礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年8月9日
 
「自分の救いを達成して」
ピリピ書連講(10)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙2章12-18節
 
 
[中心聖句]
 
  12   そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
(ピリピ2章12節)

 
聖書テキスト
 
 
12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。
 
はじめに
 
 
先週は、キリストの謙りの結果として「キリストの高揚」の姿を見ました。12節以下は、その真理を個人に当てはめる、「救いの完成の勧め」です。今日は「救いの完成」について、12−13、さらに14節までからいくつかの大切な真理を拾います。
 
1.「キリストの心」がゴール(12節a)
 
 
12節は「そういうわけですから」で始まっています。「そういうわけ」とはどういう訳なのでしょうか。当然、その前の5−11節の文節を受けています。つまり、キリストが謙りの模範を示し、救いを成し遂げ、今や天の御座に居て私たちのために執り成していてくださるという事実を指しています。このキリストの成し遂げてくださった救いを個人々々が受け取り、そしてキリストの心に一致することをごーるにして救いを達成しなさい、という風に繋がっているわけです。救いと呼ばれる神の業の最終的ゴールは、この罪深き、しかも、価値のない人間が、栄光あるキリストの心を頂くことなのです。

そこで、12節の後半の勧めに入るのが自然なのですが、論理的には、13節を先に取り上げた方が分かり易いと思いますので、いきなり13節に入ります。
 
2.救いは神が始めなさった(13節)(イラスト@)
 
 
・「ガンバレ」ではなく「ダイジョウブ」:
13節は、(日本語に訳されていませんが)「というのは」(英語ではfor…, ギリシャ語ではgarから始まっています。12節には、「達成に努めよ」と勧められているのですが、神様は、鬼コーチのように鞭を振るって私達クリスチャンをガンバレ、ガンバレと励ましておられるのではなく、パウロは、神が先ず必要な業を心の内に始めていてくださるよ、だからダイジョウブと神の可能性に目を向けているのです。

・神の良きご計画:
「みこころのままに、あなたがたのうちに働いて・・・」と記されていますが、そのみこころとは何でしょうか。これは、ギリシャ語ではユードキア(良い思い)ということで、神の良きご計画をさしています。そのご計画はローマ8:28−30に明らかに示されています。そこには、私達を救いに導く神のご計画、別言すれば工程表が記されています。神が一人ひとりを救いに招くこと、その人を義とすること、義とした人を栄光の姿に変えること、それは、キリストと同じ形にすることだと説明されています。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(8:29)これは信じられないくらい素晴らしい工程表です。その辺にある土塊を取り上げて、私はこれを使って立派な茶碗にして見せよう、というのと同じ位、物凄い計画なのです。先週の林間聖会において、講師である勝間田充夫先生が、「神の傑作品」という説教をされました。正に私達はその辺にある土塊に過ぎないが、神はその貧しい素材を用いて、傑作品となさるのだ、という大きな慰めに満ちたメッセージを語ってくださいました。私達はどのくらいそれを自覚しているでしょうか。

・神のアクション(イラスト@):
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」この文章の強調点は「神」です。直訳的に言いますと、「あなたがたのうちに働いて、その良き思い(顧み)に沿って意思を起させ、働きをさせなさるのは、実に神なのです。」この英訳は、It is God who works in you…という構文で、そのニュアンスをより正確に表します。私達は、神を求めたのは自分だ、という風に自分を中心に、物事を考えやすいのですが、実際は違います。神のアクションが最初なのです。

・志を立てさせ、業を行わせる:
神のアクションの内容が二つ記されています。第一は、「志を立てさせる」ことです。神のご計画に沿って願う気持ちを持つこと、つまり、「救われたい!」という願いを示します。教会に行ってみようかな、聖書を読んでみようかな、自分の人生をこのままではなく、神と呼ばれる方に向けて方向転換をしようかな、という願いのすべては、神のご計画に沿って神が起こさせなさった願いなのです。第二は、「ことを行わせる」(エルゴー=働く)という意味です。良い志を立てただけではなく、「そのために何でもする!」という行動です。これは実は神のお働きなのです。いいや、そんなことはない。私は自分で求め、自分で追求して救いを得たのだ、という証しを持っておられる方もありましょう。実際、私達の心の動きとしてはそうかもしれません。しかし、パウロの神学によれば、そのような心の動きも神の業なのだと言うことです。なんという素晴らしい、また、恐れ多いことでありましょうか。パウロは、内に働き給う神の無限の力を信頼するように勧めています。「救いの達成」とは、神がその主権をもって、私達の心に始めなさった救いの業を私達も協力して完成に導くことなのです。
 
3.救いの達成に向かって(12節b)
 
 
・自己責任で:
@神の主権に協力:パウロは「自分の救いを達成してください。」と勧めます。「自分の」と言うところが強調されます。英訳では、your own salvationです。神の側では、キリストの贖いの完成というお膳立てがすっかりとなされ、しかも聖霊のお働きによって私達の心にそれが当てはめられて、神を愛し、信じる心が与えられ、神の形が芽のように植え込まれました。しかし、私達の側でボーっとして良いのではなく、しっかりと芽を育て、実を実らせるのは人間の責任です。神の主権と人間の自由意志の美しい調和をここで見ます。この二つは相矛盾するものではなく、(私達の理解を超えた分野ではありますが)見事に調和すべきものなのです。
A個々の責任もう一つポイントを挙げれば、救いの達成は一人ひとりの責任であるということです。牧師や両親や友達が代わって達成することは出来ません。入学試験と同じで、誰かが私に代わって、試験の答案を書くことは出来ないのです。

・懸命に(イラストA):
「達成して」とは、カテルガゾマイ(懸命に働く、ゴールに向かって完遂する、終わりまでやり遂げる)です。真剣に取組んで、それを全うすることです。確かに、救いを始めなさったのは神ご自身ですが、それを完成に持っていく責任は私達自身のものです。神が自動的にこれを完成に導いてくださる訳ではありません。当然、人間の本来の力や努力が大切であるという律法主義、勤行主義を勧めているわけではありません。神の働きを貴いものとして認めつつ、本当にその貴さを弁えたものとして、それに沿って私達も協力することが大切なのです。信仰者は、神が恵みによって注ぎ込んでくださったものを達成しなければなりません。仮に、私達が、世にも珍しい2千年前の大賀蓮の種を頂いたと仮定しましょう。私達は、それを大切に育て、きれいな花を咲かせるために水や肥料をやり、環境を整えることでしょう。<序でながら、大賀蓮の種を発芽させるためには、以下のことがホームページに記されていました。「大賀蓮は極端な硬実種子ですので、その種の皮を傷つけて水が浸透するようにします。それを水の入ったコップに入れます。置き場所は明るい場所にして下さい。2、3日で種子が膨らみ始め、1週間から10日で新芽が勢い良く伸び始めます。2枚目の葉が伸び始めたら、植え付けに入ります。荒木田土と腐葉土を水と共に良くこねて泥を作り、水の貯められる容器に直接入れます。その上に水を10p程度張ります。それを日当たりの良いところにおきます。肥料やりは、油粕や骨粉を固めた市販の肥料を2、3個、茎から離れたところに埋め込んでやります。その後、1月おき位にやればいいと思います。播種後1年目で開花することはありますが、一般に2年目以降になります。」>主は私達に救いという種を与えてくださいました。でもそれは、種なのです。発芽し、成長し、開花して、実を結ぶ必要があるのです。その実とは、聖霊の実のことです。イエス様がもっておられたような「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22−23)という麗しい結実に向かって進みたいものです。

・恐れと戦き:
「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」この恐れには二つの方向があると思います。
@「素晴らしい宝を貰った」自覚:一つは、自分が相応しくない物凄い宝物を貰ってしまったと言う、恵みの価値高さに基づく恐れです。譬えが適切かどうか分かりませんが、平凡な羊飼いであったダビデが、王様の娘であるミカルをお嫁さんに貰った状況と似ています。この嫁さんに相応しく生きようというのが恵みによる恐れです。
A「自分は弱い」という自覚:もう一つは、自分の弱さの自覚から来る恐れです。自分の力では全うできないという恐れ、自分は誘惑には弱いものだという自覚、恵みの中にいなければ失敗してしまう可能性があるというその恐れのことです。生まれつきの性質では神の御心を傷つけてしまうという恐れは謙遜に通じるものです。内なる腐敗性の自覚し、聖なるお方を意識すればするほど、そのお方のみ旨に沿わないことをしたり、言ったりする可能性が大きいという聖なる恐れのことです。
B奴隷的恐怖ではない:勿論、この恐れとは、私達がちょっとでも悪いことをすれば叱られるという奴隷的恐怖ではありません。物凄く大切な宝物を、相応しくない私が貰ってしまったという聖なる畏れのことです。5タラントと2タラントを預かったしもべは、聖なる恐れをもってそれを活用し、主人のお褒めに預かりました。反対に、1タラントを預かったしもべは、奴隷的な恐怖を持ちました。その主人のことを「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だと恐れて、何にもしないでその宝を土に埋めました。その結果は皆さんご存知の通りです。

・従順な心を持って:
「いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら」パウロは、ここでピリピ人クリスチャンに新しい真理を教えているのではありません。彼らと一緒に居る間も、ずっと「救いの完成」に向かって歩むようにと、折に触れ勧めてきました。ピリピの信徒たちは、牧師であるパウロの勧めに従って、救いの完成を目指して一生懸命励んできました。パウロは、そのことを評価しながら、私の存在がなくなった今でも変わらぬ精進を示してほしいと書き送ります。つまり、指導者の教えと模範に従うようにと勧めているのです。この従順は、8節にあるキリストの従順とも対応しています。

・信頼と満足(14節):
「14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」これについては来週詳しく述べることにします。
 
おわりに
 
1.私に関わる神の計画の素晴らしさを感謝しよう
 
 
「私」という存在を、どうでもよいもの、ちいさなもの、つまらないもの、醜いものという風に思って、落ち込んでいる方がありましょうか。実際そうかもしれません、しかし、神は、私はあなたがたには良い計画を持っているとおっしゃるお方です。単に気慰めでそうおっしゃるのではなく、マジでそうなのです。その落差を見ると呆然・唖然とすることしばしばですが、神のご計画表はそんなに素晴らしいものなのです。
 
2.神の働きに全く頼りつつ、同時に、自分の責任をしっかり果たそう
 
 
主が既に内に働き始めなさったということを感謝しましょう。そのお働きに沿って自分も働きましょう。「恵みの手段」と呼ばれる御言の継続的な学び、日々の祈り、集会への励み、互いの交わり、主への奉仕に励むことにおいて、いい加減であってはなりません。崩れた祭壇がありますならば、それを立て直しましょう。
 
お祈りを致します。