礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年7月19日
 
「同じ愛の心を持ち」
ピリピ書連講(7)
 
竿代 照夫牧師
 
ピリピへの手紙2章1-4節
 
 
[中心聖句]
 
  2   私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
(ピリピ2章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
 
はじめに
 
 
・福音に相応しい生き方:
昨週は、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」とのみことばを中心にお話ししました。主の恵みに対する感謝、感恩の心が私達の人生の動力です。

・一致の勧め:
そこからパウロは一歩進んで、ピリピの教会が一致して歩むようにとの勧告を行います。それには背景があります。4:2にありますような女性指導者間の不一致が存在したからです。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」この二人は指導者として熱心であり、しかも霊的な器であったと考えられますが、何かの理由で対立していました。それが教会全体の憂いでありましたし、教会全体もこの二人の対立に影響されて、コリント教会ほどではなかったにせよ、分派的な傾向に走っていました。パウロは、手紙の前半では、この二人の名前を挙げないで、敢えて、「教会の一致」という一般論を展開します。賢いですね。
 
1.一致勧告の前提(1節):四つの資質
 
 
・「こういうわけですから」:
ピリピ人クリスチャンがパウロと同じ心をもって迫害と戦っているのですから(1:30)、もう一歩進んで、私の喜びを満たしてください(2:2)、という論理としてつながります。

・「もし」:
日本語の訳では「もし」は一回しか出てきませんが、パウロはこの「もし」を4回もしつこく使っています。新共同訳ではそれに加えて、「幾らかでも」という言葉を付け加えていますが、原文のニュアンスを良く表わしています。ですから、一節の言葉を直訳しますとこうなります。「もし、(幾らかでも)キリストにあって励ましがあり、もし(幾らかでも)愛の慰めがあり、もし(幾らかでも)御霊の交わりがあり、もし(幾らかでも)愛情とあわれみがあるなら」と言う具合です。幾らかでも、という言葉の背景には、これらの特質はクリスチャンならば不十分であったとしても、無いはずはない、だから、それを再認識することから始めましょう、と言っているのです。一つ一つに立ち止まって考えましょう

・キリストからの励まし:
「キリストが苦しみを耐え抜きなさったその模範によって、苦しみの中にあるあなた方を励ましておられるならば」ということです。「もし」という言葉を使ってはいますが、本当は事実そうなのです。これをその事をヨーク弁えて下さい、と言う意味です。

・愛に基づく励ましの言葉:
ギリシャ語の「パラミュシオン」とは傍らの言葉という意味です。丁度マラソンランナーの側にコーチが併走しながら、あれこれと励ましの声をかけ続けるのと似ています。

・御霊との交わり:
御霊が私達と物語り、私達も御霊と共に歩むという、神との交わりの生活を意味しています。 同じ御霊が私達の心に働きかけておられるのに、私達が分裂したままというのは、ありえないことです。

・他人の痛みが分かる心:
原文では「腸と憐れみの心」です。当時の人々は、愛情や憐れみの宿る場所は「腸」であると考えていました。それから、腸という言葉が、愛情をさすようになりました。分かりやすく言いますと、他人の痛みが分かる血の通った人間の心を持っているか、という質問です。

クリスチャンとしての最低基準:
上に述べた四つは、クリスチャンとしてのスタートラインです。こうした初歩的な資質を持 っていることを前提として、これから勧告をしますよ、と言っているのです。対立している指導者たちや仲間たちに向かって、違うところに目をつけないで、同じところに目をつけ、そこから出発しましょうよ、と言っているのです。これは、私達にとっても大切な姿勢です。先般プロテスタント宣教150周年記念が祝われましたが、同じプロテスタントといっても、賛美歌のタイプや歌い方一つ取っても違いますし、色々違いの方に目が行きそうでした。しかし、同時に、私達を結んでいる絆の強さ、共通点の大切さをも教えられたことです。
 
2.一致勧告の目的(2節a):パウロの喜びを満たす
 
 
・これが勧告の主眼:
一般に、パウロの文章は長いものです。1−4節まで、日本語訳では三つの文章ですが、元々は一文章です。その主文は、「私の喜びを満たしなさい」です。これをパウロは言いたかったのです。

・パウロの喜びはピリピの信徒の信仰:
パウロは、ピリピ教会信徒の良い志について喜びをいつも感じていました(1:4)。しかし、その喜びを充分満たして欲しい、というのがパウロの要望でした。その喜びは、彼らが一つになることで満たされるはずだったのです。

・教会の一致が指導者の喜び:
パウロは大胆にも、ピリピ教会の一致は、開拓の指導者である自分の喜びを満たすためだと言っています。反対の言い方をしますと、教会が一致していないのは、教会の創設の牧師にとっては心痛の種なのです。ウェスレアン注解は「彼(パウロ)は、親としての情愛と、使徒としての権威とを合わせ、それをもって、彼らが、パウロの深い霊的な喜びを満たすようにと嘆願している。」と言っています。
 
3.一致勧告の内容(2節b):4つの命令
 
 
ここに四つの命令があります。先ほどお話ししましたように、これは、みんな「私の喜びを満たしなさい」という命令を説明する内容です。

・キリストと同じ考え方:
「一致を保ち」とは、直訳では、「同じように思いなさい(フロネオ−)」です。このフロネオーという動詞は2章の鍵です。2節に二回繰り返され、3節では「思いなさい」、5節では「キリストと同じ思いを抱きなさい」というところで使われています。さて、ここでは、考え方の傾向性が同じようになりなさい、はっきり言えばイエス様の考え方を自分の考え方にしなさいと言うことです。

・神が与える愛を共有:
「同じ愛の心を持ち」とは、同じ種類と性質の愛を持ちなさいという命令です。ここで言っているのは、人間本来の愛情を越えた、神の与える愛を共有しなさい、ということです。 私達が本来持っている愛情は、貴いものではありますが、限界があります。行き着くところは結局自分が可愛い、自分が可愛いと思うものを愛する、という自分中心のものです。聖書の語る愛は、人間が本来持っている愛とは次元が異なります。愛するに価しないものを愛する愛、報いを求めないで与える愛、己を保留しないで自分を差し出す愛のことです。それは、聖霊によって神の愛が心に注がれる時にだけ生まれる愛です(ローマ5:5)。兄弟同士の愛についても、「互いに愛し合うことを神から教えられた」(1テサロニケ4:9)時に初めて可能です。しばしば、教会の中で愛が語られるとき、「この教会には愛が乏しい」とか、「あの人には愛があるのかしら」という批判的な形で行われるのを耳にします。とても悲しいことです。批判する人は、自分は愛に満ちていると信じているから批判できるのでしょうね。しかし、元々愛に満ちている人はいないのです。そうではなくて、自分が愛せない人間であることを申し訳なく思い、神から愛を注いでいただくことを切に求める必要があるのです。この気持ちが一緒ですと、「同じ愛の心を持つ」者となれるのです。

・互いの心の調律:
「心を合わせ」(シンプスホス=心を共有する、like-minded)とは、同じような考えを持ちなさいという意味です。音楽で言えば、互いに調律しなさい、別々な音色が出ないように、互いの音を聞いてそれに合わせなさい、ということです。自分だけ特別な音色を出して、個性的だなどと威張ってはいけません。

・同じ目標を共有:
「志を一つにして」も、思う(フロネオー)という言葉の繰り返しです。同じ目標でものを考えることを意味します。神の栄光と人の救いのために心を合わせよう、とパウロは語っています。心を一つにするとは、意見が同じになることではありません。個性や趣味や物の考え方が同じになることでもありません。目的と動機が同じになることです。協力的な精神、助け合う心、互いを尊敬する心、自分を中心に考えない真の謙遜です。それこそが心の一致です。ラグビーのスピリットはOne for All, All for Oneというモットーで表わされます。皆で球を運び皆でトライする。トライをした選手がサッカーでゴールしたフォワードのようにガッツポーズをすることはありません。自分がたまたま前にいただけで、皆でトライしたという意識が強いからです。
 
4.一致勧告の水準(3−4節):利己主義からの解放
 
 
・競争心や虚栄から卒業:
「自己中心や虚栄からすることなく」の中の「自己中心」とは、分派的競争心(エリセイア)と言う言葉です。デニス・キンロー博士はこれについて「自分の思いに固執して人と争う性向こそが、肉の思いに他ならない」と注釈しています。「虚栄」とは、文字通り、虚しい(過ぎ去ってしまう、内容のない)栄光のことです。人間の本質は全くこの通りでして、行動の動機が分派的競争心と虚栄である事が多い、いや殆どと言って差し支えないのです。実は教会の営みでも、教勢とか財勢とか、立派な会堂とかが人間の誇りとなってしまう場合が多いのです。それをひっくり返すのがキリストの福音です。キリストご自身がその模範を示されました。ご自分をいつでも無にして、仕える姿を取りなさいました。そして私達に、この道を歩みなさいと挑戦しておられます。

・他人の価値を認める:
「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思い」とは、他人の考え、他人の生き方、行動というものは、自分のそれよりも勝れたものだという前提で物を考えなさい、ということです。私達は往々にして、他人を批評したり、噂しやすいものです。議論をするときでも、自分は正しく、相手は分かってくれないだけだ、という前提に立ってしまいます。自分の立場に対して確信は持つという事は良いことなのですが、もしかしたら自分は間違っているかも知れない、という幅を認めながら話し合うのとそうでないのとは雲泥の差があります。会議などで自説を譲らない人がいると、一致が生まれにくいのです。自分の主張するところは主張しても、「他の意見も勝れたもの」というゆとりを持つと、会議は楽しくなり、生産的になります。

他人の利益を求める:「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」とは、私達の注意を他人の利益に向けなさい、ということです。こんな事が出来るでしょうか。出来るわけがない、そう思った翻訳者は、自分のこと「だけ」を顧みないで、他人の事「も」顧みなさい、と訳しました。でも原文に忠実と思われる写本では、この「だけ」も「も」(カイ)も無いのです。「自分のことではなく、他の人のことを顧みなさい。」というのが忠実な翻訳です。再びキンロー博士の言葉を引用します。「恐らく、現代のキリスト者は、主が私達を利己主義から解放して下さるなどとは信じていないのです。その前提が聖書翻訳にも反映されているのです。」と。彼は更に論を進めて、自己中心こそが罪深い人間の典型的な特徴であるといい、キリストが与える贖いの目的は、折れ曲がってしまった思いを元に戻すこと、即ち私達が自分自身にではなく、他者の幸福に思いを馳せるように、外へと方向を変えさせることだ、と言い切っています。自分の事を顧みず、他人の事を顧みなさい、と言うのがパウロの語勢です。この精神が徹底する所に本当の意味での教会の一致が得られるのです。ある人が天国と地獄の絵を対照的に描きました。長いテーブルに相対して長いベンチが二列並んでいて、そのテーブルにはおいしい肉の丸焼きが山盛りになっています。それらを食べるためのナイフとフォークはあるのですが、それらは実に長く、しかも真っ直ぐなものばかりです。そこまでは天国も地獄も全く同じ絵です。違うところは、地獄の人々は一生懸命肉を切り、フォークで掴んでそれを自分の口に入れようとするのですが、その時にとなりの人のフォークと絡み合って、肉はこぼすは、傷つけあうはの大騒ぎとなって、折角のご馳走が殆ど口に入りません。天国でも同じですが、大きな違いは、切った肉をお向かいさんの口に入れ、互いにニコニコしながら食事と会話を楽しんでいることでした。「自分のことではなく、他の人のことを顧みる」ことが、皆にとってどんなに幸せかを示す絵です。さて、それはがそんなことは可能なのか、これは大きな大きな質問です。聖書は無理難題を私達に課しているのか、理想像を描いてともかくそれに一歩でも近づけと尻をたたいているだけなのでしょうか。そうではありません。私達の肉性を十字架に付け、キリストを心に宿す時に、キリストがそれを可能にして下さいます。
 
おわりに
 
 
今日は「同じ愛の心を持ち」とのみことばを心に留めて終わりましょう。

・互いに同じ弱さを確認しよう:
同じ、という言葉の中に意味されているのは、愛せない人間という点では同じ、という謙った出発点に立つことです。

・同じ神の愛に信頼しよう:
その人間に愛を注いでくださるのはキリスト御自身だけという真実なより頼みをもって迫ることが、次に必要なことです。私達はこの点で「同じ愛に」満たされて生きることが出来るのではないでしょうか。
 
お祈りを致します。