礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年7月12日
 
「キリストの福音にふさわしく」
ピリピ書連講(6)
 
竿代 照夫牧師
 
ピリピへの手紙1章27-30節
 
 
[中心聖句]
 
  27,28   ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、・・・私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。
(ピリピ1章27,28節)

 
聖書テキスト
 
 
27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはない」と。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。
 
はじめに
 
 
昨週は、21節の「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」という告白から、キリストに捉えられた一人の人間の死生観を学び、私達への挑戦と捉えました。今日は「福音に相応しく生活しなさい」というパウロの勧めを中心に主のみ思いを探りたいと思います。
 
1.パウロの勧めの背景(12-26節)
 
 
12-26節までに、パウロの証しが綴られています。

・投獄が福音の前進に(12-19節):
パウロは、自分の身に起きたことが福音の前進に繋がったことを積極的に評価しています。彼が投獄されたのはキリストの為だということがローマ中に知れ渡り、福音が広められる結果となりました。

・パウロの死生観(20-24節):
殉教の可能性も想定しながら、パウロは生きることと死ぬことのどちらがうれしいかの比較をしています。ハムレットの悩みではありません。彼はどっちでも幸せだと言っています。生きるならば教会の役に立つだろうし、死ぬならばキリストと相まみえることができる、強いて言えば後者の方が嬉しいが、生きるのが主の御心ならばを始めとする諸教会の為に力を尽くしたいとその気持ちを表明します。

・ピリピ訪問の希望(26節):
生きる方の可能性を認めながら、パウロは出獄が許されるのならば、先ず教会を訪問したいという希望を表明します。仮に、もしそれが不可能であったとしても、教会のメンバーが福音に堅く立って貰いたいという希望を表明しているのが27-30節です。
 
2.パウロの勧め:福音に相応しく生活すること(27節)
 
 
「27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」
 
・これが一番大切:
パウロの勧告の主眼は、ピリピのクリスチャンたちが「福音に相応しく生活する」事です。この勧告の前に「ただ一つ」という言葉がありますが、これは、軽い意味で使われているのではなく、他の事は別としてこのことはどうしても大切ですよ、という意味が籠められています。福音に相応しく生活するとは何を意味するのでしょう。

・天国の市民として振舞う:
「生活する」とは、ギリシャ語では「市民として、市民らしく振る舞う」(ポリテウオマイ) と言う言葉から来ています。当時のギリシャ・ローマ社会では、全ての人間が市民ではありませんでした。奴隷もおり、被征服者もおり、かれらは社会の中枢を担うものとは考えられず、ギリシャ・ローマの血統のあるもの、そうでない人は金持ちか、社会に何か貢献できるような立場のものだけが市民でした。ピリピという町は、ローマの植民市、いわば小ローマでしたから、市民権を持った人々は多くいました。彼らは社会を担う市民としての自覚をもって、それらしく振る舞うことが市民には期待されていました。それと同じように、クリスチャンたちは、「天国の市民」(3:20)として、それに相応しく生活することが期待されているのです。

・「福音に相応しく」:
天国の市民という考えを説明しているのが「福音にふさわしく」(アクシオーン)という言葉です。福音とは、キリストが私達の罪を負って死に、永遠の命を与えるために甦り、今も生きて私達の内に住み、私達を彼の姿に似せようと働いておられるという事実のことです。このすべての過程が、私達の持って生まれた性格の良さとか、努力とか、生まれの良さとかのメリットによるものではなく、反対に、全くメリットの無いものに注がれる神の恵みによる、というのが福音(良いおとずれ)の良いおとずれである理由です。「その福音に相応しく」とは、「価無きものに注がれた素晴らしい恵みの驚くべき価値を自覚したものとして」という意味です。「クリスチャンになったんだから、あれは駄目、これをしなさい。」とか、「クリスチャンとしての自覚をしっかり持ちなさい。」と言った押しつけがましい気分で自分を律するというのがパウロの教えではありません。丁度その反対です。「こんな私にも注いでくださった神の恵み、こんな私を愛してくださる神のご愛に応えるように生きなさい」というのがパウロが語ろうとしていたキリスト者の生き方です。福音の恵を充分に理解し、それを自然に湧き出るような者と自分の立場を置きなさい、と勧めているのです。もっと簡潔にいいますと、福音によって与えられている恵みを充分に理解しなさい、自分の弱さを本当に自覚してその分だけ主に頼って生きなさい、神の驚くような恵みに答えるような生き方をしなさい、という意味です。
 
3.福音による生き方の結果(その1):一致した堅実さ(27節b)
 
 
「27b あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、」
 
私達が福音に相応しく生きると、その結果として次の3つのことが起きて、それは、福音に反対する人々でさえも認めるはずだ、とパウロは言います。その第一は「霊を一つにしてしっかりと立つ」ことです。

・「霊を一つにして」:
「霊」(プニューマ)とは、人間を人間たらしめる根源的な要素で、神との交わりの座として、聖霊によって与えられたものです。ですから、「一つの霊(プニューマ)において」とは「聖霊によって生まれ変わったもの同士が持つ同じ霊をもって」ということです。

・「しっかりと立つ」:
堅く立つ内容は、3章の終わりから4章の始めにかけて説明されています。それは、「キリストに敵対して歩むもの」の思想や行動に影響されないこと(3:17-19)、積極的には、救いの完成に向かって進むこと(3:20-21)です。私達も、救いの恵みにしっかりと立ち、互いに励ましあいつつ、救いを全うしたいと思います。
 
4.福音による生き方の結果(その2):一致した戦い(27節c)
 
 
「27c 心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており」
 
・「福音の信仰のために」:
「福音の信仰のために」とは、a「信仰に依る救いを齎す福音を積極的に述べ伝え拡大すること」b「福音を擁護する弁護的な働き」の両方を意味します。1章の中でaの意味で使われているのは、5節です。「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」bの意味で使われているのは7節です「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。」さらに16節でも「福音を弁証する」という表現があります。福音の素晴らしさを一人でも多くの方々に伝えること、福音に対して疑問を持っている人々に、丁寧に、しかも確信をもってその正しさを弁証することはとても大切なことです。

・「心を一つにして」:
「心」(プシュヘー)とは、人間の感情、思考を司る(霊因りももっと実際的な)自己の座です。心を一つにするとは、積極的には、目的と動機が同じになることです。消極的な言い方をすれば、お互いの競争心、不一致が除かれることです。ピリピ教会の具対的問題として指導者間の不一致がありました。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」(4:2、3)ユウオデヤとスントケの内にあった競争心、党派心が福音の進展を妨げていました。私達が世に向かって福音を広めようとするとき、最大の課題は教会の不一致です。特に指導者がお互いにあさっての方向を向いていたらその教会の祝福はありません。

・「ともに奮闘しており」:
奮闘とはレスリングをイメージした言葉です。「奮闘する」(スナスレオー=共にレスリングをする)とはお互い同士にではなく、福音に敵対する者との戦いをすることを意味しています。プロレスでいえばタッグマッチのようなものでしょうか。敵対するとは、それを無視して罪の生活を送る人々、福音を頭では分かっているがその教えに反対している人々双方を指します。前者には伝道が、後者には弁明が必要でしょう。この時代を見ますと、経済も、政治倫理も職業倫理も教育も道徳も殆ど崩壊という言葉しか見あたらない絶望的状況です。どうしても福音が力をもって国民の各層に及んで行かねばなりません。この目標の為にみんなで心を合わせましょう。私達の目標は日本のそして世界の福音化です。共に戦いましょう。
 
5.福音による生き方の結果(その3):一致した勇気(28節a)
 
 
「28a どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはない」
 
・「反対者たち」:
ピリピ教会のメンバーは、多くの反対者たちに取り囲まれていました。パウロが開拓伝道をしたときも、占い女が救われて商売の邪魔をされた男たちが騒ぎを起しました。その男たちに動かされた群集、その群衆に動かされた官憲がパウロ達を捕らえ、鞭打ち、牢屋に入れました。このような迫害は形を変えて続いていたものと思われます。そのような状況にあるピリピ教会のメンバーですが、福音に生きている限り迫害に動かされない、と保証しているのです。

・「驚かされず」:
「驚く」という言葉は、戦場で、多くの死体を見て驚く馬のように飛び跳ねるというイメージだそうです。びっくりするようなことが起きても、主に信頼しているゆえに不必要に狼狽することはない、とパウロは言っているのです。詩篇にも「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」(詩篇112:7)と記されています。 
 
6.神のご嘉納のスタンプ(28節b)
 
 
「28b それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。」
 
・「滅びの徴」:
面白い言い方ですね。反対者たちの意図は、反対することによって、クリスチャン達の心を動揺させることなのですから、クリスチャン達が静かで動かないでいること自体が、彼らの失敗なのです。こんな形の勝利というのは痛快です。

・「救いの徴」:
困難と迫害の中にあっても動かないでいることが、救い(この場合には「勝利」というニュアンス)です。そして、その信仰は神から出たものなのです。
 
7.迫害はクリスチャン生活の一部(29-30節)
 
 
「29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。」
 
・信仰と苦しみはセットの賜物:
丁度婚約の時の花嫁へのギフトのように、私達がキリストと許婚したとき、苦しみもクリスチャン生活の一部として、組み込まれてしまっているのです。

・ピリピ教会メンバーの戦い:
ピリピのクリスチャン達は、開拓の時もパウロの苦労を共に味わい、それから10年経った今、離れてはいても、パウロの苦労を共に味わっています。その共感の姿勢をパウロは感謝しています。
 
終わりに
 
 
・福音の素晴らしさを捉えよう:
福音に相応しく生きる、という意味を噛み締めましょう。福音(良きおとずれ)の素晴らしさを皆さんはどう捉えていますか。物凄く大きな宝物を与えられたのだという深い自覚がありますと、私達の日常生活もおのずから、それに相応しいものに変わってきます。

・恵みに応える生き方をしよう:
マーク・トウェインが書いた「乞食と王子」という物語があります。トムという乞食の子がエドワード王子と服装を交換し、立場も交換してしまう物語です。そこには色々な皮肉が籠められているのですが、私が言いたいのは、私達は乞食のような立場であり、それが王宮に入れられたのです。それは神の一方的な恵みのゆえです。それを本当に感謝と受け止めて、それに相応しい生き方を生きようではありませんか。
 
お祈りを致します。