礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年6月28日
 
「キリストを拡大する」
ピリピ書連講(4)
 
竿代 照夫牧師
 
ピリピへの手紙1章19-26節
 
 
[中心聖句]
 
  20   それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも、私の身によって、キリストがあがめられることです。
(ピリピ1章20節)

 
聖書テキスト
 
 
19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。 20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。26そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
 
はじめに
 
 
昨週は、「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」というパウロの証しから、私達がぶつかる逆境が、福音を広げるきっかけになりうるという恵みを学びました。

18節からは、更に深く、自分の生と死に関わる証しが披瀝されます。
 
A.パウロの喜びと願い(19-20節)
 
 
「(18 そうです、今からも喜ぶことでしょう。)19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。 20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」
 
1.「逆境も益となる」という信仰(19節)
 
 
「19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」
 
・「このこと」:
「このこと」とは、自分の身に起きた(囚われという)出来事を指すと思われます。

・「私の救いとなる」:
「私の救いとなること」とは、狭義での救いのことではなく、益となること、私に取って現在的な助けとなるという一般的な意味です。

・「あなたがたの祈り」:
パウロは、ピリピ教会のメンバーが良く祈る人々であることを知っていました。そして、その祈りが確実に聴かれることを信じていました。私達の祈りがこのようなものでありたいと願いますね。

・「御霊の助け」:
「御霊の助け」とは、豊かな御霊の供給(助け、知恵、勇気)のことです。

この四つを結びつけると、どのようなニュアンスになるでしょうか。私なりにパラフレーズします。「私は、どんな形であれ、キリストが宣べ伝えられていることを喜んでいます。これからも、喜ぶでしょう。というのは、自分の身に起きた囚われということ一見不幸な出来事が私に取って益となると私は信じているからです。勿論、自動的に益になるのではなく、ピリピ教会の皆さんのお祈りと、聖霊のみ助けが前提となってはいるのですが・・・。」
 
2.キリストを拡大したいという願い(20節)
 
 
「20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」
 
「それは・・・かなっている」:
パウロの文章はとても長いものです。実は18節の尻尾の部分から20節の終わりまでが一文章です。20節の「かなっている」というのは、英語で言えばaccording toでありまして、それを生かして分かり易くパラフレーズするとこうなります。「私が19節で喜ぶでしょうといったのは、その喜びの内容が私の切なる願いと望みとに一致しているからなのです。その私の願いと望みとを一言で言いますと、私の生と死のどちらであれ、私の肉体を通して、キリストの素晴らしさがみんなに分かるようにということです。さらに具体的に言いますと、私が、福音を恥ずかしいとも思わずに、今まで同様これからも大胆に語り続けることで、キリストが拡大されると思うのです。」

この告白から、キリストに傾倒しているパウロという人間の生き様がビーンと伝わってきます。敢えて、その生き様をパウロ先生に失礼にならないように気をつけながら、箇条書きにして纏めて見たいと思います。
 
B.「キリストを拡大する」生き方
 
1.キリストの拡大は、崇高な人生目的
 
 
キリストを拡大することは、パウロにとって「切なる願いと望み」なのだといっています。このような単眼的な人生目的を持つと、他のことは気にならなくなるものです。人々はパウロを恥ずかしめ、苦しめ、最後には、殺してしまうのですが、そんな人々の思惑は、彼の崇高な人生目的を壊すことが出来ませんでした。ですから、「私がどういうばあいにも恥じることなく」と言っているのです。これは強がりではありません。一つの事に集中している人を辱めるものは何も無いからです。
 
2.拡大するとは、キリストの姿を明示すること
 
 
・メガリュノーの意味:
「素晴らしさを現わす」とは、ギリシャ語のメガリュノー(拡大する)という動詞の受身形です。メガリュルノーmegalunw=大きくする、という原意から、高める、崇めるという意味に用いられるようになりました。

・メガリュノーの例:
新約聖書のほかの場所では、ルカ1:46でマリヤは「わが心は主を崇め」といっています。使徒5:13「尊敬していた」、10:46「神を賛美して」、19:17「(イエスの名による癒しの評判のゆえに)キリストの聖名を崇める」2コリント10:15「私達の働きが広げられる」などという風に用いられています。

・この場合の意味:
さて、ピリピ1章に戻りますと、「キリストの品性の素晴らしさと救い主としての力が印象付けられること」というのがこの文章の意味です。キリストは、世の人々には見える存在ではありません。しかし、私達の内に居られ、私達の性格、所作、言動という媒体を通して、拡大され、人々に見えるようになるのです。どんなお方として「拡大されるべき」なのでしょうか。キリストが神の子であること、恵み豊かな仲保者であること、預言者・祭司・王としての職責を全うされたこと、人々の救いと義認の業を全うされたこと、それによってキリストがすべてのすべてとなり給うたことを拡大することが「拡大」に含まれています。
 
3.拡大は、パウロという人格を通してなされる
 
 
・キリストの恵みによって変えられた品性:
キリストは、自分の肉体を通して拡大されるとパウロは言っています。勿論1メートルそこそこのボディを指しているのではありません。この場合の「私の身を通して」とは、キリストの恵みによって影響を受けた者としてのパウロの生涯と言動ということです

・キリストのために受ける苦難忍ぶ態度:
さらにキリストのために受ける苦難・迫害を忍ぶ態度も含まれます。キリストの力は、それらの苦難の下にあるパウロを支える、その苦難を通過させたという点において拡大されたからです。

・例(絵図を参照):
虫眼鏡の事を英語ではmagnifierと言います。そうです、私達クリスチャンみな、キリストの拡大鏡(magnifier)なのです。しかし、その拡大鏡が曇っていては人々はその物体を見ることが出来ません。拡大鏡が歪んでいたら、歪んだキリストの像が投射されます。拡大鏡に傷がついていたならば、傷ついたままのキリスト像が投射されます。私達は透明な、明け渡しきった拡大鏡である必要があります。拡大鏡となるパウロについて、ある注釈者は、「キリストのものである彼の肉体は、弱く、貧しく、時には調子の狂ったようなものであるかもしれないが、その中に蓄えられている宝のゆえに、キリストの栄光を現わすものとなる」と言っています。

 
4.拡大は、パウロの宣教を通してなされる
 
 
・牢屋における宣教:
パウロは懸命にキリストを宣べ伝えました。牢屋にいても、訪ねてくる一人ひとりに福音を語りました。それによって救われる人が多く起きたことを先週もお話しました。ローマ皇帝の親衛隊、ローマ皇帝の家族の中にもクリスチャンが生まれていました。オネシモという逃亡奴隷もパウロのところに転がり込んできて、個人伝道を受けてクリスチャンとなりました。

・法廷における説教 (Uテモテ4:16-17):
さらにパウロは、パウロが法廷の座に立たされて弁明をしなければならない時も、法廷を講壇に変えて、キリストの証しをしました。この時から6、7年後、パウロは二度目の幽囚を経験するのですが、彼はその時こう話しています。「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。・・・しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。」(Uテモテ4:16-17)
 
5.拡大は、パウロの死を通してもなされる
 
 
キリストは、パウロの死を通しても拡大される筈でした。実際、かれは、自分がネロの命令によって死刑になったとしても、その死を通してキリストは栄光を表わされると信じていました。その死の瞬間までキリストのことを大胆に語り、その結果殉教したとしても、その死を通してキリストは拡大されるはずでした。再び7年後の信仰告白を引用します。「私はししの口から助け出されました。主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」(Uテモテ4:18)死の瞬間においても、かれは、キリストの名を呼び続け、キリストに対する彼の揺るがない信仰を告白し、大いなる喜びのうちに福音を彼の血潮によって封印することを考えていました。
 
C.パウロの死生観(21-26節)
 
 
「21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
 
20節の人生目的の告白は、21節のパウロの死生観の告白に結びつきます。「私にとっては」とは、他の人々にとってはどうであるかわからないが、パウロ本人にとっては、という強意があります。彼にとって人生はキリストなのです。「生きることはキリスト」とは、文字通りには、生きることとキリストを結び付けているのです。彼にとってキリストを離れた人生は、考えも及ばないものでしたから。仮に死んだとしてもそれは彼にとって更に勝る世界への移行なのだと言うのです。

今日は、ここで終わることに致します。
 
終わりに
 
 
・土の器の中の「宝」を意識しよう:
私達は大なり小なり、キリストを拡大する、拡大鏡的な意味をもって社会生活を送っています。私達自身は、パウロの表現によれば土の器です。何の取り柄もない、特徴も無い、一個いくらで売られるような平凡な土器にしか過ぎません。しかし、その中に輝くような宝石を入れていると、その輝きは土器の平凡さを乗り越えて人々を引き付けます。それと同じように、私という素材は全く平凡でありますが、中身で勝負なのです。イエス様が宿ってくださる時、主の素晴らしさが私達を通して世に現れるのです。

・土の器もきよめていただこう:
私達が願うのは、こんな罪深い私ではあっても、主の血潮によって清められ、透明の器にしていただいて、キリストの素晴らしさを人々に鮮明に示すものとなることです。今日は、キリストのみ苦しみを偲ぶパンとぶどうを頂きますが、私達の罪の清めのために流された血潮を本当に自分のものとして感謝と信仰をもって仰ぎましょう。
 
お祈りを致します。