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この表を見ればお分かりと思いますが、ペルシャ王クロスが、バビロン捕囚からの解放令を発布いたします(エズラ1:1-4)。それに励まされていち早くエルサレムに戻ったイスラエルの民は、政治指導者ゼルバベルと宗教指導者ヨシュアに導かれ神殿の再建に着手致します(エズラ3:2,8)。しかし、イスラエルの復興を喜ばない近隣の住民の妨害に直面して、工事は中断されました(エズラ4:4,23-24)。また、生活が第一と考えた帰還民の自己中心的態度のゆえに、折角基礎が据えられた神殿再建の工事は一頓挫し、16年間もそのままほおって置かれることになりました(ハガイ1:1-4)。 |
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3.ハガイとゼカリヤの任務 |
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そのような、諦めムードを打ち破るために、神が立てなさった預言者が、ハガイとゼカリヤです。ハガイは主に直接的な説教をもって、ゼカリヤは神から与えられた幻を人々に示すことによって、励ましを与えました。大きな希望を抱いて故郷に帰ってきたイスラエルの民は、生活の困難、周辺民族の迫害と妨害にぶつかり、すっかり落ち込んでいました。うなだれた首ほど重いものはない、と言われていますが、このうなだれた人々の首をもたげるのがゼカリヤたちの務めでした。人々はその励ましによって工事再開へと動き出し、神殿は完成いたします(エズラ記6:14)。第4章は、ゼカリヤが見た幾つかの幻の一つです。 |
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B.ゼカリヤ4章の幻 |
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1.幻の内容 |
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彼が見た幻を絵にかいてみました(絵図参照)。その項目は下の5つです。 |
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・金の燭台一つ(神殿の灯りと同じ) ・鉢(油の供給タンク) ・七つのともしび皿 ・七つの管(タンクからともしび皿への供給) ・二本のオリ-ブの木(オリーブの実が絞られてタンクに給油) |
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2.幻の意味 |
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・ゼルバベルとヨシュアへの油注ぎ(14節): 14節は、幻全体が「全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者」についてのものであるという説明を致します。二人とは、言うまでもなく、神殿建築の指導者ゼルバベルとヨシュアのことです。その二人が、神によって立てられ、油注がれた者であるというのが説明です。 |
・継続的な聖霊の油注ぎ(6節): さらに、この二人が、神の油注ぎを受け続けることが8節の「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という言葉で示唆されます。ともしびのための油が、オリーブから直接注がれることで、神の御霊の間断なき油注ぎによって、この困難な神殿再建工事が全うされることを示します。 |
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C.私達へのメッセージ |
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1.事業は、人間の権力・能力では動かない |
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・権力(人間的資源)によらず: この言葉の背景には、神殿再建事業の背後に、ペルシャ王の権力があり、それを最大限に利用しようという考えがあったと思われます。実際、ペルシャ王クロスの解放令からこの事業が始まったわけですし、クロス王の資金援助、お墨付きということによって事業が出来るようになった訳ですから、権力によって業が進んでいるということも事実です。更にいうと、反対勢力が、この事業の正統性を問い、妨害し、工事を中断に追い込んだ後、ペルシャ王に協力の要請を行って、再開の許可を貰ったのも事実です。私達は、この世の権力者といつでも敵対関係になければならない、というものではありません。しかし、権力者に頼る、或いは自分が権力者になって他の人を支配する、という権力欲から自由でなければなりません。私は、権力欲なんかない、などと言いながら、自分の周りの世界においては権力的に物事を進めてしまうという誘惑から絶えず守られたいものです。 |
・能力によらず: この言葉をいただいたゼルバベルの立場を考えてみると、「能力によらず」というのは、大変意義深い勧告でした。なぜなら、彼らは自分たちの資金力の不足、物理的能力の不足、反対勢力への抑止力不足のゆえに落ち込んでいたからです。主のメッセージは明らかです。そんなものに頼らずとも良い、頼るのは別なものだとおっしゃっているのです。この言葉は、自分の力量・見識・経験などに物を言わせて物事を進める誘惑への警戒でもあります。人間は、実力さえあれば、知恵さえあればもっと大きな仕事を果たすことが出来るはずだ、という実力主義に取り付かれています。しかし、人間の知恵も経験も体力も胆力も想像力も何もかも、主のみ業を果たすためには不十分です。それに頼ろうとする気持ちを微塵も持ってはいけないのです。もちろん、能力を造られたのも神様であり、神の霊の働きと調和してそれらが用いられるとき、人間の能力も役立ちはしますが、それはあくまでも一番大切な要素ではなくて、従的なものでしかありません。 |
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2.御霊による |
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・御霊が支配的要素: 神の霊が絶えず私達の心に注がれており、その霊の導きと助けによってのみ業が進むということを、この御言は示しています。 |
・何の業?: 「・・・によらず、・・・によらず、わたしの霊によって。」という文章は未完成です。未完成な部分に何が含まれているのでしょうか。この文脈から言えば、「ゼルバベル(とヨシュア)が、主の御霊の力と導きとによって、困難な神殿再建を完成させること」と考えられます。注目すべきは、私達が携わる一つ一つのプロジェクトに、これが当て嵌まるということです。教会に関わる業、たとえば、伝道の業が進んで多くの魂が救われること、救われた魂がきよめられてキリストの姿に作り上げられること、その魂が真の愛に根ざした共同体を形作ることが含まれます。さらりと言いましたが、これはとんでもなく難しい仕事です。私は時々、絶望的になってしまうことがあります。一向に教会が数的にも、質的にも成長しない、私は一体何が出来るのだろう、何をしているのだろうと。しかし、この言葉は大きな励ましです。権力によらず、能力によらず、画策によらず、議論によらず、私の霊によるのだ、と。 |
・世の業にも: 教会にかかわることだけではなく、私達がこの世で携わっているあらゆるプロジェクトにこれは当て嵌まります。会社に勤めておられる方は、その会社でのあなたの仕事についても、事業を営んでおられる方は事業の面でも、学校で学んでいる方は、学業や友達関係の面でも、家庭を守っておられる方は家庭内の小さな営みの面でも、「私の霊によって」のみ、物事は進むのです。ヨセフという人物は、神が一緒におられたので、「主は彼のすることすべてを成功させて」(創世記39:3)くださったのです。家事においても、農業においても、財産管理においても、祝福してくださいました。 |
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3.主の霊に「よる」という意味 |
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「よる」(by)ということばは、単純に頼って、その力で、縋ってという意味です。私達の個人的な営みに置き換えると、次の三つが含まれているように思います。 |
・御霊の導きを捉え、それに従う: 聖霊がどのような方向に進んでおられるかを見極めることが第一です。それは、何か神秘的な方法で示されるのでしょうか。そういう場合もありましょうが、通常、御言の地道な学びを通して教えられます。なぜなら、御言の著者は聖霊です。聖霊の感動によって記された聖書が、同じ感動をもって読むものに迫り、主のみ思いを教えてくださいます。日々御言を読みましょう。聖書の思想が私の血となり肉となって、私の思想となるまで。同時に、祈りの時を確保しましょう。御言によって語りかけられた主の語り掛けを、神との会話である祈りによってキャッチボールしますと、御心の方向性が分かってきます。野球をした人は、キャッチボールが野球の基礎であることをご存知でしょう。球を取っては投げ、投げては取り、ということを繰り返していますと、相手と会話が出来ます。御霊とのキャッチボールに上達しましょう。 |
・御霊の力を信じつつ実行する(9-10節): ゼルバベルの直面した失望、落胆、焦燥を主は知っておられます。昔を知っている人々はゼルバベルの第二神殿の規模の小ささで既に失望していたのですが、失望することはない、落胆もしなくてもよい、今もっている力で充分と励まされたのです。9節に、ゼルバベルの手が完成する、しかし、それをなさせるのは主であると示唆されています。 |
・御霊の圧倒的なお働きに委ねる: 現状はどんなに困難であっても、それが御心であると確信したら、御霊の力を信じ、より頼んで、その事業にぶつかりましょう。「ゼルバベルの前にある(困難という)大山は、平地となる」(7節)のです。皆さんの中で、直面している課題が大山のように聳えていて、ああ、もうダメだと落ち込んでおられる方はありませんか。「大いなる山よ。おまえは何者だ。平地となれ。」と叫ぼうではありませんか。その鍵は、あらゆることに「わたしの霊による」という御言のように、聖霊に頼ることを学び、実践することです。 |
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