礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年7月5日
 
「生きる幸せと死ぬ幸せと」
ピリピ書連講(5)
 
竿代 照夫牧師
 
ピリピへの手紙1章19-26節
 
 
[中心聖句]
 
  21   私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
(ピリピ1章21節)

 
聖書テキスト
 
 
19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。 20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。26そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
 
はじめに
 
 
昨週は、20節の「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」という人生目的に関わるパウロの告白を学びました。私達もキリストの拡大鏡として、神の素晴らしさを証しする光栄ある務めを与えられていることを感謝したいと思います。

21節の「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」という告白は、20節の繰り返しのようでもありますが、更に深く、パウロの人生そのものの根幹を示しています。
 
1.キリストがいのち(21節)
 
 
「21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
 
・個人的な証し:
「私にとっては」とは、他の人々にとってはどうであるか分らないが、パウロ本人にとっては、という強意があります。

・キリストが命であり、すべて:
「生きることはキリスト」とは、文字通りには、生きることとキリストを結び付けているのです。必ずしも論理的な言い方ではありませんが、言わんとしていることは分かるような気がします。例えばある男性が、ある女性と恋に落ちて、「彼女が私の命」と叫ぶようなものです。高校時代、音楽教師がイタリアオペラの恋の歌のアリアを沢山教えてくれまして、今でも歌えるのがあるくらいです。彼らの恋の情熱というものは、本当に心を焼き尽くすものです。パウロは、それどころではない、キリストが彼のすべて、キリストを離れた人生は、考えも及ばないものだと言っているのです。本当に幸せな人だと思います。キリストは、自分の霊的な命を始めてくださった方であり、彼の人生のテーマであり、彼の拠り所であり、彼の糧であり、彼の生き甲斐、すべてのすべてでありました。

・死も有益:
「死ぬこともまた益です。」その理由は、後で詳しく説明されていますが、この愛するキリストのために死ぬのも本望であり、死んだ後も、このお方と近くいられるから幸せだという意味なのです。本当に、キリストに惚れ込んだひとりの人間の生き様を見せ付けられます。また、キリストは、パウロが惚れ込むような相手であっていてくださいます。私達は、死によってこの世の煩い、病、悲しみから解放され、神のご臨在の近くにおいて満ちあふれる喜びを経験し、光と命と愛と喜びと平安と慰めに満ちた永久の住まいにおいて神の子としての相続財産を受け継ぐのです。

・日本人の死生観との比較:
日本人の間では、死を話題にすることは余り歓迎されません。出来れば、そんなことを考えたくない、触れたくない、という暗黙の空気があります。お葬式に出て驚くことは、多くの忌みごとがあるということです。仏教伝来以前の、日本人古来の死生観を示す言葉としてアラミタマという思想があります。人間が生きている間はイキミタマ、死ぬとアラミタマになり、それは生と死の間をさまよって、たたりを齎す可能性のある危険な存在と考えられていました。暫くするとそれが和やかなミタマ(祖先の霊)になる、という考え方です。仏教が入ってきても、この基本的なパターンは仏教用語で引き継がれています。葬式というのは、アラミタマがたたりをしないように祈る儀式です。アラミタマが生きている人間に取り憑かないように、火葬場に行く時と帰る時のバスのコースを変えるというのは、その典型でしょう。そんな日本人の一般的風潮の中で、パウロが語った「死も有益」というメッセージは、大変な重さを持っています。
 
2.幸せな「板挟み」(22節-23節a)
 
 
「22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 23a 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。」
 
・「板挟み」の意味:
「板挟みとなっています」とは、「両側からしっかりと鷲づかみされています。」と直訳できます。ここで使われている動詞がスンエホー(共に持つ、掴む)の受身だからです。生きるという側から、こっちの水は甘いよと掴まれ、死ぬほうからも、こっちに来なさいと掴まれ、どっちにしていいか分からない状況です。

・幸せな板挟み:
「進むも地獄、退くも地獄」という言い方がありますね。これは恐怖の板挟みです。前にライオンがいて、後ろに狼がいるという絵を描くとその恐ろしさが分かります。それと全く反対に、パウロは牢屋にいながらも、幸せな板挟みを感じていました。将棋で言えば、王手飛車取りでしょうか。生きるのも幸せ、死ぬのも幸せ、まあ、何と仕合せな男でしょうか。命が永らえることが出来れば、それだけ主のために働き、多くの結実を得ることが出来るので、福音が前進する、それは、キリストのためになることだし、死ぬことも、主と共になることで益なので、この嬉しい二つの可能性にはさまれていると言うのです。どっちかを選ぶことが出来ないほど、両方とも素晴らしい道だとパウロは感じています。

・私達の「板挟み」とは?:
翻って私達は、人生の選択をどのように考えているでしょうか。多くの場合、こっちも魅力、あっちも魅力という悩みよりも、あっちもつまらない、こっちももっとつまらない、という劣等比較で苦しんでいる場合が多いというのが実情ではないでしょうか。高齢の方は、自宅に留まるべきか施設に入った方がいいのかとか、若い人は、こんな仕事しかないが、あんな仕事よりはましだから止むを得ずこれにするかとか、来週は都議選ですが、こんな候補も嫌だけれど、他の候補に比べると嫌な要素が少ないからこれにしようかとか、何か悲しい選択をしているケースが多いように思います。それに引きかえ、パウロの選択は何という楽天的人生観に基づいた選択であることでしょうか。これは、彼の環境のためでは決してなく、彼の命がキリストに捉えられていたからです。私達もキリストにあってこのような積極的人生観を持つことが出来ます。
 
3.死ぬ幸せ(23節b)
 
 
「23b 私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
 
・死ぬ幸せ:
これは23節の後半に記されています。「世を去る」(字義通りには「解き放たれる」=アナリュオー)とは、一つの状態から次の状態への旅立ちでした。そして次の状態とは、キリストと目と目を合わせて相見えることにほかなりませんでした。Tコリント13:12に、今は「鏡で見るようにぼんやりと」見ているキリストを「その時には顔と顔を合わせて見ることになる」と期待を表しています。パウロにとって死というのは、婚約している花嫁が結婚式を迎えるような、わくわくしたゴールだったのです。英語の表現で、「Xさんが亡くなった」ということを”Mr. X went to be with the Lord”と言います。何と麗しい表現ではないかと思います。私が召された時は、「彼は愛する主の許に行った」と死亡通知を出していただきたいと思います。余談で失礼。

・遥かに勝る望み:
ともかく、世を去ってキリストにお会いすることは、パウロにとってわずらい多き世に生きるよりも遥かに遥かに勝る望みでした。もちろんパウロは、地上におけるキリストのための奉仕を心から喜んで行っていましたが、同時に、その奉仕は苦しみに満ちたものでした。そこから解放されて主に出会うことはもっと幸いと考えていたのです。
 
4.生きる幸せ(24-26節)
 
 
「24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」
 
・生きる必要:
パウロは、死ぬことに大きな幸せを感じていた人でしたが、同時に生きる幸せをも感じていました。その理由が24節に述べられています。それは、「この肉体にとどまることが、あなたがた(ピリピ教会の信徒たち)のためには、もっと必要」だからです。そして25節はその詳しい説明です。彼らと一緒にいることがその「信仰の進歩と喜びとのために」なると確信していたからです。ピリピ教会信徒の信仰が進むように、彼らの喜びも進むようにというのが、パウロがこの地上に存在する目的だったのです。このような牧師を持つ信徒は何と幸いでしょうか。このような信徒を持つ牧師は何と幸いでしょうか。個人としては、早く主にお会いしたい、しかし、多くの信徒たちのことを思うと、未だ生き延びて奉仕を全うしたいというのがパウロのジレンマでした。ジレンマといっても、パウロにとって生きるとか死ぬとか言っているのは、”To be or not to be”といったハムレット的な悩みではなく、牢屋に入っていて、殉教するか、或いは、無罪放免となるかという厳しい現実的な課題だったのですが・・・。

・釈放の希望:
26節は、生きると決まった場合の行動予測です。どうやら、この時のパウロは、自分が無罪になりそうだという予測を持っていたようで、それが26節の「そうなれば」という仮定をする前提でした。「もし死刑ではなく無罪となって生きることになるならば」というのが、「そうなれば」の意味です。釈放されたならばパウロは、真っ直ぐピリピに行こうと旅程を決めていました。「私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」と。更におなじ獄中から記されたピレモン書にも、「私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。」(22節)とピレモンさんを訪問する約束をしています。いずれにせよ、パウロがもっと生きたいと願ったのは、彼を必要としている多くのクリスチャン達、彼のメッセージを聞くはずの多くの未信者たちのためでした。特に、パウロの釈放のために真剣に祈っているピリピのクリスチャン達が、その祈りの答えを見て喜ぶためでした。
 
終わりに
 
 
・何が起きても幸せと言い切れる積極的信仰を:
私達は、パウロとは異なります。その状況、環境、使命、その他どの角度から見ても、彼と私達を比較することは難しいでしょう。しかし、彼が捉えた死生観は共有できるのではないでしょうか。死ぬのも幸せ、生きるのも幸せ、それをしっかり掴まえて、この一週間も生きようではありませんか。
 
お祈りを致します。