礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年8月30日
 
「キリストのために命を賭ける」
ピリピ書連講(13)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙2章25-30節
 
 
[中心聖句]
 
  30   彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。
(ピリピ2章30節)

 
聖書テキスト
 
 
25 私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
「29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。」
 
はじめに
 
 
先週は、この手紙の運び人であり、パウロの右腕であるテモテについて、その献身ぶりを学びました。利己的な動機で主に仕える人は多い中で、純粋な献身の心をもって主に仕え、指導者に従い、教会を愛したのがテモテです。

今日は、その手紙の共同運び人であるエパフロデトという人物を学びます。
 
1.エパフロデトの名前とタイトル (25節)
 
 
「私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは・・・」
 
・ピリピのイケメン男:
「エパフロデト」という名前は、ギリシャ神話のアフロディトという美と愛の女神に因んだ名前です。アフロディトは、ローマ神話ではヴィーナスのことです。神話によると、アプロディテは、海の泡から生まれ、キプロス島に降り立ったとされています。さて、このエパフロデトは、生まれたとき女の子のように優しく、天使のようにきれいな赤ちゃんだったと思われます。両親は「これはヴィーナスのように美しく可愛い」とばかりに、男の子なのに「アフロディトに因んでエバフロデト」と名づけたのでしょう。日本で言えば、二枚目男、優男(やさおとこ)といった感じでしょうか。

・「私の兄弟、同労者、戦友」:
エパフロデトは、パウロからこのタイトルで呼ばれた唯一の人物です。「兄弟」とは主にある親しさの現れでしょう。「同労者」とは、一緒に福音伝道のために労した仲間でしょう。「戦友」とは、生死を隔てたような戦いのときに危険を顧みず助け合う戦争中の仲間でしょう。「私の窮乏のときに仕えてくれた使者」とは、ピリピ教会の代表として、真実な思いをもって、パウロの世話をしてくれたことを示します。エパフロデトはパウロにとって、このような人でした。
 
2.ピリピ教会のお使いとしてローマへ(4:18)[絵図A]
 
 
・「パウロを慰問しよう」計画:
このエパフロデトはピリピ教会のメンバーでした。ピリピ教会を10年前に開拓したパウロが、囚われの身となってローマに滞在していることを聞いたピリピ教会の信徒たちは、慰問物資と献金を集めてローマのパウロに送りたいと計画しました。優しい思いやりですね。

・エパフロデトが使者に:
そのお使いに選ばれたのがエパフロデトでした。多分若くて元気があったからなのでしょう。4:18を見ると、その事情が分かります。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」パウロは、エパフロデトが携えてきた贈り物とその背後にあるピリピ教会の人々の愛によって本当に励まされました。それは、神への供え物にひとしいとまで、感激しました。
 
3.エパフロデトの奉仕と病気 (27,30節) [絵図B]
 
 
「ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりました・・・なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。」
 
・パウロのお手伝いボランティア:
エパフロデトは、贈り物を届けたら、その使命は終わったわけですから、それでさよならしても良かったのです。しかし、彼は、幽囚の身にありながら、命がけで伝道しているパウロの姿を見て、何とか助けたいと思いました。彼は、ピリピ教会の人々が居たならば当然に果たすであろうそのような奉仕を、みんなに代わって果たそうと決意しました。それは全く自発的な居残りの奉仕でして、パウロに頼まれたのではありません。勿論直接的には、パウロを助ける奉仕でしたが、それは究極的には「キリストの仕事のため」でした。私達が、目に見える指導者に従う時にも、その人に仕えることが目的ではなく、キリストに仕えるという思いをもって、仕えたいものです。

・どんなお手伝い?:
エパフロデトは、具体的にどんなことをしたのでしょうか。これは、想像する以外はにないのですが、多分、軟禁状態で動けないパウロに代わって、あちこちに伝令的な奉仕をしたり、或いは、不自由なパウロのために、掃除・洗濯・炊事などの家事一般をまめまめしく行ったと思われます。パウロは、もういいよ、その辺で止めておきなさいと言ったのに、エパフロデトは、いやもう少しもう少しと、自分の限度を超えて働いてしまって病気になったのでしょうか。聖書は私達に常識を破ることを勧めてはいませんが、エパフロデトの場合には、熱心のあまり、働きすぎをしてしまったのでしょう。

・命がけで、キリストのために:
彼が死ぬほどの病気に罹ったその理由が30節に説明されています。それは、彼が「キリストの仕事のためにその命を賭けた」からです。この「いのちを賭ける」(パラブウリュウオー)とは、身を曝す、とか冒険をするという意味で、賭け事に使われる動詞です。大きなお金をあるゲームに賭けて、勝てば大きなお金を獲得し、負ければ全部失うという危険を敢えて冒すのが賭け事です。そのように、エパフロデトは、主の奉仕のために、身を危険に曝した、という意味です。この命がけの奉仕は、伝染病が流行っている時に、感染を恐れずにその患者さんを診るお医者さん、看護師さんに譬えられます。エパフロデトは、魂の救いのため、立て上げのため、パウロと同じ心になって、命を曝しました。彼はどうして命を賭けられたのでしょうか。恐らく、命がけで私達のために救いを成し遂げてくださったキリストの愛への応答だったのでしょう。「今こそ、キリストの愛にこたえて、いのちを、すべてを捧げよう」という歌があります。エパフロデトの心を表した歌と思います。

・死ぬほどの病気:
そのような献身的な奉仕のゆえに彼は死ぬほどの病気になってしまいました。どんな病気だったかは分かりません。
 
4.病気が起した心配(26-27節)
 
 
「彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。・・・彼ばかりでなく私をもあわれんで・・・」
 
・エパフロデトは、ピリピ教会の心配を心配する:
エパフロデトその瀕死の状態の中で心配したのは、自分の命のことではなく、自分の病気がピリピ教会のみなさんの心配となったことを心配しています。普通病気になると、自分のことしか考えられなくなるものです。痛い、苦しい、食欲がない、力が出ない、もし死んだらどうしよう、などと自分のことで頭が一杯になるものです。しかし、エパフロデトの関心は自分のことではなく、自分の病の事を聞いて心配している人々のことでした。心優しい男ですね。27節で「気にしている」と訳されていますが、「苦悩している」と言うのが正確です。この「アデーモス」とは、主イエスがゲッセマネで苦悩されたときに使われた同じ言葉だからです。エパフロデトは、自分のことよりも、母教会のあの人が、この人が私のために祈ってくださっている、心配していてくださる、そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになるのでした。

・パウロは、エパフロデトのことを心配する:
パウロもエパフロデトのために心配しました。27節に「彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。」と言っているのは、パウロがいかに心配してお祈りしたか、エパフロデトの病を憂いと感じたかを示します。エパフロデトが、自分の奉仕を助けてもらっている最中で病気になり、しかも死んでしまったとしたら、ピリピ教会の人々に申し訳が立ちません。ちょうどそれは、川で溺れた子供を助けようと飛び込んだお父さんが溺れて死に、子供だけ助かったという痛ましい事故と似ています。エパフロデトの癒しを我が事のように祈ったのは当然です。

・ピリピ教会もエパフロデトのことを心配する:
さらに、エパフロデトの病気はピリピ教会にとっても悲しみでした。エパフロデトが死んでしまえば、送り出した教会にとっても、大きなショックとなったことでしょう。中には、パウロを批判する人が生まれないとも限りません。そうなれば一層悲しい事態です。
 
5.神の憐れみ(27節)
 
 
「ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。」
 
・憂いの上の憂いを重ねなさらぬ神:
人生に憂いはあります。避けては通れません。しかし、神はその憐れみのゆえに、憂いに憂いを重ねなさることはありません。この場合、第一の憂いとは、エパフロデトの病気です。第二があるとすれば、彼の死です。しかし神は、sorrow upon sorrowを許しなさらない方です。波の上に波がかぶさってくるようなことはない、という意味です。主は憐れみ深いお方です。神は私達が負い難いほどの試練には遭わせなさいません。それが憐れみです。Tコリント10:13「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」主は、私達の真実な祈りと叫びにも耳を傾け給います。それも憐れみです。パウロは、エパフロデトのために大いに心配し、憂いました。神はその祈りに答えてくださいます。私達も誰かの病気のために、受験のために、家族の救いのために心を痛めていませんか。神はその心の痛みを憐れんでくださいます。
 
6.エパフロデトを戻す(25,28-29節)
 
 
「エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。・・・そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい」
 
エパフロデトが完全に回復したところで、一刻も早くパウロは彼をピリピに送り返し、彼らの心配を取り除きたいと思いました。28節に大急ぎで、と言うのは、その意味です。彼を送る意味は三つあります。

・ピリピ教会の喜びのため:
エパフロデトを迎えることは、彼らの大いなる喜びとなるでしょう。それだけ彼らは、エパフロデトを一つからだの肢として共に痛み、祈ったからです。

・パウロの安心のため:
パウロが、病のエパフロデトをいつまでも酷使している、直っても自分の便利のために用いている、という余分な非難を防ぐためでもありました。

・エパフロデトへの尊敬のため:
ピリピ教会の人々が、このエパフロデトの献身ぶりに尊敬を払い、それに見習って欲しいという願いのためでもありました。
 
おわりに
 
 
・主のために燃えよう:
主のご奉仕ために体を壊すことは、決して誉められたことではありませんが、でも、私達のためにいのちを捨ててくださった主に、私達のいのちを捧げるほどまでに燃えているのは素晴らしいことです。また、主のご愛に応答する自然な行動でもあります。私達は、そのような情熱をもって主に仕えているでしょうか。

・憐れみの神を信じよう:
仮に、私達が憂いとなる課題や状況を抱えたとしても、主は、その憂いに憂いを重ねなさらないお方です。主の憐れみを信じましょう。
 
お祈りを致します。