礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年8月2日
 
「キリスト・イエスは主」
ピリピ書連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙2章5-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10,11   イエスの御名によって・・・すべてが、膝をかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
(ピリピ2章10-11節)

 
聖書テキスト
 
 
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
はじめに
 
 
先週は「キリストの思い」に焦点を合わせました。特にその自己放棄と謙りのスピリットを学びました。今日はそれと対照的に、キリストの高揚の姿を見ます。
 
A.神が高く上げてくださる(9節)
 
 
「9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
 
・高揚の前提:
9節は「それゆえ」で始まっています。「それゆえ」の背景にありますのは、キリストの徹底した自己放棄と謙りの行動です。神である立場、神としてのあり方をきれいさっぱりと捨てて、人と同じ姿を取り、その上、最も貧しく、虐げられた道を歩み、恥辱と激痛を伴う十字架の苦しみを甘受された生き方でした。これは、上に立つことが出世、上昇することが成功というこの世の人生哲学と正反対な生き方です。そして、それはキリストという特別な使命を帯びた、特別な方がそのように生きた、というだけではなく、彼に従うものがすべて倣うべき生き方なのです。謙る本人の側から言えば、そこで終わってもよいのです。しかし、すべてをご覧になり、すべてを報い給う神は、謙るものに豊かな恵みを与えなさいます。主イエスの側ではこれ以上低くなれないと言われるほどの遜りがあって、始めて父なる神のみ業としての高揚が成されました。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。・・・主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ4:6,10) 経済の世界では「底入れ」とか「底を打つ」いう言葉があります。これだけ下がるに下がったから、後は上がるしかない、という底のことです。しかし、キリストには、これだけ謙ったから、これからは上向きしかない、という打算もありません。ただひたすらに自らを虚しくし、謙ることに喜びすら見出すスピリットがあるのみでした。しかし主は、謙るものに恵みを与えなさるお方です。

・「高く上げる」のは神の業:
高く上げなさったのは父なる神です。詩篇にこうあります。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」(詩篇75:6−7) 何たる栄光、何たる勝利でありましょうか。会社などで自分に対する上司の評価が不当に低いとか、どうして自分の苦労は報われないのかとか、どうして自分はこんな重要でない立場しか与えられないのだろうかと悶々としている方はありませんか。この詩篇の御言を思いだしましょう。「高く上げることは、東からでも、西からでもない。神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」ヨセフの生涯を思い出してください。かれは決して自分を売り込んでエジプトの総理大臣に就任したわけではありません。神の摂理の歯車が動いて、人々が彼を必要と感じたときにそうなったのです。ダビデの生涯もそうでした。サウル王を倒して、いわばクーデターによって自分を王位に押し上げるチャンスはありましたが、ダビデは決してその誘惑に負けませんでした。主の時が来て、もろもろの環境的要素が彼を王様に押し上げたのです。聖書が一貫して私達に教えている教訓は、高く上げるのは神である、という真理です。このことが本当に分かりますと、いわゆる毀誉褒貶に惑わされることから救われます。

・高揚の内容:
さて、「キリストを高く上げて」とは、どのような内容が含まれているでしょうか。これには、十字架の死以降のすべてのプロセスが含まれています。つまり、死からの復活、昇天、父の御座の右に着座されたこと、それらが全部含まれていて、これほど高くはなれないというほどの高揚です。エペソ1:20−22を見ますと「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」と記されています

・「すべての名にまさる名」:
キリストは、その受肉以前から素晴らしいお名前を持っておられました。永遠のことば、知恵、創造者、保持者、御子・・・それだけでも素晴らしいものです。しかし、十字架にかかり、甦った後初めて本当の意味で「救い主」になられました。これこそが、「すべての名にまさる名」です。受肉してお生まれになった時から、「イエス」(その意味は「救うもの」)であられたのですが、贖いを完成されて、真の意味で救い主となられたのです。
 
B.イエス・キリストは万物の主(10-11節)
 
 
「10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
 
・全被造物が膝を屈める:
「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」とは、全被造物を指します。ある注釈者は、「天にあるもの」とは御使いのこと、「地にあるもの」とは今生きている人間、「地の下にあるもの」とは既に死んでいる魂、と説明しますが、私は、単に「全被造物の総称」と理解します。いずれにせよ、それらの全てが膝を屈め、つまり徹底的に謙り、全ての舌がイエス・キリストは主と告白して栄光を父なる神に帰せるのです。言い換えれば、キリストは十字架の救いと復活を通して、全宇宙の主となられたのです。前からそうであったのではないか、と問われると、誠にその通りです。でも、この宇宙とは贖いの完成によって回復軌道に乗った宇宙であり、キリストはその回復を齎したMVPであられます。

・全被造物が主と告白する:
その被造物がみな彼の名前のゆえに(その名前を聞いて)膝を屈めるのです。最後の讃美歌に「我が君イエスよと喜び歌う、聖名の貴さは世に類いなし」と歌いますが、この救い主イエスのお名前とその意味するものの深さ、厳粛さ、荘厳さに、全被造物が膝を屈めるのです。その名前を聞いただけで、皆が一瞬静まり、平伏してしまうほどの力が、そのお名前にあるのです。私達に一番分かり易いのは、水戸黄門の持っている葵の印籠です。暫くチャンバラが続いた後、ジャーンと銅鑼がなり「この紋所が目に入らぬか、頭が高い、下がりおろう。」と助さんが叫ぶと、どんな悪者も「ハハーっ」とばかりにひれ伏す、あの最後はカッコいいですね。あの宇宙版がイエス様です。

・私もその告白に加わる:
すべてのものが膝を屈め、すべての舌が、「キリスト・イエスは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する、という壮大な信仰告白が、今既になされています。その始まりは、マタイ16:16です。ペテロはイエスに向かって「あなたは、活ける神の御子キリストです」と告白しました。主はペテロの告白を、偉大な告白と激賞し、この信仰告白(をする信仰者の群)を土台として教会を建設する、と語られました。この告白は、感謝に満ちた畏敬であり、主に対して完全な服従を誓う儀式でもあります。私達一人一人が、個人としてこの告白をすることが期待されています。全体の中の一人として、「右へ倣え」的な告白ではありません。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)と記されている通りです。この告白を、真実に、はっきりと生涯のどこかで主に捧げましょう。

・その告白に生きる:
「キリストは主」と告白することはとても大切ですが、彼を主としながら生きることはもっと大切です。分かり易い言葉で言えば、キリストを私のボスとと認めて生活するということです。会社でも、学校でも、私達には直接その指示を仰ぐボスというものが存在します。彼の言うことは、理不尽であったり、無理であったりしますが、従わねばなりません。相撲の親方は無理扁にげんこつと書いたそうですが、私達の主は無理も仰らず、げんこつもありません。でもある時は厳しいなと思う指示を与えなさることもあります。でも彼をボスとした以上、従うのです。この習慣は止めなさい、と言われれば、はい、と従うのです。これをやりなさいと言われれば、少々気乗りがしなくても、するのです。ここへ行きなさい、と言われれば辛くてもそこへ行くのです。ヨナという預言者は、頭の中では神を主と仰いでいましたが、実際の行動では自分のやりたいことを行い、自分の生きたいところへ行きました。神はヨナの自己中心性を優しく扱ってくださいました。嵐を備え、魚の腹という恐ろしい経験を通し、枯れてしまったとうごまを通して語ってくださいました。最終的にヨナは、彼の人生の主人公は私ではなく、主なのだと悟りました。私達の人生の主人公は、主キリストです。このことを深く自覚し、その自覚に立って毎日の言動、選択、時間・お金の使い方にそれを表していくの、キリストを主と告白するクリスチャンです。
 
終わりに
 
1.キリストを主と告白しよう
 
 
私達は、その生涯のどこかで、「キリスト・イエスは私の主です。私の主と受け入れます。」というハッキリした告白をしたことがありますか。もし、未だの方が居られましたら、近くの牧師または信徒の方と一緒に祈りの時を持ってください。そのスタートの時を明確にし、自覚的に持つことは、非常に大切です。家庭生活が、結婚式というハッキリしたけじめから始まるように、信仰生活は、洗礼(そしてそれに先行する信仰告白)から始まるのです。そのけじめをはっきりとさせなさるように切に祈ります。
 
2.その告白に生きよう
 
 
「キリスト・イエスは私の主です。」と既に告白した人々に尋ねます。皆様は、その告白どおりに生きていますか。日常生活のありとあらゆる分野で私の主です、と告白し、主の導きに従って歩んでいるでしょうか。これだけは譲れないというものをしっかりと持ったまま、口先だけ、或いは観念だけ、或いは日曜日だけ、イエスは主であると認めているだけではないでしょうか。もしそうでしたら、イエス様ご自身が、神のあり方を捨てがたいとは考えずに放棄されたように、私達も自分中心主義を放棄して、イエス様中心主義に切り替えようではありませんか。そして、私の時間の主、私の財政の主、私の体の使い方の主、頭の使い方の主、人生目標の主であることを告白しましょう。朝ごとに、主よ、今日はどのように時間を過ごしましょうか、何をなすべきでしょうか、どんな心構えで一日を送るべきでしょうかと御心を待ち望み、私達の心を主のために備えましょう。一日の仕事の最中にも、ふと、手を休めて、あなたが私の主ですと告白しながら、導きを仰ぎ、み力に頼りつつ進みましょう。
 
お祈りを致します。