礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年9月13日
 
「ひたむきに前進!」
ピリピ書連講(15)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙3章7-16節
 
 
[中心聖句]
 
  13,14   兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
(ピリピ3章13-14節)

 
聖書テキスト
 
 
7 しかし、私にとって得であったこのようなものを皆、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを塵芥と思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
 
はじめに:「前向き人生」のパウロ
 
 
先週は、キリストにある価値観の大転換を経験したパウロの姿を学びました。主を知る知識の素晴らしさに比べて、他の物はみんな色褪せて見えるという告白です。「キリストを知る知識を深めよう」(Uペテロ3:18)というチャレンジで終わりました。 今日は、その告白の続きですが、敢えて「前向きの人生」という角度から学びます。

2,3年前に天に召された山崎長文先生にお尋ねしたことがあります。「先生、90歳までお元気でいられる秘密は何ですか?」先生はしばらく考えた後こう言われました、「そうですね。何でも物事を前向きに考えるからでしょうか。」と。90を過ぎても「前向きに」人生を送るって本当に素晴しいと思いました。カメレオンの目は横向きですが、人間の目は前向きに作られています。前向きに生きて行くときだけ、人間らしいのです。パウロは前向きの人生を送っていました。働きにおいては「地の果てまでの福音の宣証」という大きな人生テーマを持って力を尽くしました(ローマ15:19―24)。内においては「もっとキリストを知ること」を目標に走り続けた人物です。パウロはスポーツ大好き人間だったようで、当時人々に人気のあったオリンピックの譬えを色々なところで用いています。ここでは2百メートル位の短距離レースをイメージしながら、それに自分の生き方をなぞらえています。
 
A.レースの目標(7-11節) <イラスト参照>
 
 

パウロは、自分のレースの目標は、「もっとキリストを知ること」だといっています(8節)。パウロは、キリストを充分知っていた筈です。しかしもっともっと知るべき分野がある、と感じていました。それほどキリストを知ることは奥が深い、究めきれないものなのです。敢えてそれを分析すると、

1)キリストの義が分け与えられる(9節)=ただ義と見なされる、というだけでなく、神の正しさを自分の性質として分け持つことです。

2)苦難を通して復活の力を頂く(10節)=Uコリント4:10−11は、極限状況の苦しみの中で、自分の肉体を通して神の力が発揮されることと解説しています。

3)最終的な復活に与る(11節)=それは、キリストに似たものとして完成されることです(Uコリント3:18)。

この3点については、先週学びましたので、これ以上詳しくお話しません。
 
B.レースの走り方(12-14節)
 
 
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
 
・前向きにストレッチ:
パウロは自分をオリンピックのランナーに譬えています。それが「追求している(猟犬が獲物をしつこく追い続けるように)」「ただ、この一事に励んでいます」「ひたむきに前のものに向かって進み(エペクテイノー=前方にストレッチする)」「目標を目ざして一心に走っている」という表現に表れています。ランナーが、少しでも体を前に突き出して、0.01秒でも早くゴールを切りたいと頑張るように、パウロもゴールを目指して、ひたむきに走り、身を捩るように自分を前に突き出しているのだ、というのです。実に前向きです。後ろを振り返りません。振り返ったら、他の人に抜かれてしまいます。もう獲得したと満足もしていません。そうしたら、前に進む意欲がなくなります。もう一度 <イラストを見てください>

・「未だ獲得していない」:
この文節の中の「〇〇でない」というような否定的表現に注目したいと思います。「すでに(新生の経験に触れて)得た(アオリスト)のでもなく、すでに(現在的経験に触れて)完全にされている(現在完了受身)のでもない」「自分はすでに捕えたなどと考えてはいません」・・・。これらによって示される彼の思いは何でしょう。彼はこれまでのクリスチャン生活で何にも得ていなかったのでしょうか。何にも捕らえていなかったのでしょうか。そうではないと思います。彼はキリストの救いを得ていました。聖霊に満たされる経験を得ていました。私を強くしてくださることによってなんでも出来るという確信も持っていました。貧しい道も富む道にも満足する秘訣も得ていました。それなのになぜ、得ていない、捕らえていないと思ったのでしょう。

・飽くなき求道心:
それは、最終ゴールである栄冠を得ていないという意味です。キリストの復活に綾かって死者の中から復活するという高い目的を示しています。これは、パウロがピリピ人に向かって「自分の救いを完成しなさい」(2:12)で勧めていることを背景にしています。救いの完成とは、「この罪深き、しかも、価値のない人間が、栄光あるキリストの心を頂くこと」です。「ピリピのクリスチャンよ、救いの達成に努めなさい。私も未だそれを達成していませんから、努めていますよ。」と言っているのです。パウロの中にあった飽くなき求道心がこれを言わせたのでしょう。今まで経験した主イエス様との交わりも素晴らしかったが、もっとイエス様と近くありたい、今までもイエス様の愛を知らせていただいたが、いやもっと奥深さがあるに違いない、今までも、主は自分の心を変えてくださったが、もっとイエス様に近いものと作り変えていただきたい、という燃える思いを持っていたのでしょう。パウロには叱られるかもしれませんが、先週大リーグ2千本安打を超えたイチローさんのことと重なってきます。彼を見ると、野球道の修行僧という感じがします。決して自分の到達点に満足することなく、次々と目標を上に据えて黙々と自分の体を作っていく、そんなストイックな感じがパウロと似ているように思います。パウロのような素晴らしい聖徒でさえ、自分は完全ではない、得ていない、捕らえていない、というのでしたなら、まして、平凡な私達が少しの進歩や経験をとおして、私はダイジョウブと思うのは、大変おこがましいと思います。彼の謙りに学びたいと思います。

・後ろのものを忘れて:
さて、パウロに戻ります。彼はキリストに出会った素晴らしい体験を忘れていませんでした。その後に注がれたすべての恵みも忘れていませんでした。しかし、ここで敢えて「うしろのものを忘れて」前進する、と言っているのは何故でしょうか。恐らく、過去の恵みの体験すらも化石化しうる危険を感じたからではないでしょうか。長いクリスチャン生活を送った人々は、ともすると、あの時は良かった、あの時は熱心に伝道した、あの時は熱心に祈った、あのときの仲間は良かったという風にすべて過去形の表現をします。現在は落ち着いてしまって、後は天のお召しを待つだけだ、と前進停止の信仰になりがちです。私もそんな年になりましたが、パウロに倣って、後ろのものを忘れ、フレッシュに、前向きに進みたいと思います。

・恵みと努力の関係:
一生懸命汗を流しながら頑張っているパウロを見て、そのパウロが恵みによって救われると言っているのは矛盾ではないかと感じる人も居るかもしれません。人間が救いのためには何事もなしえない、人の救いは難行苦行、奮励克己によるものでない、というのは福音の大原則です。それをパウロは決して否定していません。それでは、なぜ救われたパウロがもっとリラックスしないのでしょうか。パウロはこういう返事をするでしょう。「私は救いを得るための奮闘努力をしているのではなく、もっとイエス様を知りたいという一歩上を目指して戦っているのだ。そしてその奮闘努力も恵みの賜物なのだ。なぜなら、私が勝手にゴール設定をして走り始めているのではなく、主がゴールを定めてくださった。しかも主が私をそのレースに引き込んでくださったのだ。」と。
 
C.レース出場の資格(15-16節) <イラストを再び参照>
 
 
「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」
 
・走るのはパウロだけではない:
パウロは14節までを自分の証し・告白として述べています。そう聞くと、ああ、パウロという偉大な人物が一生懸命頑張っているな、それは偉い。しかし、彼は彼、私は私だ。私はゆっくり行くよ。」パウロと私とを切り離して考えてしまう人も居るでしょう。パウロはそれを察して、皆さんも私に倣って走ってください、と語るのです。

・成人(完全なもの)が走る:
そのランニングの資格は、「成人であるもの」です。原語はテレイオス(完全な)です。12節で「完全にされていない」(テテレイオーマイ)と言っていますが、原語は共通です。一方で「完全にされているのではない」と言い、他方「完全なものは」と言っているのは矛盾です。それを解決するために、翻訳者は、一方に「完全」という言葉、他方に「成人」を嵌めたのですが、私は両方「完全」で良かったのではと思います。つまり、12節の完全は、品性が全くキリストと同化するという意味での完全です。15節の完全は、その目標に向かってレースを走るものの資格としての完全です。ベンゲルという注釈者は、「15節の『完全である」とは、レースへの備えが出来た状況を指し、『完全にされる』とは、レースを終えて冠を頂いた状況を指す」と言っています。この意味での完全は、1コリント14:20に出てくる幼子のクリスチャンとの対比でも明らかです。オリンピックに譬えましょう。どんな人でも100メートルに出られるわけではありません。標準記録を突破し、国の代表に選ばれ、しかも、オリンピック委員会が定めた服装をちゃんと着て、違反のないような靴を履かなければなりません。それが完全な資格です。クリスチャンに譬えると、キリストを主と受け入れたこと、このお方にすべてを捧げて明け渡すこと、私のすべてがキリストのものとなること、これが成長の始まりです。でもそれは飽くまでも始まりであって、終わりではありません。キリストのものとなった人は、より一層キリストらしい品性を頂こうと走り始めることでしょう。ランナーが走る資格を持っていることと、ゴールで栄冠を勝ち取ることが同じでないように。私達は救いときよめによって、走る資格を持ちます。次は良き走りを行って、最後の栄冠を勝ち取ることです。皆で目当てを指して進みましょう。
 
おわりに:人生の目標を考えよう
 
 
私達はみんな、ロンドンオリンピックで100メートルに出るよりも、マラソンに出るよりも、遥かに価値あるすばらしいレースの真ん中にあります。イエス様がこのレースに呼んでくださり、準備をしてくださいました。そのゴールをしっかり捉えましたか。もし、私達がとんでもない方向にゴール設定をしていますなら、主は違うよ、と示してくださいます。丁度カーナビが目的地をピンポイントで示し、そこに誤りなく導いてくれるように。(とは言っても、カーナビ自体が目的地をとらえ損なって、ぐる来る周りをさせられる、という経験がなくはありませんが・・・)さて、ゴールが決まったなら、それに向かって進んでいるでしょうか。進むのは個人的な歩みとしてだけではありません。みんなでゴールを目指して走り出しましょう。励ましあって、前進しましょう。
 
お祈りを致します。