礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年7月26日
 
「キリストの思い」
ピリピ書連講(8)
プレイヤーフェロシップデーに因み
 
竿代 照夫牧師
 
ピリピへの手紙2章4-11節
 
 
[中心聖句]
 
  5   あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
(ピリピ2章5節)

 
聖書テキスト
 
 
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
はじめに:教会の一致がテーマ
 
 
先週、「同じ愛をもって」というテーマで、神が与える愛を共有し、それゆえに教会として一致しなさいというパウロの勧めを学びました。パウロはもう一歩進んで、神の愛を共有するためには、私達一人ひとりがキリストの心を持つことだと言ってキリストの模範に焦点を合わせます。
 
1.「キリストの思い」が解決の鍵(5節)
 
 
・キリストに目を向けよう:
パウロは、教会内の対立・不一致を徒に叱るのではなく、キリストの思いがどんなものであったかを彼らに思い出させることによって、この問題を氷解しようとしたのです。知恵深いですね。問題に目を留めて、それを一生懸命掘り起こすことで問題が解決することは稀です。夫婦の関係でも、二人の性格の違いを分析したり、それによって対応を考えたりすることは大切ですが、それだけで関係が改善することは余り期待できません。それよりも、私達の目を、一旦お互いから離して、キリストに向けることが大切です。パウロは、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」と 言って、キリストの思いがピリピ人のものとなるようにと勧めます。ピリピ教会の根本的な問題は、人々が異なった思いを抱き、それに固執していた事でした。その思いへの固執を解く鍵は、キリストの思いに人々の心をむけることでした。

・「キリストの思い」:
「キリストのような心構え」というと、何となく身構えたようなニュアンスが伝わってきますが、元の言葉はもっと平らな感じです。直訳すると「このことをあなた方の中でも思いなさい。それはキリスト・イエスの中にもあったものです。」となります。この中心は、フロネオー(思う)と言う言葉です。つまり、キリストの思いが私達の思いとなるように、と言う勧めなのです。キリストが行動されたそのままを真似すると言うよりも、彼の思いを私達の思いとするという内面的な模倣が期待されているのです。文語訳では、「キリストの心を心とせよ。」です。何と簡潔な言い方でしょうか。デニス・キンロ−博士が「キリストの心で」という本を書かれました。これはぜひ読んでください。彼の論点は、キリストのように思うことこそ「きよめ」なのだ、ということ、そして、私達が持っている、生まれながらの性質はキリストの思いとはかけ離れた自己中心的なもので、それを十字架につけることからクリスチャンとしての聖化が始まると言うものです。沢山の例話に裏付けられていますので、楽しい読み物です。先週の礼拝で「主の心もて」という讃美歌を歌いました。主の心を私の心とし、主の思いを私の思いとし、主の情けを私の情けと、主の歩みを私の歩みとすることが、私達の願いです。
 
2.受肉における自己放棄(6-7節)
 
 
さて、ピリピ書2章で強調されているキリストの思いとはどの様なものであったでしょうか。一言で言えば、謙りと自己放棄です。それが二つのステージで現われます。第一は神が人となり給うたこと、これを受肉と言います。第二は、そのキリストが十字架につけられたことです。第一ステージである6−7節を読みましょう。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

・放棄したもの:
何が捨てられ何が留められたのでしょうか。「神としてのあり方」を捨てなさいました。キリストが神であるというその「本質」を放棄なさったのではありません。それは不可能なことです。彼が放棄なさったのは、神と等しくあるという特権と栄光です。ここで使われている「あり方」(モルフ)という言葉は、外側の形、現れであって、性質や本質ではありません。「神のあり方」の中に含まれるものは、目に見える栄光です。これは、変貌山で主イエスが栄光の姿に変えられたとき、その一部を示されたものです。纏めて言いますと、神であるとの本質は変わりようがないが、その栄光を捨去りなさったのです。

・放棄の姿勢:
その放棄の姿勢は、敢然と潔く行動なさったことに現れています。6節の「神のあり方を捨てることができないとは考えないで」という言葉は英語では“…did not consider equality with God something to be grasped”となっています。直訳すると、「神との平等的立場を何かしがみつくべきものとはかんがえないで・・・」となります。「しがみつく」(ギリシャ語の<ハルパグモス>)とは、イメージ的には「野生動物が獲物をしっかり捕まえて、或いは泥棒が獲物を捕まえて何が起きても放すまいとしているような態度ではなく・・・」と言った感じです。私がケニアで飼っていた猫は、普段はおとなしい美人猫ですが、一旦獲物を捕まえると、何が何でも決して放さない頑固な猫に変身するのでした。主キリストの絵はそれと全く対照的なもので、神と等しいと言う光栄と特権をさらりと脱ぎ捨てたのです。私達は何かの物を手放せないものと考えがちです。例えば社会的地位、名誉、文化、教育的背景、などなど。それらを放せと言われると、反発してしまいます。しかし、それらをより大きな目的の為に手放すべき時もあります。それを喜んで手放した最高の模範がイエス・キリストです。ヘンリ・ナウエンは、ハーバード大学の教授という、誰もが羨ましがる職をさらりと捨てて、知恵遅れの子供たちと共に生活するラルシュという施設に入りました。その結果、大学教授では知ることの出来ない、素晴らしい主の恵みを経験しました。

・自己放棄の程度:
「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・。」「仕える者」とは字義通りには奴隷のことです。最後の晩餐の折に、奴隷の仕事である洗足をする人がいないときに、主賓席に坐っておられた主イエスは、すっと立ち上がり、タオルとたらいを取って弟子たちの足を洗い始められました。この出来事は正に、仕える者の姿を取られた主の象徴的出来事です。当時のギリシャ・ローマ社会は奴隷制社会であり、基本的人権を持った市民の何倍もの奴隷に支えられた社会でした。ピリピには多くの市民がおり、教会員も多くは市民であったと思いますが、その教会員に向かって、私達の主は、奴隷の姿を進んで取られたお方なのだというメッセージは、強烈な謙りへのメッセージでした。
 
3.十字架に至るまでの自己放棄(8節)
 
 
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

・自己放棄の継続:
キリストの自己放棄は受肉の事実で終わらないで、十字架の死に至るまで続きました。これを図式で表すと
<神の栄光→人間→僕→十字架の死>
となります。徹底した謙り、下降線そのものです。彼はこの自己放棄を、歯を食いしばってなさったのではなく、喜びをもってなさったのです。勿論、人間としての主イエスが、笑顔を持って十字架を担いなさったわけではありません。できれば、それを避けて他の救いの道はないかと願いなさいました。これは当然です。しかし、主は、父の御心に従うことを何よりの生き甲斐とし、生きる指針とされたのです。皆さんのうちに、この道は自分の好みでもなく願いでもないが、従わねばという導きを感じておられる方はないでしょうか。それに従うことは屈辱と感じなさいますか、それとも喜びでしょうか。主イエスは、神よ、あなたの御心に従うことを私は喜びとします、と告白なさりつつ地上の生涯を全うされました。

・自己放棄の目的:
それは私達と親近感を深める為であり、さらに、私達を罪の重荷から解放する為でした。特にローマ市民にとって、十字架とは屈辱の死以外の何物でもありませんでした。しかし、その屈辱の死こそが、私達の最も恥ずべき罪からの救いのための唯一の道であることを悟られた主イエスは、十字架にまで従われました。このように、私達が主と仰ぐお方の生き様は、徹底的な謙りと自己放棄のコースでありました。
 
4.自己放棄の結果(9-11節)
 
 
9-11節に「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。

・高揚:
これは、何たる栄光、何たる勝利でありましょうか。キリストの謙遜の結果は大いなる救いの完成と言う勝利と神の右の座につくと言う栄光でした。主は、それを取引き条件にして我慢して謙ったのではありません。彼の驚くべき栄光はあくまでも結果であり、謙遜の目的ではありません。
 
5.私達へのメッセージ
 
 
主イエスの模範を学ぶ時に、私達はこう言って諦めてしまうことが多いのではないでしょうか。「イエス様は特別なお方だ。彼の謙遜や自己放棄は、本当に素晴らしいものだ。しかし、私は凡人だ。とてもあんな生き方はできっこない。理想像としてのイエス様は素晴らしいが、それを自分に当てはめるなんて出来ない芸当だ。」しかし、パウロは、人間のそんな弱さを百も承知で、キリストの思いを自分の思いとしなさいと挑戦しているのです。それは主の恵みによって可能ですし、それ以外には不可能です。さて、主の模範から、三つのメッセージを汲み取りたいと思います。

・自分のあり方に固執しない:
このイエスの私達に語るメッセージは、私達が今持っている持ち物、立場、考え方、ライフスタイルに固執しないということが第一のメッセージです。それをいきなり全否定をしなさいという意味ではありません。主が命じなさった時には、それがどんなに自分にとって大切なものであったとしても、それをさらりと捨てる心の準備を言い表すことが大切です。例えば、近代人は、シャワーのない生活は耐えられないと思います。これなしには生きられないと思いがちです。ですから不便な場所での宣教師生活には人気がありません。しかし、主のみ心ならばすベての便利ささえも喜んで捨てる用意はあるでしょうか。イエス様でさえも神との等しい位置に固執されなかったとすれば、まして私達が何物かに固執する事があるでしょうか。

・他の利益を考える:
先週学びました3-4節でパウロは「謙遜をもって互いを勝れたものと思い、更に、他の人の利益を先に考えなさい」と勧めます。この翻訳が「自分のことだけではなく他人のことも顧みなさい」となっているのは、現代の翻訳者が、人間は完全に利他的にはなれないという常識を持って、柔らかい翻訳にしてしまったからである、と言うこともお話ししました。本来の訳は、「自分のことではなく、他人のことを顧みなさい」なのです。聖書は、私達に不可能なことをしなさいと求めているのでしょうか。具体的に言いましょう。自分が無視されたり、自分の権利が踏み躙られた時、どんな反応をするでしょうか。人から嫌な言葉や態度を示された時どう反応するでしょうか。自分のやり方や願いや意見や好みが否定された時どんな反応をするでしょうか。自分のプライドが傷つけられた時どう反応するでしょうか。どのような場合でも、「謙遜を持って、他の人をも顧み、他の人の利益を考える」ことは難しいです。でも、それこそが主イエスの生き方でした。

・キリストと共に十字架につく (ガラテヤ2:20):
この自己放棄は、キリストと共に自己に死んだという明確な信仰告白とそれに伴う聖めの経験によってのみ可能です。「イエス様、私はあなたと共に自分自身を十字架につけます。自分は死にました。生きているのはキリストご自身です。あなたを信じ、より頼むことで、私は本当の意味で生きています。」とどこかで決断し、告白し、その信仰に立ち続けることが大切です。この事が徹底しますと、「主よ、私の全てはあなたのものです、私は全てについて自分を十字架に付けたものです」と告白できるのです。今日は、プレヤーフェロシップデーのプログラムのために、聖別会を持つことができません。しかし、この礼拝を聖別会のように捉えましょう。単純に、率直に、真実に、自己中心的な生き方を悔い改め、私のために十字架に命を捨ててくださったその十字架に私自身を信仰によって釘付けにし、勝利を信じて立ち上がりましょう。ガラテヤ2:20を読んで終わります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」この告白が私のものとなりますように。
 
お祈りを致します。