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聖書テキスト |
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1 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。2 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 |
3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。 |
7 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。8 私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。 |
9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。 |
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はじめに |
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昨週は、ピリピ書を始めるに当たり、3節の「最初の日から今日まで」という言葉を鍵として、パウロが開拓伝道を始めた頃の物語、特に紫布商人のルデヤが救われたこと、ルデヤはじめ初期のクリスチャンたちがパウロの福音伝道に肩を入れて協力した麗しい姿を学びました。今日はもう一度1:1から、先週触れられなかった部分にも触れながら、11節までの導入部分を学びます。 |
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A.最初の挨拶(1-2節) |
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1.しもべであるパウロ |
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ここでパウロは、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」として紹介しています。他の手紙では、「使徒」が前面に出ています(ローマ、両コリント、ガラテヤ、エペソ、コロサイ、両テモテ、テトス)。ピリピの教会だけが、「しもべ」という肩書きだけの自己紹介です。この教会に対しては、裃を着ないで接したいという気持ちがあるからなのでしょう。さらに、この手紙では、キリストがしもべ(奴隷)の姿を取ってくださったことがメッセージの一つ(2:7)ですから、その伏線としてパウロも、自分を奴隷と表現したかったのではないでしょうか。 |
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2.「聖徒、監督、執事」 |
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宛先は、「ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たち」です。ピリピとその教会については先週説明をしましたので、省略します。ただ、この三つの表現について、コメントします。 |
・「聖徒」(ハギオス): 新約聖書では、クリスチャンはみな「聖徒」と呼ばれています。新約聖書でこのような呼び方は60回以上あります。未だ肉に属していると叱られたコリント教会のクリスチャンも「聖徒」(Tコリント1:2)です。私達のとなりの渋谷にも「聖徒教会」というのがあります。「いや、いや、私が聖徒だなんて、そんなことが言える柄ではない」と妙な謙遜をしてはいけません。この世からキリストの贖いによって救い出された、区別された、という意味では、クリスチャンはみな「聖徒」です。勿論、聖徒らしからぬ聖徒があることも事実ですが、この呼び名を遠慮するのではなく、この呼び名に相応しく聖化の道を歩むものでありたいと思います。 |
・「監督」(エピスコポス): これは野球チームの監督ではありません。「少し高いところに立って、見張るもの」(overseer)という意味です。実際的には、牧師的な立場の長老と同じです。強いて言えば、その長老団の中の指導的な人々と思われます。新約聖書の後の時代には、より明確に長老たちの上に立つものとして監督が認められましたが、新約聖書の時代には、明確に分離はされていませんでした。 |
・「執事」: 文字通りには「仕えるもの(ディアコノス)」です。使徒6章にその起源を見出しますが、教会運営の実務的な面を助ける人々でありました。 |
ピリピの教会は、誕生後僅か10年でしたが、このような整った教会組織を持っていたと思われます。秩序ある教会運営は大切なことです。 |
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B.感謝と祈り(3-11節) |
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1.感謝(3-5節) |
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パウロは、ピリピの人々を思い出すたびに感謝が溢れ、祈るたびに喜びが溢れてくる、と述べています。これは大袈裟ではなく真実です。その理由は、ピリピのメンバーが、福音伝道の働きに肩を入れて協力してくれたからだ、と感謝しています。これは先週触れましたので、次に行きましょう。 |
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2.確信(6-8節) |
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・救いの業は始まっている(6節a): 「あなたがたのうちに良い働きを始められた」とパウロが述べたときに意味していた「良い働き」とは何でしょうか。これは、2:12-13と重ねて読みますと、答えが出てくるように思います。そこには「恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」とあります。この文章が1:6の内容を敷衍したものであることは確かです。とすると、ピリピのクリスチャンたちの中に始められた「良い働き」とは、神の救いのことです。 |
・救いが完成される(6節b): 神が心の中に始めなさった救いの業が「完成される」とは、何を指すのでしょうか。3章後半は、パウロがひたすらそのために前進し続けているゴールが示されています。一言で言えばそれは「キリストの復活に与ること」(3:11)であり、その時、キリストと同じ栄光の姿に変えられる経験(3:21)のことです。 |
・恵の共有(7節): パウロが、神の救いの完成を確信している理由が7節に説明されています。それは、パウロがピリピにおいて牢屋にいた時も、外に出て福音を伝えた時も、彼らはパウロと同じ心で主を愛し、主に仕えていたからです。とするならば、パウロが救いの最終的なゴールである復活に到達する時も、ピリピの教会のみんなと共にそこに行くと考えるのは自然だ、とこう言っているのです。パウロは、自分は伝道者であるから高いところを歩いていて、信徒の皆さんとは別次元だという傲慢な気持ちは一つもなく、彼らと共に歩む謙った伝道者でした。 |
・愛の告白(8節): ピリピのクリスチャンに対するパウロの一体感と愛情が8節の告白です。「私が、キリスト・イエスの愛の心(腸)をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。」何と麗しい、何とステキな告白でしょうか。伝道者と信徒との関係がいつもこのようでありたいと思います。 |
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3.祈り(9-11節):救いの完成に向けて |
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さて、救いの完成を確信しているパウロは、その救いが文字通り完成するように祈ります。救いの完成はひとりでにやってくるものではなく、伝道者側での真実な祈りと、信徒側での真実な応答の姿勢が必要です。パウロの祈りの中に、救いの完成の内容が伺えますので、それを下記の5つの祈りの中から見ることにしましょう。 |
・充分な知識と識別力を伴う愛の増加(9節): 愛が増加するようにとの祈りが第一です。普通愛の増加というと、愛している気分とか、いつくしみ深いとか親切とか寛容という情緒的な面を考えます。しかしパウロは、「真の知識とあらゆる識別力によって」愛が増加するようにと祈っています。神がどのように私達を愛してくださったかについての「充分な知識」(エピグノーシス)と、何が本当に良い事(神を喜ばせること)何が悪いこと(神を悲しませること)かを見分ける「識別力」(アイスセーシス)を通して愛が増加するというのです。御言を読むたびに、主がどんなに私達を愛してくださっているか、その神が(仮に私達が真っ暗なトンネルの中を歩いていたとしても)どんな深い愛のご計画をもって導いていてくださるかを捉えることによって、神を愛する愛が増してきます。 |
・最善を選択する弁別力(10節a): 9節の識別力が善悪に関する道徳的なものであるのに比べて、この弁別力(「弁別する」ドキマゾーという動詞)は、勝れたものと勝れていないものを見分ける力を意味します。ここで見分けることが必要なのは、善いこと(good)とより善いこと(better)、より善いこと(better)と最善のこと(best)の識別と選択が出来るようになることです。クリスチャンには、神の栄光を表すことという人生の大目標があります。それに沿って、goodよりもbetter, betterよりもbestを選び続けたいと思います。 |
・心の純潔と注意深い行動(10節b): 「純真」とは、心が純潔(pure)であることです。この基となった言葉はエイリクリネースとは、「太陽の審判を受けた(そして合格した)」という意味です。当時の人々は、瀬戸物の中に異物が入っていないかどうか「太陽に透かして識別した」のです。そこから純粋な問いう意味になりました。隠れたところに苦さや不信仰や呟きなどを持たずに、心を尽くし思いを尽くし力を尽くして神を愛する純粋な愛の心を持ちたいものです。「非難されるところがなく」(アポスコポイとは、文字通りには、躓かせないとの意味)とは、他の人間を躓かせないような行動を取ることです。100%注意していても、動機は悪くなくても、不用意な言葉や行動で人を傷つけたり、躓かせることは避けられませんが、主の恵によって、それが少なくなることは可能です。そのためには、聖霊の語り掛けに敏感でなければなりません。 |
・キリストの品性の結実(11節a): これは、聖霊の実と実質的に同じです。聖霊と共に歩む時に自然に増加してくる徳のことです。もっと言えばキリストの持っておられた品性のことです。ヤコブも「義の実」に言及していますが、同じことを強調しています。ヤコブ3:17-18を引用します。「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」 |
・神の素晴らしさを表すこと(11節b): 神の栄光が私達を通して現れるように、神への賛美が私達の行動や性格を通して捧げられるようにというのが究極です。私達がどんな素晴らしい人間かを示すのがクリスチャンの目標ではありません。私達自体については褒められたりけなされたり、注目されたり、忘れられたり色々な目に遭います。そんなことはどうでもよいのです。私達の関心は、こんなどうでもよい人間が、何か一つでも人様のお役に立ち、喜んでいただくことが出来れば、それは一重に神の恵みだと心から思い、証しすることによって神の栄光を表すのです。 |
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C.望みと緊張感(6,10節):二つの「までに」に注目 |
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救いの完成の期限について、「までに」という言葉が6節と10節に使われています。締めくくりの前に、この「までに」の意味を学びます。 |
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1.「締切日」を意識して |
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6節に「キリスト・イエスの日が来るまでに」ということばの「までに」は「アクリ」(until)で、ある期限に間に合うように、という意味です。実は、昨日が9月の日本伝道会議の基調講演の原稿締め切りでしたので、四苦八苦しましたが、ともかく仕上がりましたので、ホッとしています。 |
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2.緊張感を持って |
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10節の「キリストの日までに」の「までに」はエイス(unto)で、それに向かってという意味です。何時であるか分からない主イエスの来り給う日を常に意識し、いついらしても大丈夫なように自分を整えるべきことを意味しています。原稿締め切りならば、前々日までのんびりしていて、前日にばたばたと仕上げるということも可能でしょうが、何日であるか分からない日のために備えるというのは大変な緊張感を必要とします。 |
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3.完成に向かって |
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いつ来られるか分からないイエスの来臨を待ち望みつつ、完成に向かって現在与えられた機会と信仰段階でベストを尽くすこと、これがクリスチャンの「終わりを待ち望む」態度です。そのためにパウロは真剣に祈っています。パウロはピリピ人のために祈っているだけでなく、彼自身も、救いの完成のためにひたむきに励んでいます。それが記されている3:8-15を抜き読みします。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。・・・それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義・・・を持つことができる、という望みがあるからです。私は、・・・どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。・・・すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」私達自身も真剣に取組みたいと思います。主の助けを信じつつ、「救いの完成のために」(2:12)務めようではありませんか。 |
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