礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2009年9月20日
 
「三百年、神とともに」
愛老聖日・謝恩日聖日に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
創世記5章18-24節
 
 
[中心聖句]
 
  22   エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。
(創世記5章22節)

 
聖書テキスト
 
 
18 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。19 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。20 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。23 エノクの一生は三百六十五年であった。24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
 
始めに
 
 
愛老会員の皆さん、良くお出でくださいました。暑かった季節を超え、爽やかな秋の日に、こうして共に集うことが出来たことは、大きな主の恵みです。第一種会員名簿によれば、愛老会員は男子33名、女子80名(内、今年70歳となった「新愛老会員は、男子3名、女子6名)計113名です。全体の会員が420名ですから、4人に1人は愛老会員と言うことになります。皆さんが尚お元気で、祈りをもって、また、輝いた証しをもって教会を支えてくださるようお願いいたします。

今日は、創世記から、一生涯輝き続けたエノクに焦点を当てて、共に考えたいと思います。
 
1.エノクについて
 
 
・エノクという名前は「従うもの、教えられたもの」という意味です。

・父祖アダムから数えて7代目の人物で、父はエレデです。

・エノクの前後の父祖たちは、ただ名前だけが紹介されているのに、このエノクは、「神と共に歩んだ」ことが二度も繰り返されています(22,23節)。エノクの特色の最たるものは、他の人々が「死んだ」という言葉でその生涯の記録がとじられているのに対して、彼の生涯は「いなくなった」という表現で終わっていることです。つまり、彼は、死を見ることなく、そのまま天に上げられました。聖書で、死を見ずに天に召された人物として記されているのは、エノクのほかにはエリヤだけです。
 
2.神と共に歩み始めた時
 
 
・「メトシェラを生んで後」:
そんな素晴らしい生涯を送ったエノクでしたが、どうも最初から素晴らしかったわけではなさそうです。というのは、22節に、「メトシェラを生んで後、・・・神と共に歩んだ」記されているからです。それでは、それ以前のエノクの六五年の生活はどうだったのでしょうか。聖書が、わざわざ「あるときから歩んだ」と言っているのは、理由があると思われます。つまり、それ以前は、ちゃんとした生き方をしていなかったことを示唆しています。

・悪のはびこっていた時代:
エノクの時代は、ノアの時代と重なるわけですから、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記6:11)というノアの時代の描写がそのまま当て嵌まる雰囲気でした。エノクも、当時の若者の文化に染まって、主に喜ばれない生活をしていたものと思われます。

・「回心」:
若気の至りの生活を送っていたエノクは、自分の子供が生まれたというところで愕然と責任意識に目覚め、主を求め、主に従う生涯に転換したのではないかと思われます。人間が親となるというのは厳粛な瞬間です。この頑是無い幼子が、私を頼りに生きていく、私を見習って生きていく、とすれば、こんないい加減な生き方で良いのだろうかと思うのが普通でしょうね。ともかく、エノクは今までの生き方を転換して、曾祖父の曽祖父の父であるアダムが最初は神を畏れて生きていたという、その神を畏れて生きていこうと決心したのです。今日の言葉で言えば、これが彼の回心であったように思います。
 
3.神と共に歩んだ三百年
 
 
「神と共に歩んだ」という短い表現の中に含まれている豊かな意味合いについてポイント的に述べたいと思います。

・豊かなデボーション:
神と共に歩むとは、神と共に過ごす濃密な時間を持つことでしょう。私達は誰かと共に歩む時、必ず会話を致します。エノクは、神と共に過ごす時間を、神と物語しながら楽しく過ごしていたことでしょう。朝早く、皆が未だ寝静まっている頃、主イエスが早起きして、静かな場所を探して祈られたように、エノクも祈ったことでしょうか。或いは、夕暮れ時、一日の仕事を終えて一休みするその時、村はずれの見晴らしの良い一角に、形の良い石の上に座って、沈み行く夕日を眺めながら一日の感謝を捧げたことでしょうか。エノクはその時に主と楽しく物語り、聖なるご臨在に触れたことでしょう。それは、彼にとって正に至福の時でした。村人たちも、煙ったい爺さんだとは思いつつも、その神々しい光景に畏敬の念を持っていたことでしょう。私達のデボーションも、こうありたいものですね。

・熱心な証し:
エノクは、単に孤独な人生を神と物語りつつ送っただけではなく、そこで与えられた神の知識を他の人々に伝える生涯を送ったことでしょう。何故そんなことが想像できるのでしょうか。それは、彼の曾孫であるノアが「義の宣伝者」(Uペテロ2:5)と呼ばれているからです。ノアはエノクの生涯について聞かされていました。尊敬すべき曽祖父も義の宣伝者であったことを想像することは、無理ではありません。ノアと同じように、人々は彼の説教を聴かず、無視したり、嘲笑したりしたことでしょう。しかし、エノクはめげずに、神の力と恵みとを人々に語り伝えました。BC1世紀頃記された「エノク書」という外典がありますが、そこでも、人々の悪を譴責する伝道者としてのエノクを描いています。さて、私達にとって長い人生の意味は何処にあるのでしょうか。ただ長いだけでしたら、メトシェラ的人生です。彼は969歳という長生きの記録保持者ですが、長いだけで中身はありませんでした。長い長いマカロニみたいなものです。長いだけで中は空っぽです。私達が長生きしているのは意味があります。それは、エノクと同じように、神の素晴らしさを人々に伝えることです。私達の言葉、仕草、行動の一つ一つを通して、神様がどんなに素晴らしいお方であるかを周りの人々に伝えることが私達の生きている意味です。元気な時も、病気の時も、クリスチャンとなるという事は素晴らしいことだという証しを立てたいと思います。

・神に従う生き方:
神と共に歩む、ということをヘブル書記者は「神に喜ばれていること」(ヘブル11:5)と説明しています。神と共に歩みつつ、自分勝手な方向に歩むなどということはありえません。人間同士でも、一緒に歩くという事は、相手のペースや方向に合わせることです。エノクは、神の御心を知った時に、自分の道を主張しないで、御心に従いました。それを神は喜びなさいました。預言者ミカは、神とともに歩むことは、謙って神に従うことであり、それこそが神の御心に適った人生であることを示しています。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

・魅力的な品性:
神によって造りかえられた品性が多くの人々の魅力となりました。エノクの「神と共なる歩み」は、誰が見ても明らかな輝きと証しを印象付けるものでありました。確かにエノクの周りの人は、彼を嘲笑し、敬遠し、或いはその生き方を邪魔したかもしれません。しかし、その心の奥底に、エノクの中にあった輝きと品性の穏やかさとは、大きな魅力でありました。その輝きは、そのエノクが、ある日突然居なくなったとき、多くの人々は、彼を捜索するようなことをせず、神がお取りになったのだとすぐに結論付ける理由となりました。ヘブル書を再び参照します。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされて(証明されて、commended, witnessed)いました。」(11:5)彼の美しい品性は、すべての村人に証しされていたのです。村人たちは、遺体の存在しないお葬式で、エノクの人となりを思い出し、その素晴らしい変化を可能にしてくださった主を誉め称えたことでしょう。

・信仰による歩み:
ヘブル書の記者が、彼の歩みは、信仰によるものであると解説しているのは興味深いものです。信仰とは、自らの弱さを100%頷きながら、それゆえにこそ、神の力と助けに頼りつつ歩むことです。エノクは、自分は他の人より清いとか、自分は敬虔であるということをラッパを吹きながら示すのではなく、真に謙って神により頼みつつ進みました。
 
4.神と共に歩んだ生涯の結末
 
 
・神に喜ばれた:
このようなエノクの生涯は、神の側から見れば、大きな勝利でした。罪深い人間が、ここまで清められて歩むことが出来るのだという生きたサンプルだったのです。神はそのことを人々に分かるように示されました。

・直接天に移された:
神のご嘉納を示されたのが、「死を見ないように天に移されたこと」でした。どのようにして移されたのでしょうか。聖書は全く説明していません。エリヤの場合には、エリシャを始め、多くの弟子達がその昇天を目撃しました。しかし、エノクの場合には、恐らく人知れず「いなくなった」ようです。先ほども話しましたように、ある日エノクがいない、と言うことが村中に知れ渡った時、人々は、捜索隊を作ることは一切しないで、「ああ、あの人は神の御許に召されたのだ、それほど、神によろこばれていたからなあ」と口々に語り、それで終わったのです。私達の終わりも、このような形でなかったとしても、このような頷きのある美しいものでありたいと思います。皆さんの終わりが早かれとは言いませんが、私達は、いつ何時お召しがあるか分かりません。それに備えて日々「神とともに歩む」ことで、美しい生き方をしようではありませんか。余分なことかもしれませんが、お召しの時に備えて、「葬儀の備え」を書いておくことも大切でしょう。
 
おわりに
 
 
今日は、「主とともに歩むその楽しさよ」という讃美歌で礼拝を締めくくります。私達は、主とともに歩むことは、こんなにも楽しく、こんなにも素晴らしいんだということを、次の世代の方々に証しするものとなりましょう。
 
お祈りを致します。