礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年9月6日
 
「キリストを知るすばらしさ」
ピリピ書連講(14)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙3章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  8   私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
(ピリピ3章8節)

 
聖書テキスト
 
 
1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
 
はじめに
 
 
先週は、この手紙の運び人であるエパフロデトとから、「キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになった」(ピリピ2:30)という命がけの人物像を学びました。3章に入ると、ピリピ教会に入り込んできた律法主義者への警戒を扱います。その中にもパウロ自身の素晴らしい証しのトーンが溢れています。
 
1.喜びなさい (1節)
 
 
「最後に、私の兄弟達。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。」
 
・喜びが鍵:
手紙を締めくくろうとしたパウロは、今まで繰り返した「喜べ」という勧めをもう一度思い出させます。実際、3章の始めは、手紙の半ばだったのですが、ここで終わろうとしたのかも知れません。「最後に」と言いながら、これから佳境に入る説教者もいますから、これは大伝道者に共通した癖なのかもしれません。ともかく、喜びはピリピ書のキーワードです。4つの章で実に17回も繰り返されているのです。

・喜びは安全:
「主にある喜び」は、あらゆる迫害、危険、誤りに対してのワクチンのようなものです。私達の心が喜びに満たされている限り、サタンは手出しが出来ません。今、新型インフルエンザの流行が始まり、ワクチンの供給が問題になっています。このワクチンは間に合わないかもしれませんが、クリスチャンには「喜び」というワクチンが与えられています。実際、笑ったり、喜んだりする人は、免疫力が増加するそうですね。七面倒な議論は充分です。常に喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝しようではありませんか。
 
2.割礼主義者への警戒(2-3節)
 
 
「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」
 
・要注意の人々:
ヨーロッパ社会で伝道を続けていたパウロを悩ましていたのは、ユダヤ人の割礼主義者でした。パウロが福音を伝え、人々が単純に信じて救われていたところに、この人々が入り込んできて、「信じただけではいけない。割礼を受け、旧約聖書の律法をキッチリ守らなければ天国に行けない」というまことしやかな教えで新しいクリスチャン達を惑わしていました。ピリピのユダヤ人々口は僅かだったのですが、ここにもユダヤ主義者が入り込んできたようです。パウロはここで「犬」、「悪い(動機を持った)働き人」、「肉体だけの割礼の者」(いずれも複数)と三つの名前を挙げていますが、別々の人々ではなく、同じ「割礼主義者」の違った表現です。

・「犬」について:
今日、「犬死」とか「羊頭狗肉」とか、犬を蔑称として使うと、多くの人々から袋叩きに遭います。「犬のエサ」などいう言葉は死語となりました。人間様より遥かに厚遇を受けた犬様が多いからです。しかし、聖書時代の犬は、相当悪いイメージを持っていました。ウェスレアン注解は「ユダヤ人は、犬を動物王国の底辺にある生き物と見なしていた。」と記しています。悪の権化であったイゼベル女王の死肉をあさったのも犬でした。ペテロは「犬は自分の吐いたものを食べる」(Uペテロ2:22)とまで記しています。いずれにせよ、パウロの伝道の実を追いかけて、潰して歩くしつこい割礼主義者を(当時の考え方に習って)犬と称したのは驚くに当たりません。今日で言えば、ハイエナといった方がピッタリくるでしょうか。この人々は、内側の信仰よりも、外側の律法遵守を重んじ、外側に見える宗教を誇ったのです。

・霊的な礼拝者:
この割礼主義者に対してパウロは、自分を含む「福音主義者」を「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」ものと表現します。「御霊による礼拝」は、サマリヤの女に語られた主イエスの言葉を思い出させます(ヨハネ4:24)。神の喜ばれる礼拝者とは、民族とか服装とか行いという外側の相応しさではなく、その内側に純粋で単純な信仰を持った者たちのことです。この人々は、真の意味で「心の割礼を受けたもの」です。エレミヤも「心の割礼」と言っていますが、それは真実な悔い改めの結果としてのきよめのことです(エレミヤ4:4)。
 
3.パウロが持っていた「誇り」(4-6節)
 
 
「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」
 
外側の美しさで誇ろうとする割礼主義者に対して、パウロは啖呵を切ります。そんなに外側の美しさを事挙げするならば、私のことも誇ってみようではないか、という具合です。3節、4節に「頼む」という言葉が繰り返されています。これは、「確信に立つ」という意味です。人間的なものを確信の根拠にするのではない、もしそうするならば、私は幾つもポイントを挙げられますよ、と言って、パウロは7つのポイントを挙げています

・八日目の割礼:
正統的なユダヤ人であれば、男の赤ちゃんは、生まれてから8日目に割礼を受けることになっています。パウロは、自分は正統的なユダヤ人だと言っているのです。

・イスラエル民族:
神に選ばれた民という意味です。

・ベニヤミン族:
イスラエル初代の王様はベニヤミン族出身です。しかも、名前はサウル、パウロのユダヤ名と同じ人物です。ベニヤミン族は、イスラエルが南北に分かれたとき、南のダビデ王朝の側に立ちました。捕囚から帰還した多数はベニヤミン族でした。パウロは自分の部族を誇ることが出来ました。

・きっすいのヘブル人:
文字通りには「ユダヤ人の中のユダヤ人」です。捕囚によって混血が増えたユダヤ人の中で、彼の家系は「混じりけのない」ユダヤ人でした。ユダヤ人は、非常に家系を重んじていました。だからこそ、世界中に散ってもそのアイデンティティを何千年にも亘って確保できたのです。彼の生まれも育ちも、タルソ市というギリシャ社会でしたが、彼の両親はサウロをギリシャ文化人としてでなく、ユダヤ人として育てました。ですから、彼は、イスラエルにいるユダヤ人よりももっとユダヤ的でした。私達の奉仕しておりましたケニアには、多くのインド人がおります。彼らはそのアイデンティティ確保のために、インドのインド人よりさらに熱心にヒンズー教やイスラム教の伝統を守ろうとしています。ですから、パウロが自分はユダヤ人の中のユダヤ人と言った気持ちが分かります。

・パリサイ人:
ユダヤ人の中でも、一番厳格に律法とそれに付随する規則をしっかり守った超真面目グループをパリサイ人といいました。ローマ支配のもとで、世俗的な流れがユダヤ人を覆い始めたとき、このパリサイ人が防波堤になりました。もともと、パリサイとは、清める、離別するという言葉から来ています。彼らこそ、ユダヤ教内部の「きよめ派」でした。

・教会を迫害するほどの熱心:
十字架につけられた人間を救い主と仰ぐクリスチャンは、パリサイ人パウロ(サウロ)から見れば、愚かで、邪教の輩で、滅ぼすべき対象でした。実際、彼は気が狂ったように教会を迫害するのですが、それは、主観的に言えば正義感に基づく熱心から来たものだったのです。サウロは、生ぬるい迫害ではなく、クリスチャンを根絶する意気込みで教会を荒らし、その運動のトップリーダーでした。つまり、学者的なパリサイ人であっただけでなく、戦闘的パリサイ人だったのです。

・完璧な律法遵守:
(少なくとも外面的には)神の律法を落ち度なく行ったという誇りをサウロは持っていました。サウロは、長ずるに従って、彼はユダヤ教の総本山であるエルサレムに行き、ユダヤ教の最高学府であるガマリエル門下に入り、律法を深く学び、実行しました。

パウロは、これらを誇るために言っているのではなく、「誇ろうと思えば誇れるのだよ」と余裕を持って言っているのです。本当に言いたいのは7節以下です。
 
4.キリストによる価値観の大転換(7−10節)
 
 
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
 
・誇りは色褪せる:
パウロは、このような誇りを、「なんと詰まらないことを自慢していたのだろう。実に恥ずかしい」と思うようになりました。それらは、神の救いのために何の役にも立たないばかりか、却って単純な信仰のためには妨げにさえなるということを悟ったのです。7節に「損と思うようになりました」と言っています。貸借対照表の借り方と貸し方をひっくり返すようなものです。文法上のことを言うようですが、「得であったこのようなもの」は複数で、「損」は単数です。いくつか数えれば数えられ得た貸し方を一緒くたにしてゴミ箱に棄てたのです。8節ではそれを繰り返し、「いっさいのことを損と思っています」といいます。追い討ちをかけるように「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と言い切っています。「ちりあくた」というのは、スクバロン(文字通りには、犬に投げ与えるようなもの)でありまして、価値なきもの、残り物、(後代には糞尿の意味でも使われました)ということです。人間的に見れば豊かな背景を、パウロは敢えて「損」と勘定し、「ちりあくた」として捨てたのは、それら自体が悪かったからでもなく、また、良い環境を引け目と感じる自虐的なものでもなく、ただ、キリストを知る知識の素晴らしさに圧倒されたからです。キリストの素晴らしさの内容は二つの要素を持っています。

・信仰による義:
これは、自分は正しい、正しさは自分が確保できるという「律法による自分の義」、つまり、善行の積み重ねによる救いではなく、信仰による救いを得ることの幸いを語っています。それを齎したのがキリストです。これにはやや説明が要ります。真面目さにおいては人後に落ちなかったサウロですが、それはあくまで外面的なことであって、その内面は惨憺たるものでした。ローマ書7章に、その葛藤が告白されています。「自分のしたいことが出来ない、却ってしたくない罪を犯してしまう。ああ、私はなんと惨めな人間であろうか。」(15、24節)、と。これが真面目人間の真の姿です。キリストの十字架は、そのようなホープレスな人間の闇と絶望を全部背負って、それを終わりにしてくださいましたす。信仰とは、キリストによって成し遂げられた救いを、ありがとうございました、と言って単純に受け取る行為のことです。それ以外に救われる道はありません。この福音の素晴らしさを知ったパウロは、自分が過去に背負ってきた功績、背景、血筋などと言うものはnothingである、と深く自覚しました。今日でも、もし私達が、救いに関してキリストの贖い以外のものに頼ろうとするならば、それはキリストの福音からの逸脱です。善行であれ、真面目な努力であれ、ガンバリズムであれ、単純な信仰のみによって救われるという原理に何かを挟み込むことは、福音理解を歪めてしまいます。もう一度、「信仰のみ」という福音の大原則に立ちたいものです。

・復活の力:
十字架に掛かられた主は、三日後に甦り、今も活きて私達と共にあり、私達を執り成しておられます。パウロは、そのお方の復活に与りたい、という切なる願いを持っていました。復活に与るというのは、現在的側面と、終末的側面を持っています。現在的側面とは、キリストのための苦しみを味わうことによって、キリストを活かしたその復活の力を経験することです。この苦しみは贖罪的苦しみではなく、教会のための苦しみです。終末的側面とは、パウロ自身の復活によって主と同じ姿に変えられることです。これは、人間の救いの最終段階です。この望みがパウロを衝き動かしていた大きなエネルギーでした。この活けるキリストの事実は、パウロに対してであれ、21世紀のクリスチャンに対してであれ、全く変わりません。
 
おわりに:主を知る知識を深めよう(Uペテロ3:18)
 
 
キリストの知識とは、単なる頭の知識ではありません。先ず、このお方を救い主として受け入れる人格的コミットメントから、その知識が始まります。それから、みことばの学びを通して、キリストについてより深く知ることが出来ます。キリストに日ごとにより頼み、明け渡し、物語る人格的関係を通して、その知識は深まります。今年の標語として、「キリストを知る知識に進むように」と申し上げました。今週も、より一層キリストを知る知識に増加する週でありますように。
 
お祈りを致します。