスチャンの中に、聖霊の感化によって、清められた性格、傾向、感情、ものの見方が生まれ、平安と喜びを生み出します。

今日のテキストである5-8節までにプニューマという言葉が5回出てきますが、5節、6節の前半、8節の後半のプニューマは聖霊、6節の後半のプニューマは人間の霊的な性質、8節前半のプニューマは聖霊の譬えとしての風として捉えることができます。
 
2.聖霊は自由に働きなさる
 
 
「自分の思い通りに吹く」という言葉は、聖霊の主導権、自由を示します。私達が聖霊のお働きに注文をつけることは出来ないし、してもいけないのです。先ほども言いましたように、現代の教会の大きな問題点は、人間の計画、思い、組織というものが先に立っていて、聖霊の助けが必要とは言いつつも、それが「補助的」に考えられていることです。聖霊は「思い通りに」(自由に)吹きなさるお方です。その自由な力強いお働きを信頼し、期待し、或いはお委ねし、譲ることが、信仰者の取るべき基本的な姿勢ではないでしょうか。

ペンテコステにおいて、聖霊が自由に働きなさったことを如実に示す言葉は、使徒たちが聖霊に満たされた時に「聖霊が述べさせるように」語った(使徒2:4)という記事です。この時の経験は、いままで習ったことのない外国語に依る説教でした。言葉うんぬんよりも、聖霊が述べさせるように語ったということがポイントです。聖霊が語りなさいましたので、聞くものの心に聖霊が直接はたらいて、多くのものが回心に導かれたのでした。
 
3.聖霊は人を活かし給う
 
 
・人間の創造において:
人間の創造において、聖霊が人間を活かすものとなさいました。「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)人間を人間たらしめるもの、それは神の霊の注入です。聖霊が注がれることによって、神と共通の性質を持ち、それによって、神と交わり、神を喜ぶことが出来るのです。例えて言いますと、人の霊とは、神が私達に与え給うた携帯電話のようなもので、それによって、神とお話が出来るようになります。

・罪のゆえに、神の霊を失った:
残念ながら、人間はその罪のゆえに、神の霊を失いました。エペソ2:1には、「あなた方は罪と咎によって死んだものであり」と記されています。人間の罪が、いわば絶縁体となって神との交流を妨げてしまったのです。これは人間にとって致命的な打撃です。フィラメントの切れた電球のようなものです。形は電球ですが、光がありません。人間の形を維持していますが、神の力と恵を失ってしまいました。清さが失われ、愛が自己中心に置き換えられてしまいました。

・聖霊による生まれ変わりが絶対的必要:
このヨハネ3章では、真面目人間の典型のようなニコデモに向かって、「新しく生まれなさい」、「生まれ変わりなさい」とキリストが語っておられます。どうやって新しく生まれるのか、というニコデモの質問への答えが、「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」でした。御霊によって生まれるとは、端的にいえば「聖霊が与えられること」です。人間が生まれつき持っていなかった神への愛、神への畏れ、神への信頼の心が注がれることです。この経験がありませんと、たとえ洗礼を受けていても、教会生活が長くても、通じ合うことが出来ません。逆に、この経験が確かですと、意見の相違はあっても、通じ合うことが出来ます。
 
4.聖霊の働きはハッキリと確認できる
 
 
・その音を聞く:
主イエスは、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)と語って、新生における聖霊のお働きの詳細は分からなくても、その事実を知ることはできるとおっしゃっています。台風が来た時、私達はその風が何処から来て、何処へ抜けていくかを正確には知りえません。でも、ゴーっという音は聞き、倒れた樹木によって風が来たという事実は確認できます。

・聖霊の証(ローマ8:16):
自分が生まれ変わったかどうかハッキリしないとか、人に聴いてみて安心するとかいうような、漠然としたものではありません。パウロはローマ8:16でこう言っています、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ジョン・ウェスレーの父サムエルが、72歳の伝道生涯を全うして死を迎えたとき、ジョンにこう言い残しました。「息子よ、内なる証し、内なる証し、これこそ証明、キリスト教の最も確かな証明なのだよ。」と。それが1735年4月25日でしたが、その3年後の5月24日に、ジョンはこの内なる証を経験します。救いの確信の体験と宣証が、18世紀のイギリスのリバイバルの特徴となりました。御霊の証について、ジョン・ウェスレーは、こう定義しています。「御霊の証しとは、魂に対してなされる内側の印象であって、それによって神の霊が、私は神の子であるということ、イエス・キリストが私を愛して私のために命を捨ててくださったこと、私のすべての罪が消し去られ、この私が神と和解することが出来たという事実を、私の霊に対して直接に証なさる証のことである。」と。これは必ずしも、感情的な高揚を意味するものではなく、真実に、正直に罪を悔い改め、心からイエスを救い主と信じ、その信仰をはっきりと告白するとき、心の中に与えられる静かな確信のことです。

・私達の霊の証:
パウロは、聖霊の証に加えて「私達の霊の証」について述べていますが、これは、「自分の生活を振り返って、自分の生活の変化と主イエスを信じたらどうなるかを述べている聖書の文言を比べて、確かに自分は救われているとうなずくことからくる納得のこと」(河村襄)と述べています。
 
B.私達のなすべきつとめ
 
1.聖霊の働き給う方向に自分を合わせる
 
 
・未信者の時代でも:
聖霊は、私達の心に働いていてくださいます。ちょうど、風がいつでも吹いているようにです。強い時もあり、弱いときもあり、南から吹くときもあり、北から吹くときもあります。でも吹いていることは確かで、それを感じることは出来ます。ジョン・ウェスレーは、未信者の中にも働いている聖霊の働きを「先行的恵み」と名づけました。大自然の懐に抱かれて、ああ神様がいらっしゃるんだと感じる、大きな危険から守られて、神様が助けてくださったと感じる、身内の方が亡くなって永遠を思い巡らす、という心の営みは、みな聖霊の働きです。そうした感覚を大切に考え、私への神の語り掛けと感じる心の柔らかさ、鋭敏さを持つ必要があります。

・信仰を持つときにも:
さらに進んで、キリストの福音がはっきりと示されたとき、そうだ、キリストの十字架は私のためだった、この方を救い主として信じようと単純率直に告白することも聖霊の働きです。聖霊による生まれ変わりがどうして起こりうるか、というニコデモの質問に答えて、キリストは「自分はすべての人間の罪の呪いを一身に背負って十字架にかかる。その十字架にかかったキリストを救い主として信じたものは、神の命と人間の命を結ぶ妨げとなっている罪を赦されて、聖霊を与えられ、永遠の命を持つようになる。」(14-15節の意訳)と語られました。

・信仰を持った後も:
御霊を宿してクリスチャンとなってから、聖霊はもっとはっきりと私達の心に働きかけ、導き、力づけてくださいます。特に、祈りにおいて弱さを覚える私達に、御霊は助けを与えて下さいます(ローマ8:26)。
 
2.肉に頼らず、聖霊に信頼する
 
 
ローマ8:5-7を読みます。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。」聖書で「肉」と呼んでいるのは、「神を離れた人間性」のことです。救いを人間の力や努力や勤行によって獲得しようというのは、健気に見えますが、聖霊を働きを度外視する傲慢の罪です。教会の働きにおいて、世の常識的考えを基盤として計画したり、実行するのは「肉」であります。私達が肉によって物事を進めようとしますと、聖霊のお働きを止めてしまいます。
 
3.聖霊の働きを妨げる活動を止める
 
 
聖霊は自由に働き給うのですが、それを止めるのは、私達の不服従、罪、互いの反目やら競争心・・・これらは悔い改めて取り除いて頂かねばなりません。聖書は聖霊の働きを妨げる活動を次のように挙げています。

 「御霊を憂えさせる」(エペソ4:30)
 「御霊を消す」(Tテサロニケ5:19)
 「御霊に逆らう」(使徒7:51)
 「聖霊を冒涜する」(マタイ12:31,32)

私達は、不用意な言葉や行いを通して、聖いお方である聖霊を悲しませることがあります。悲しませることを続けると、私達の心が更に鈍感になって、御霊の自由な働きを止める積極的な罪となって現れるのです。私達が養わねばならぬのは、聖霊の思いに気付く敏感さではないでしょうか。
 
4.聖霊の力強い働きのために祈る
 
 
私達のなすべき最大のつとめは、聖霊が自由に、力強くこの時代に働いてくださるよう祈ることです。聖霊の力強いお働きのために祈るべきことは、エゼキエルが枯れた骨が生き返るように預言したあの祈りの中に示されています。「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」(エゼキエル37:7) 「聖霊様、この死んでしまったような私の魂を生き返らせてください。この望みの絶え果てたような現代社会をあなたの力強い息吹によって生き返らせてください」と祈ろうではありませんか。
 
終わりに:聖霊の声に従おう
 
 
この朝、聖霊があなたにささやいておられる声に耳を傾けましょう。それがどんなに小さなことでも大きなことでも、捨てなければならない罪に対する対処であっても、和解しなければならない友との和解であっても、それは聖霊が風のようにあなたの心に吹いている働きかけなのです。それに従順に従い、それに対して信仰の祈りをもって応答しましょう。
 
お祈りを致します。