礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年5月17日
 
「聖霊のバプテスマ」
五旬節に向かう(3)
 
竿代 照夫牧師
 
ヨハネの福音書3章5-8節
 
 
[中心聖句]
 
  5   ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。
(使徒1章5節)

 
聖書テキスト
 
 
3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
1.「聖霊によるバプテスマ」が約束される
 
 
・主イエスの昇天直前の遺言として:
5月21日は、主イエスの昇天記念日です。オリーブ山から主が昇天された後、10日間の祈祷会がエルサレム市内の(多分マルコの家の)二階家で始まり、5月31日のペンテコステに至る訳です。聖霊降臨を待ち望んで祈り続けた弟子たちの心に倣って、私達も新たな満たしを祈り求めたいと思います。さて弟子達が求めていたものは、何かを示すのが、5節です。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」今日は、この「聖霊のバプテスマ」に絞って、この聖書箇所から、また、他の聖書箇所から、お話ししたいと思います。

・「聖霊によってバプテスマをうける」と預言:
新改訳では「聖霊のバプテスマ」と名詞の繋がりで記されていますが、元の言葉は、「聖霊によってバプタイズされる」(You will be baptized in the Holy Spirit=en pneumati baptistheesesthe hagioo)と動詞形で表現されています。「聖霊のバプテスマ」という場合、Baptism with the Holy Spiritといい、of the spirit とは言いません。

・「聖霊による」:
「よる」という言葉(英語ではin)とは、
(a)聖霊のお名前による、という風に解釈することも出来ます。その意味では、父、子、御霊の名によってバプテスマを授ける(マタイ28:19)という主イエスの宣教命令とも符合します。
あるいは、
(b)聖霊に浸していただくという意味とも取れます。バプティゾーという言葉からは、聖霊によって部分的にではなく完全に影響を受けるまでに浸していただくというニュアンスが出てきます。
恐らく両方の意味が籠められていると思います。

・世界宣教の動力として(8節):
「エルサレムを離れないで」ということばは、ルカ24:49の「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」という言葉と符合します。その24:49は、47節の「罪の赦しを得させる悔い改めが・・・あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」という宣教命令とつながっています。使徒1章の命令も、8節の世界宣教命令と繋がっています。つまり、聖霊のバプテスマは、世界宣教を可能とする力なのです。反対にいえば、聖霊のバプテスマ無しに、世界宣教は出来ないのです。
 
2.バプテスマのヨハネも預言した
 
 
・水のバプテスマより深い業:
バプテスマのヨハネが、主イエスのなさろうとするみ業を預言した時、自分よりも深い業をなさるお方として紹介しました。「この方(キリスト)がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。またヨハネは証言して言った。『・・・水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」』」(ヨハネ1:31-33)

・火によるきよめ:
同じ記事ですが、マタイは異なる表現を加えています。「私(バプテスマのヨハネ)は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方(キリスト)は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」 (マタイ3:11)と。この「聖霊と火のバプテスマ」というのは、本物の火ではなく聖霊が火のように下られ、深い霊的経験をすると言うことを示しています。聖書で、「火」は、罪や汚れを焼き尽くして「きよめる」と言う意味合いを併せ持っているからです。
 
3.ペンテコステにおいて成就された(使徒2:4)
 
 
「間もなく、・・・受ける」と預言された「聖霊のバプテスマ」は、その10日後ペンテコステの朝に実現しました。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-4)この出来事から、「聖霊のバプテスマ」について、以下の三つの事が分かります。

・「既に信じていた弟子達」に与えられた:
このバプテスマは、未信者である人々にではなく、既に信者であり、献身をし、主のものとされ、永遠の命を継ぐものと宣告され、更に主イエスの権威を持って悪霊を追い出し、病を癒す、そのような弟子達に与えられた経験です。地上の主イエスに直接導かれた弟子達の経験を、後世の弟子たちの経験と100%重ねることは出来ないでしょうが、少なくとも最初に聖霊のバプテスマを受けた人々は、信仰者であったことは覚えねばなりません。

・彼らを全く作り変えた:
この弟子達は、信仰者でありましたが、臆病で、自己中心的で、嫉妬深く、野心に満ち、競争心に溢れていました。しかし、このバプテスマによって全く作り変えられました。勇気に溢れ、互いの愛に溢れ、謙って一致し、主の証人として、世界に向かって伝道を始めました。

・「満たされる」経験の始まり:
この弟子達について、「バプテスマを受ける」という表現は繰り返されていません。しかし、「聖霊に満たされる」という表現は繰り返されています(4:8,31)。このことから、「聖霊のバプテスマ」とは、「聖霊に満たされる」経験の始まりと捉えられるように思います。
 
4.コルネリオの時にも見られた
 
 
ペンテコステの出来事は、AD30年ですが、その約10年後、ローマの軍人であるコルネリオがペテロの導きで救われました。コルネリオの経験について、「使徒の働き」は、次のように説明しています。

・それは、ペンテコステと同じ経験:
ペテロは、コルネリオが救われたときの様を、救いの直後に次のように説明しています。「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。」(使徒11:15-16)

・その中心は心のきよめ:
そのペテロが、更に10年後、コルネリオ事件を説明してこういっています。「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒15:8−9)ここでペテロが、20年前の自分たちのペンテコステ経験も、また、10年前のコルネリオ経験も、その核心は「信仰による心のきよめ」であると見抜いていたことが注目です。

さて、コルネリオの経験が、クリスチャンとなったばかりの初時的な経験であるかどうかをめぐって次の質問が生まれます。
 
5.質問@「聖霊のバプテスマ」は初時的?または後続的?
 
 
・初時的と示唆する聖句:
コルネリオは、未信者であった状態から聖霊のバプテスマを受けてクリスチャンとなった、という理解から、「聖霊のバプテスマとは、新生のときに信じるものの心に聖霊が来り給う最初の業」と考える人がいます。これを示唆する聖句としては、Tコリント12:13「一つの御霊によってバプテスマを受け」という表現、使徒2: 38「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」などが挙げられます。私の尊敬するきよめ派のリーダーであるホリス・アボット先生も、このように考えます。彼は、聖霊の満たしとバプテスマとを区別して、前者は「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給う」より深い経験と考えています。

・後続的と示唆する聖句:
一方、「聖霊のバプテスマ」とは、クリスチャンとなった後で(言わば後続的に)第二の転機として受けると考える人もいます。多くのきよめ派の教科書はそのように記しています。この考えは、信徒である弟子達がこれを経験したところから来ています。コルネリオについては、純粋な未信者ではなく、神を敬う準信者であったという説明がなされます。使徒8:15-17の記事では、「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかった」グループに対して、「(ペテロとヨハネの)ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」という風に、バプテスマの後で聖霊が注がれたという記事があります。
 
6.質問A「聖霊のバプテスマ」は「異言」を伴うか?
 
 
教会のあるグループの人々は、「聖霊のバプテスマ」を受けた徴は「異言をかたること」であり、異言を語らないクリスチャンは聖霊に満たされていない二流のクリスチャンであると考えます。そうでしょうか。

・異言を伴ったケース:
聖霊をうけて異言を語ったケースとして挙げられるのが使徒2:4のペンテコステです。また、使徒19:3-7で、エペソの信者が「聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」としるされています。

・言及されていないケース:
反対に、何の示唆も言及もされていないケースがサマリヤにおける信者が聖霊に満たされた時です(使徒8:17)。

異言を語ったケースにしても、使徒2章のそれは、純粋に外国語の説教ですし、19章のそれも、預言を語ることと並列で記されていて、これをノームとすることは出来ないように思います。
 
7.大事なことは、聖霊が人間の本質の奥底に齎す変化
 
 
「聖霊のバプテスマ」という言葉が、やや熱狂的な響きをもって受け取られていて、これには関わりたくないという人々がいるのは、前に述べたような意見の違いがあり、また、それに伴う極端な生き方があるからでしょう。しかし、こうした、いわば枝葉の事を先ず除いて、ここで示される本質的なことに、しっかり目を留めたいと思います。それは、聖霊が、弟子達、初代クリスチャンたちの心と生活に浸透して、その奥底にあるものを変えなさったという事実です。一言で言えば自己中心のあり方を火で燃やし、無私の心で主に仕える魂としてくださったことです。

聖霊は、私達がまだ主を受け入れていなかったその昔から、私達の心に働きかけていてくださいます。信じた後は尚更、御言を通し、良心を通して、或いはメッセージを通して、他人の勧告を通して絶えず語りかけ、影響を与え続けていてくださいます。しかし、私達の中に、この部分だけは神様といえどもノータッチという領域を設けて、主のお働きを拒みますと、その部分だけ、聖霊の感化と影響が及びません。

例えて言いましょう。ロウケツ染めという染色法がありますが、ある生地の上に柔らかい蝋で模様を書き、それを染料につけるわけです。蝋の部分だけが染料に染まらず、仕上がって蝋を溶かしきりますと、美しい模様が浮かび上がるという仕組みです。これはきれいな実例ですが、聖霊に対して蝋のような部分をしっかり持って、その自由なお働きを止めていることはないでしょうか。自分の将来、家庭、持ち物、交友、性格、その他どんな分野であれ、これは私のプライバシーであって、これを譲ったら私が私でなくなると言いながら、しっかり自分を確保している分野はないでしょうか。聖霊という素晴らしい染料にしっかり浸り、お委ねしますと、自分ではとても想像もできなかったような「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という素晴らしい模様が出来上がります。聖霊に満たされましょう。

自分のプライド、野心、将来計画、そのすべてを明け渡して、聖霊の自由なお働きを祈る時、主はその祈りに答えてくださいます。終わりに、「キリストの心で」という本に紹介されているサムエル・ブレングルの証(180-183)を読んで祈ります。