礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年5月31日
 
「聖霊の就任式」
五旬節を迎えて
 
竿代 照夫牧師
 
使徒の働き 2章1-4,14-21節
 
 
[中心聖句]
 
  4   すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
(使徒2章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
 
始めに:五旬節に向けて
 
 
4月12日の復活節(イースター)を超えてから7週間、この日のペンテコステに向けて、聖霊論を扱ってまいりました。今日は、使徒2:1-4に記されている二千年前のペンテコステの出来事そのものに、私達の焦点を当てたいと思います。
 
1.五旬節の日が「満ちて」
 
 
・「五旬節」:
ペンテコステとは、ギリシャ語の第五十という意味です。日本語の五旬節も同じ意味です。さて、このペンテコステは、ユダヤ教における三大祭りの一つでした。過越の祭りの最終安息日の翌日(日曜日)から7週間を数えた安息日の翌日、つまり、その日から数えて50日目に大麦の収穫を祝う祭りが始まります(レビ23:15-16)。これが「7週の祭り」または、ペンテコステです。過越しはパレスチナのユダヤ人がこぞって集まる祭りであったのに比べて、ペンテコステは外国にいるユダヤ人が数多く集まってくる祭りでした。早春の過越しよりも、晩春のペンテコステの方が旅行が楽だったからです。ですから、この日も、世界各地から離散ユダヤ人や外国人でも神を敬う人々が沢山集まっていた訳です。

・「日が満ちて」:
この記事が記された年のペンテコステは、毎年巡ってくるペンテコステとは違って特別なものでした。それを示すのが「五旬節の日になって」という言葉です。これは、単にその日がやってきて、という意味ではなく、待ちに待ったペンテコステがやってきた、という期待感を背景としています。「なって」という日本語訳は、英訳ではwas fully fulfilled(ギリシャ語では、スンプレルースタイ)で、その日が充分満たされて、という意味です。その五旬節に期待されていた恵が注がれる条件が充分に満たされたことを示しています。旧約聖書の予言では、末の時代に聖霊がすべての人に豊かに注がれることが預言されていました。ヨエルの預言がその一つですし、エゼキエルもイザヤもそれを預言していました。さらに、主イエスも、十字架の前夜、ご自身はいなくなるけれども、聖霊がより近くご自身を示すお方として与えられることを約束されました。昇天直前には、エルサレムを離れないで、熱心な祈りをもってこのお方を待ち望むようにと命じなさいました。それらの期待が成就する日として、ペンテコステが選ばれたわけなのです。

・「みなが一つ所に集まって」:
そこには一致のスピリットが伺えます。喧嘩しながら一緒にはいられませんね。弟子達は、主がご昇天なさってから、文字通りエルサレムを離れないで、聖霊の与えられるお約束の実現を待ち望みました。その数はおよそ120でした。12弟子はもちろん、マグダラのマリヤそのほかの女弟子たち、イエスの母のマリヤ、イエスの兄弟たち、その他の弟子たちの大集団でした。殆どがガリラヤ出身の人々でしたから、どうやって食事をしたのか、どうやって寝泊りしていたのか、想像する以外にありませんが、決して楽なことではなかったと思います。その大変な状況で、10日間祈り続けた訳です。そこには不思議な一体感が生まれていたことでしょう。私達が祈りに集中しますと、一体感が生まれます。一体的な祈りは聞かれます。地において二人のものが心を合わせて祈る時、天にいます父なる神はこれを聞いてくださるからです(マタイ18:19)。
 
2.「風のような音」
 
 
・突然の轟き:
その時突然、「風のような音」が轟きました。これは、聖霊の到着の先触れと考えられます。as of the rushing of a mighty wind(power)です。これは、突然の音であって、徐々に増してくる風の音が最高潮に達したというものではありません。丁度竜巻のようなゴーっという音であったと思われます。天から轟いた。これは人々にも聞こえた音で、それによって人々はここに集まってきたのです。

・活かす御霊の象徴である「風」:
これは聖霊の内なるお働きの象徴です。風は、私達の霊を活かす聖霊の息吹です。エゼキエル37章の枯骨の谷の預言を思い出してください。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」(37:9)それは「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。」事の象徴でした(37:14)。
 
3.「分かれた舌のような炎」
 
 
・一つの火が分かれて個々人に:
一つの大きな火の塊が分かれて個々人に与えられたことを聖書は述べています。これは、一体であるキリストの教会において、一つ一つの肢が異なる賜物が与えられる絵でもあります。

・きよめる火:
更に、火は「聖なる神」、きよめの業をなし給う御霊の到着の徴です(出19:18)。これは、きよめる火、刺し貫く火、活性化する火、作り変える火であり、聖霊のお働きの結果を示します。聖霊の満たしが心をきよめるものであったことは、使徒15:8-9に記されているペテロの証言からも明らかです。
 
4.「他国のことば」
 
 
・「舌」:
「ことば」とは、字義通りですと「舌」(グロッタ)のことです。グロッタとは、言葉を表わすロゴスと対照的で、ロゴスが理性を示すのに比べて、グロッタはそのロゴスの発現です。決して意味不明の発言ではありません。

・「他国のことば」:
「他国の(ヘテライス)ことば」とは、弟子たちが母国語として使っていたアラム語(ヘブル語の変化形)とは違うという意味です。弟子達のアラム語はガリラヤ訛りであったのですが、それぞれの弟子達は、母国語とは全く違う言語でしゃべったのです。パルテヤ、メジヤ、エラム、メソポタミヤ、カパドキヤ、ポント、アジヤ、フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、リビヤ、ローマ、クレテ、アラビヤと、数えるだけでも14カ国の言葉が語られました。それも、挨拶程度の断片的な発言ではなく、神の大いなるみ業(福音)が、はっきり分かる言葉で伝えられました。全体への演説はペテロによって行われたが、個別的なグループ集会は、弟子達によって導かれたと思われます。

・「御霊が話させてくださるとおりに」:
(AV=as the Spirit gave them utterance, NIV=as the Spirit enabled them)このutterance(アポフテンゲスタイ)の明確な、そして大声での発言を示します。聖霊が主導権をもって私達の発言を導くことは、主イエスも予言しておられます。「あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:18-20)聖霊が私達の発言においても、主導権を取りなさることを厳粛に受け止めましょう。
 
5.ペンテコステの意義
 
 
・救いの歴史において:
父子御霊の三位一体の中で、聖霊は贖いの執行者という役割を持っておられます。御父は創造者、支配者という役割であり、御子なるキリストは、自らの身代わりの犠牲を通して、人類の贖い主であることに対比されます。聖霊は、旧約時代には漸進的に啓示され、主イエスによって明確にその就任が預言されました。聖霊がキリストの働きに取って代わるのではなく、それを完成させるのです。聖霊はキリストに代わって臨在されるというのではなく、キリストをはっきりと私達に指し示すお方です。そして、その正式な就任式がペンテコステであったのです。それは恵における新しい時代の幕開けでした。チャドイックの「聖霊経験の豊かさ」を引用します。「聖霊は、ペンテコステの時点において、それ以前とは全く違った意味合いで降られたといえるでしょう。・・・それは満ちあふれるほどの充満という形態においてでした。・・・宇宙の秩序の中で、重大な何事かが起きたのです。新たな力とより拡大された可能性をもって、もはや量ることなしに無限に(ヨハネ3:34)神の霊が注がれる日が来るというのです。」

・弟子達にとって:
ペンテコステで変えられた弟子達は、共におられる聖霊を常に感じながら、その奉仕を続けました。風の音は消え、炎も見えなくなりました。外国の言葉も続きませんでした。しかし、内に住み給う聖霊は変わりませんでした。聖霊の慰めをいただいて教会が進展しました。聖霊の助けによって主イエスの教えを思い出し、より深く理解するようになりました。聖霊が押し出してくださったので雄弁に語ることが出来ました。聖霊の励ましによって大胆に証することが出来ました。聖霊の干渉によって、そのメッセージの後で人々が認罪を経験し、救われる人々が増して行きました。

・私達にとって:
この聖霊は、ペンテコステの日からずっと今に至るまで働いておられます。風の音とか、火のような形とか、異なる言葉という特別な現象は繰り返されていませんが、静かな、そして確かな方法をもって私達の心に語っておられ、働いておられます。このお方に心からの明け渡しをもってお委ねするときに、私達の心に大きな変革を齎してくださいます。恐れは平安に、臆病は大胆に、自己中心が愛中心に変えられます。それだけでなく、私達の日々の生活において、継続的な臨在と、助けと、慰めと、知恵とを与え続けてくださいます。
 
終わりに:私達はこの聖霊に対してどのような態度を持つべきでしょうか。
 
 
・このお方に協力的であるか、または非協力的であるか

・イエス。ノーの指示に関して従順であるか、または反抗的であるか

・この方の語り掛けに敏感であるか、または無関心であるか、

それによって私達のあり方が大きく違ってまいります。どうか、聖霊に満たされ、導かれ、支えられ、用いられる器となるよう祈りましょう。