礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年8月16日
 
「世の光のように輝く」
ピリピ書連講(11)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙2章12-18節
 
 
[中心聖句]
 
  15,16   曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
(ピリピ2章15,16節)

 
聖書テキスト
 
 
12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。
 
はじめに
 
 
昨週は、「恐れおののいて自分の救いを達成に努めなさい。」(12節)を中心に、神が私達の心の内に始めなさった救いの業の完成のために、人間の側でなすべき分は何かを考えました。繰り返しますが、人間は救いのためには主導的な働きは何一つ出来ません。しかし、環境調整的な働きは、主から期待されています。それが主に従うことであり、聖なる恐れを持つことであり、また、恵みの手段と言われる務めを励行することです。

今日のテキストは主に従いなさいという勧めの続きです。14節は、救いの完成のために私達が取るべき姿勢;15-16節aは、その結果としての聖さと輝き;16節b-18節は、救いが達成される時の伝道者の喜びを扱っています。順次進めましょう。
 
1.救いの完成のための二つの要件(14節)
 
 
「14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」
 
12節に従順と言うことが救いの完成のために必要と述べられていますが、その従順は自発的に、しかも喜んでなされねばなりません。それが「呟かず、疑わず」という勧めです。

・呟かないで従う:
呟きは不満足感と頑なさの表れで、イスラエルの民が荒野でしばしば示したスピリットです。教会も、この呟きのスピリットで悩まされ得ます。信徒同士が、牧師が信徒に対して、信徒が牧師に対して、呟き始めたらきりがありません。呟きへの誘惑を感じたら祈りましょう。祈りの中で示されたら、呟きの対象となる人に礼儀と愛と知恵をもって勧告しましょう。勧告する勇気がなければ忘れましょう。呟きの見られない教会は、何よりも素晴らしい証です。一麦教会の聖会で、教会内の呟きで教会が壊され、多くの人々が去ってしまい、そこから立て直した牧師さんの証しがなされました。さて、私達は、呟きの代わりに何を持ってきましょうか。それは、感謝です。常に喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝すると、呟く暇がなくなります。讃美歌にも、「主の賜いし十字架を担い切れず沈む時、数えてみよ主の恵み、呟きなどいかであらん」とあります。感謝をしましょう。

・疑わないで従う:
「ディアロギスモス」とは英語のdialogue(対話)のもとになる言葉で、いわば中立的な言葉なのですが、この場合は悪い意図を持っての議論や理屈こねという意味で使われています。神に対しての疑念を心の中で議論しない、との意味です。お互いの意図についても同様です。信仰とは、神の御心はいつも善であって、私達にとって喜ばしいものであると信じ切ることです。私達の身の回りに起きることが、表面的・一時的には、悲しいこと・分からないことであったとしても、その背後の摂理の御手を信じることです。疑いの代わりに信頼を私達の生き方としましょう。別な讃美歌にも「疑い憂いに囲まるる時、仰げ高きを」とあります。いつでも、どんな場合にも、主を全面的に信頼しましょう。
 
2.その結果(1):清い心と生活(15節)
 
 
「15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり」
 
これは、呟かず、疑わずに生活を送るものの結果として描かれています。三つの形容詞に注目します。

・非難されるところがない:
「アメンプトス」とは、欠点を詮索されても見つけられない、という意味です。人々の目から見て、非難される点を示さないということです。実際、生身の人間で、そんな人はいるでしょうか。多分、いないでしょう。聖書で例外的に示しているのは、ザカリヤとエリサベツ(ルカ1:6)、救われる前のサウロの律法的生き方(ピリピ3:6)です。さてここでの強調は、どの点から見ても完璧で非難の余地がない人間になるという、いわば息苦しい人間になるというよりも、その行動の動機において純粋であり、罪から、不誠実から、また、道徳的汚点から解放され、その意味で非難されない人間になると言うことです。

・純真:
「アケライオス」ということばは、ケラヌミ「混ぜる」という言葉から来ていて、混ぜ物をしないという意味です。特に、ぶどう酒に水を混ぜて、いわば水増しをすることが行われていましたので、それをしない、という意味です。つまり、単純さ、純粋さ、混じりけのない心で、神に向かう一途さを示します。私達の、神に対する愛は、自分の欲と混ざってはいけません。単純・純粋に主を愛し、その動機のみをもって主に仕えたいものです。

・傷のない:
「アモーモス」ということばは、しみや傷がないという意味です。これは、ギリシャ神話のモムスという神から来た言葉です。モムスは自分では何も善いことをせず、他人のあら捜しを専門にする神でした。クリスチャンは、このモムスでさえも欠点を見つけられないほどまでに、清くありうるというのです。それがアモーモスという形容詞です。そしてこの「傷のない」という形容詞は、「神の子どもたち」に結び付けられます。クリスチャンは「神の子供たち」です。神の子供たちが、汚らしくては様になりませんね。我が家の子供たちが通っていた学校に、大統領の孫がいました。5,6歳だったものですから、清潔感もなく、自分の立場も弁えていませんで、よれよれの着物を着ていたり、鼻をたらしたりで、皆から「汚いジミー」とからかわれていたそうです。私達が身構えてそうなるのではなく、神がご自分の聖さという名分にかけて、私達を傷無き者に保ってくださいます。主を信頼しましょう。
 
3.その結果(2):世の光となる(16節a)
 
 
「16a いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」
 
疑わず、呟かない生き方の第二の結果は、世の光として輝くことです。

・み言がガイド:
「いのちのことばをしっかり握って」とありますが、この「しっかり握る」とは、注意をそこに固定することで、ウエイターがぶどう酒を客に注いで上げるときの注意深さを示す言葉だそうです。注意を逸らしますと、ぶどう酒をこぼしてしまいます。さて、私達が立っているのは、永久に変わらない神の御言です。私達の生活も、奉仕も、説教も、みな御言によります。神の言葉が「つけたり」のような存在ではなく、私達のガイドであり、命の拠り所であり、助けであり、励ましです。御言から離れた教会の運営はありえません。私達が御言にしっかりと立った歩みをし、御言を人々に提示するときに始めて光ることが出来ます。

・曲がった邪悪な世にあって:
パウロは、この世を、「曲がった邪悪なもの」と二つの形容詞をもって言い表します。曲がった(スコリオス)と言うのは、スケロー(葉が枯れてチリチリになる)というイメージから来た言葉です。葉が枯れるとチリチリに曲がるように、この世は曲がっています。次の言葉は「邪悪」です。この言葉も、「無理に捻じ曲げる」という言葉から来ています。正しいことを悪とし、悪を無理やりに善とする捻じ曲げぶりです。結婚前にセックスをしないという当たり前の教えは、今の時代には古錆た化石人間の道徳と言われてしまいます。

・世の光として輝く:
この曲がった世は、愛に欠けた時代です。聖さに欠けた時代です。真理に欠けた時代です。だからこそ、私達は、聖い存在であるだけで、光のように光ることが出来ます。「輝く」とは、頑張って輝くというより、「見られる」という受身形で言われています。つまり、この暗い世にあって清い生き方をすること自体が光り輝くことになるのです。この光ということば(フォーステール)は、太陽、月、星のような天体の光を指す言葉です。海岸での灯台が、航行する船の指針となるように、人々に人生の指針を与えることが出来ます。「闇に輝くともしびを継いで」という本があります。日本で半世紀伝道されたメティカフ宣教師の著書ですが、同師が少年時代に中国で日本軍に捕らえられ、収容所生活をしていた暗黒時代に、輝くともしびのように明るく、愛を示し続けたエリック・リデル宣教師の影響を受けて、自分も宣教師になったという美しい物語です。その物語の締めくくりを引用します。「聖書の中には『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』という言葉がある。光とはキリストの事を指している。そして、キリストを信じる私達一人一人も、小さなともしびになれるのだ。世界がどんなに暗いニュースを伝えても、小さなローソクが、あちらでも一本、こちらでも一本、一生懸命輝くようにと、私自身が力の限り燃えながら、祈り願っている。」
 
4.伝道者の喜び(16節b-18節)
 
 
「16b そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」
 
このようにパウロはピリピ教会の人々を励ました後で、彼らの信仰の成長が伝道者である自分の喜びとなることを予見します。

・伝道者の誇りと満足:
「そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」直訳しますと、「(それは)キリストの日に向けての私の誇りのためです。つまり、私が虚しいものに向かって走った訳でもなく、虚しいものに向けて、自分を打ち叩くまでに労した訳でもないと悟るためです。」となります。反対に、もし、ピリピの信徒が、自己の救いの完成に怠るようでしたならば、それまでのパウロの奉仕は水泡に帰してしまうかもしれない、という恐れがあったこともこの書き方の裏側に伺えます。

・伝道者の犠牲:
たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」ここでパウロは、「自分が注がれても」喜ぶ、と言っています。ここでのフィギュアは、ピリピ人クリスチャンが(万人)祭司として、彼らの信仰を供え物として主に捧げる時に、パウロは、自分自身を「注ぎの供え物」として献げる、と言っているのです。この「供え物」は、ビンセントによれば、旧約的な供え物ではなく、ギリシャ的な供え物を指しています。というのは、この注ぎが、メインの供え物の上になされるからです。(律法による供え物は、祭壇の周りに注がれました)。いずれにせよ、自分を注ぎだす奉仕をなさったのは、主キリストです。彼は十字架の上で、「自分の命をしに明け渡し(he poured out his life unto death)」なさいました(イザヤ53:12)。パウロは、ピリピ人クリスチャンが、未だ欠けたところが多く、それを補うために、自分の命を注いでも惜しくはないと思っていたのです。彼は、キリストの贖いに取って代わるとは夢にも思っていませんでしたが、愛するピリピの信徒のために、とりなしの祈りを捧げ、手紙を書き、カウンセリングを行うという活動で命を縮めても惜しくないと考えていたのです。

・伝道者と信徒が共に喜ぶ:
「あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」このように、みなが、おのおのの救いの達成に向かって進み、清き生活と、積極的な証しの生活を送る姿を見せると、伝道者も嬉しいし、その喜びは信徒にも伝染します。
 
おわりに
 
 
・呟かず、疑わず、感謝と信頼の心を基本としよう:
呟かず、疑わず、とは難しいことではありません。感謝と信頼で私達の心と言葉と言動を満たしましょう。

・曲がった世にあって「聖さ」を輝かせよう:
主は、私達のともしびを枡の下に置かないで、高く掲げなさいとおっしゃり、そして、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)と命じなさいました。今週、誰かが、キリストの光を必要としています。隠さないで、照らしましょう。
 
お祈りを致します。