礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年6月21日
 
「逆境をも喜ぶ」
ピリピ書連講(3)
 
竿代 照夫牧師
 
ピリピへの手紙1章12-18節
 
 
[中心聖句]
 
  12   さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
(ピリピ1章12節)

 
聖書テキスト
 
 
12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。 13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、 14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。 16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、 17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。 18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
 
はじめに
 
 
昨週は、ピリピ書を書いた究極の目的である、「救いの完成」についてのパウロの祈りと確信、そしてそれに賭ける彼自身の思いについて1:6を中心に学びました。1−11節までの挨拶的な部分が終わり、12節からは、自分に起こった出来事に関するパウロの証しが紹介されます。
 
A.自分の逆境をも喜ぶ(12-14節)
 
1.囚われの身となった(12節)
 
 
「12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」
 
・「私の身に起こったこと」:
「私の身に起こったこと」という言葉でパウロは個人的な証しを始めます。祈祷会では証しの時間を持ちますが、パウロの告白の中に証しの基本形を見出すような思いがします。他人の身に起こったことではありません。自分自身の身に起きたことが証しの題材です。といって、自分のことをあれやこれや自慢げに話すことが証しでもありません。自分を題材にしながら、神がどのように働いてくださったかを物語るのが証しです。

・パウロの刑務所生活:
パウロの身に起きたことというのは、いうまでもなく彼自身の投獄のことを言っています。パウロがピリピ書を書いたのはAD60年頃です。パウロはその4年前に第三次伝道旅行を終えてエルサレムに戻って、神殿に行き礼拝を捧げていた時、ユダヤの律法主義者たちが群衆を扇動して殺そうとします。その時、治安出動をしたローマ守備軍がパウロの身柄を保護します。しかし、律法主義者たちがパウロを騒擾罪で訴えたものですから、ローマ総督府は彼をカイザリヤに留置して裁判を致します。しかし、裁判は一向にはかどらず、パウロは二年もの間カイザリヤに放置されたまま牢獄生活を送ります。遅くなった審判が再開され様とした時、ローマ市民権を持っていたパウロが、裁判の場所を首都であるローマでして欲しいと主張したため、ローマに護送されることとなりました。ローマについた後も、パウロの罪状が明らかでなく、しかもローマ市民であるという立場を考慮して、パウロは狭い刑務所に閉じ込められたのではなく、自分で家賃を払う形ではありましたが、監視の番兵付きという、いわば軟禁状態に置かれたのです。

・「かえって」:
こうした彼の環境が、福音伝道の妨げとなったのではなく、「逆に」、その突破口として用いられた、とパウロは言うのです。「前進」(プロコペーン=前方に切っていくこと)というのは、軍隊用語で、敵味方がこう着状態に陥った時、味方の一軍が敵軍に深く切り込んでいく様を表します。その経緯は次の節で説明されますが、何よりも教えられることは、このパウロの積極思考です。人生には色々と思わしくないことが次々起きるものです。病気があるかもしれません。貧乏が襲ってくることもあるでしょう。家族の不和とか諍いで心を痛めることがあるでしょう。不当な理由で左遷されたり、急にリストラにあったりとか、逆風ないしは逆境と呼ぶものがやってくるのが常です。パウロは自ら「すべてのことについて感謝しなさい」と事ある毎に教えていますが、単に教えているだけではなく、自分で実行しています。逆境の中でも一番辛いのは刑務所でしょう。先ほど説明しましたように、パウロがいたのは、じめじめした監獄ではなくて、自費の借家で、しかも来客自由という環境でしたから、物凄く辛いというものではなかったのですが、それでも、拘束されていたことには変わりません。しかし、この辛さをもパウロは感謝の材料としました。彼の確信は、神はすべてのことを働かせて益としてくださるというものだったからです。
 
2.「キリストのための捕縛」ということで有名に(13節)
 
 
「13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、」
 
・パウロの捕縛がニュースとなる:
伝道のために、パウロがローマの街角に立って声を張り上げたとしても、そんなに効果は無かったかもしれません。しかし、彼が牢屋に入っているというニュースは、瞬く間に町中に知れ亘りました。パウロの「犯罪」が通常の犯罪ではなく、キリストを宣べ伝えるという珍しい形の「犯罪」だったからです。

・皇帝の親衛隊に知られる:
その「犯罪」の珍しさのゆえに、彼の投獄は、彼を警護している「親衛隊」と呼ばれるローマ精強の兵士たちの間でも大きな噂となりました。(この「親衛隊」という言葉は「宮廷」とも訳すことができますが、私は、「宮廷にいる皇帝警護の親衛隊」という新改訳聖書の理解に賛成します。)親衛隊というのは、約一万人のイタリア人兵士たちからなる部隊で、皇帝アウグストによって彼の身辺を警護するため創設されたものです。他の兵士たちの二倍の給料と特権を与えられていたエリート軍団です。彼らはまた、囚人の警護も任せられていました。ですからパウロはこの親衛隊と近づくことが出来た訳なのです。さらにパウロは、その審理の時には自己を弁護するよりも、キリストの福音の素晴らしさを宣べ伝えました。法廷を説教壇として使ったのです。看守の役割を与えられた親衛隊の中には、キリストを主と信じる者たちが起されました。

・親衛隊を通じて、他の人々にも伝わる:
パウロが伝えた福音は、親衛隊を通して、一般のローマ市民たちに更に広く福音が伝わっていきました。4:22を見てください。「皇帝の家に属する者」がクリスチャンになっていたことが記されていますが、直接か間接かは分かりませんが、パウロの伝道の実でなはいかと思われます。

・ヤンシーの「鉄格子の中の教会」:
フィリップ・ヤンシーというクリスチャンジャーナリストが「思いがけないところにおられる神」という本をかきましたが、その中に「鉄格子の中の教会」という章があります。ヤンシーが、プリズン・フェロシップという刑務所伝道の団体で働いている友人と一緒に刑務所を訪問した時の感想を述べています。驚くほどの暑さ、息苦しさ、地獄のような環境でありながら、そこで信じられないほどの数のクリスチャンが生まれ、熱意溢れる集会が営まれている様が活き活きと描写されています。その友人の言葉を引用します。「共産主義は刑務所で失敗した。イスラム教も、ヒンドゥー教も同じだ。ちっとも功を奏さない。社会は囚人を視界から締め出す。囚人の存在は社会の失敗を認めることになるからね。だけど刑務所内の伝道は許されている。すでに希望の無い状況をそれ以上悪くすることはないだろうと考えて。そして、一番ありえないと思われる場所、つまり刑務所の鉄格子の中、で神の教会が形作られるんだ。」と。興味深いことに、閉鎖的な社会ではキリスト教に改宗することは死刑に当たるのですが、そんな国でも刑務所はプリズン・フェロシップに門戸を開いている、というのです。刑務所では何をやってもうまくいかない、それで、絶望から刑務所はクリスチャンに頼る、とその友人は言うのです。このフェロシップは、ニクソン大統領の側近でウオーターゲート事件で逮捕されたチャック・コルソンによって始められたものです。そのコルソンにとっても、刑務所にぶち込まれた経験が「福音の前進」に用いられたのです。不思議なことです。
 
3.他の兄弟たちを励ます(14節)
 
 
「14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」
 
・パウロの刑務所入りの影響:
これはパウロの刑務所入りがローマ市内にいたクリスチャンたちに与えた影響を述べています。

・少数の人々には、恐れの理由に:
「大多数」と記されているからには、少数の人は、迫害が身に及ぶのを恐れて、その伝道の矛先を鈍らせてしまったことが伺えます。

・大多数の人々には、励ましに:
しかし大多数の人々は、パウロが、牢屋に入ってまでも福音を伝えている積極的な姿勢に励まされました。パウロ先生が体を張って伝道しているのに、私たちがぼやぼやしていては申し訳ない、という刺激が良い効果を齎しました。「ますます大胆に」とは、字義的には、「その大胆さが有り余るほどになって」といういわば大袈裟な表現です。迫害は確かにある、それによって恐れる自分もある、しかし、あのパウロ先生のように、もっと厳しい迫害に遭っても頑張っている方があるのだから、私達もこんな小さな迫害を恐れてはいけない、という励ましと受け取ったのです。
 
B.他人の伝道を喜ぶ(15-18節)
 
1.福音を伝える多様な動機(15-17節)
 
 
「15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。 16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、 17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。」
 
パウロは、そのようなすばらしい精神をもって伝道する人々だけではなく、邪心をもって活動している人々の存在も認識していました。

・ねたみや争いから伝道する人もいる(vs善意からの伝道):
パウロの赫々たる伝道の成果を知っている人々は、彼の投獄の間に自分たちの勢力を拡張しようという動機で伝道している人々のことです。多分律法主義的な主張を行うユダヤ人伝道者たちがそれなのでしょう。その対極にあるのは、パウロに対する善意をもって、その伝道によってパウロを間接に助けようというよき志を持った人々のことを指しています。

・党派心から伝道する人もいる(vs愛の動機からの伝道):
愛の動機で伝道する人々とは、キリストへの愛、滅びる魂への愛、そのために苦しんでいる伝道者パウロへの愛に燃えている人々のことです。他方、党派心で伝道する人々とは、私たちの伝えている福音は本物で、パウロが伝えているのは亜流のキリスト教なのだ、だから彼は政府に睨まれているのだと言わんばかりに、パウロとの違いを強調して説教する人々のことなのでしょう。その結果パウロを苦しめているのです。大変残念なことですが、第二次大戦の直前、日本のプロテスタント教会は政府の命令によって一つの教団に纏められました。政府に協力的でなかった幾つかの教会や牧師は弾圧されましたが、その時「体制派」の教会は、弾圧された牧師が極端な教えを説く迷惑な存在であるとばかりに、その教職資格を剥奪しました。私が言おうとしているのは、この体制派の教会を非難するためではなく、人間は如何に権力に弱い存在であるかということを自己反省と共に自覚する必要があるということです。パウロは、自分の存在を迷惑とばかりに考えている「同僚の伝道者」のゆえに、大きな傷を受けたことでしょう。でもパウロは彼らを非難したり、文句を言ったりしませんでした。どうしましたか?それは次の節で述べられます。
 
2.パウロの寛大な精神(18節)
 
 
「18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」
 
・どんな動機であれ、キリストが宣べ伝えられるのを喜ぶ:
パウロはここで、あらゆる動機であれ、方法であれ、キリストが宣べ伝えられている限り、それは結構なことではないかと言っているのです。それでは、キリスト教と名乗りながら明らかに異端的な教えを伝える人々をも喜ぶべきでしょうか。私はノーと言います。私達は異端的な教えに対しては、はっきりとそれは違うという声明を出すことは必要と思いますし、また、自分たちは彼らと違うということを明言して差し支えないと思います。ただ、異端狩りをするのは福音伝道の本筋ではありませんから、異端との関わりは必要が生じた時に、必要な範囲でという限度を持つ必要がありましょう。異端ではなく、あの方法ではまずいなとか、どこかからお金を貰って活動をしているのではないかとか、あのやりかたでは本当の教会の建設に繋がらないだろうなとかの疑問を抱かせる運動はあります。しかし、ともかく一生懸命に伝道をしておられるのですから、それらを一々詮索して、正してあげるというのは余分なお世話です。ジャストスマイルで良いのです。どうぞあなたはあなたの方法でがんばってください、私は私の方法でやりますから、それで充分でしょう。

・主イエスの寛容さに通じる:
主イエスも、キチンとした弟子訓練を受けないで、しかもイエスの弟子団に加わらないで、思い思いの方法で伝道をしている人々をどうするか、とヨハネに問われたことがありました。というより、「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」と報告を受けたのです。イエスのリアクションはどうだったのでしょうか。「私の弟子団に入らないで私の名を使って伝道をするのはもぐりであって、けしからん」とおっしゃったでしょうか。いな、「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ9:38−40)とおっしゃいました。何という太っ腹、なんという寛大さでしょうか。パウロの寛大さは、この主イエスに倣ったものなのでしょう。どんなきっかけでも良い、人々がキリストに対して関心を持ってくだされば、私はそれで嬉しいのだ、と言い切りました。
 
終わりに:今日学びましたパウロの言葉から、彼のスピリットの一端を学びたいと思います。
 
 
・どんな逆境、他人の悪意ある行動も、愛なる神のみ許しなしには起きていないのだという固い信仰を持ちましょう。

・それらは、神の業を妨げるものではなく、逆に、それが福音の前進を齎すチャンスとなりうるのだということを信じましょう。つまり、逆境をも喜ぶ前向きのスピリットを持ちましょう。
 
お祈りを致します。