礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年10月4日
 
「天国の市民」
ピリピ書連講(16)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙3章17-21節
 
 
[中心聖句]
 
  20   私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
(ピリピ3章20節)

 
聖書テキスト
 
 
17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 
はじめに
 
 
前回は、3:14の「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」という聖句から、「前向きの人生」を続けていたパウロの生き方を学びました。パウロは、自分の生き方を証しした後で、ピリピ教会の人々も、それに倣うものとなるように勧めます。
 
1.パウロに倣うように(17節)
 
 
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」
 
・「キリストを見ならっている」その態度に倣いなさい:
「自分を見本としなさい」というのは、一見、傲慢な言葉に映ります。しかし、ここで「見ならう」という言葉は、「真似をしなさい」という意味です。Tコリント11:1で「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」と言っていますように、究極的には、キリストに倣うことが目標です。でも、自分がキリストに見習っているように、あなたがたも自分に倣いなさいと言える聖なる大胆さは素晴らしいと思います。

・皆で一緒に倣うように:
ここで、新改訳聖書で訳出されていないニュアンスがあります。それは、「共に」という言葉です。つまり、一人ひとりがパウロに倣うというのではなく、皆で一緒に、というのがパウロの願いなのです。皆で一緒にと言っているのは、ピリピ教会に分裂の兆しがあったからです。心を一つにしてパウロの歩みに倣って欲しい、そんな気持ちがこの勧めです。

・「チーム・パウロ」のスピリット:
パウロは、自分だけにスポットライトを与えるのではなく、テモテやエパフロデトのように、同じ心をもって戦っている仲間にもライトを当て、チームパウロのスピリットに倣うようにと勧めます。
 
2.世俗的メンバーを警戒しよう(18-19節)
 
 
「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」
 
・「十字架の敵」:
自分に倣うように、という勧めの後でパウロは、見習ってはならない人々の存在にも焦点を向けます。それは、キリストの十字架の敵として歩んでいる人々のことです。ここで言及されているのは、快楽追求主義者のことです。教会には何時でも、右に道を踏み外す人々と左に踏み外す人々がいました。右とは、何事も決まりをきちんと守って救いを全うしようとする律法主義的な人々です。左とは、決まりなどどうでも良い、好きなことを好きなようにやれば良いのだという快楽主義者です。ここでは後者が扱われています。そのどちらも、キリストの十字架の道を踏み外していることは共通です。これは、教会の外の人のことを言っているのではありません。教会の中にいる世俗的な要素を心配しているのです。彼らは、「己を捨てて十字架を担う」ことを拒絶して、わがままを貫く点で、クリスチャンと言いながら、十字架を否定しています。

・その人々の特徴:
ここで三つ挙げられています。

@食欲が神: 彼らの神は腹(食欲)である、というのが直訳です。欲望のままに活きることが人間らしいとして、実質的には欲望を神(最上のもの)としています。欲望に仕えているのです(ローマ16:18)。

A恥を誇る: 客観的に見ると、とても恥ずかしい行動を取りながら、それを恥じるどころか、それを自慢しさえしています。

B唯物主義: 彼らの思いは地上のことだけ。物質的なこと、この世のことだけです。

・その終わり: パウロは、単純に、彼らの終わりは滅びと宣言します。

・彼らのための重荷: しかし、パウロは、このような世俗マインドの人々を、あんなやつらはダメ人間だと突き放しているのではなく、何とか自分たちの過ちを悟って欲しいと、涙を流して勧告しています。パウロの腸を見る思いです。パウロは、一方では彼らのために祈り、また、悔い改めを祈ってとりなしの祈りを捧げつつ、同時に、彼らから影響を受けないように信徒を守ります。腐ったジャガイモが健康なジャガイモに混じりますと、他のジャガイモを腐らせてしまうように、ピリピ教会のメンバーは、こうした世俗的要素を警戒しなさいと勧められています。
 
3.天国に目を向けて (20-21)
 
 
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
 
・天国市民の自覚を持とう:
このような世俗的要素に惑わされない最上の方法は、彼らを意識し、排除することではなく、私達がしっかりと目をつけるべきところに目をつけることである、とパウロは言います。それは、私達が天国市民であるという所属意識です。ピリピの人々の多くはローマ市民権を持っていましたから、国籍とか市民権という言葉にはとても敏感でした。彼らはローマから遥か彼方に住んでいるのに、ローマ市民権を持ち、ローマに忠誠を誓っていました。同じように、私達も日本国民として、或いは東京都民として、或いは神奈川県民として、それぞれの土地や国に所属意識をもっています。それはそれで大切ですし、クリスチャンとして地域社会に良き証しを立て、地域社会の向上のために汗を流すことは大切です。しかし、同時に、私達の根源的な所属は、それらを超えた天国にあるという自覚を持つことは、さらに大切です。この自覚をもう少し、掘り下げてみましょう。

・地上の国籍を捨てることではない:
天国市民としての生き方を心に持ちながら地域社会の大切な一員として生きることです。私の国籍は天にあるから、地上のことには関わらないと言うのは極端です。パウロは他の場所で、この世の権威を尊重して従うこと、税金を払うことを勧めています(ローマ13:1,7)。21世紀に活きる私達クリスチャンも、この世においてよい証しを立てねばなりません。納税の義務、法律の遵守、選挙の権利と義務の行使、もっと小さく言えば、町内会での掃除や奉仕の義務など、良き市民として証しを建てねばなりません。

・世とは違う価値観をもって生きる:
良き市民であるという事は、すべての行動や思いにおいて、他の人と同じと言うことではありません。違うことにははっきりとノーという勇気も持たねばなりません。具体的には、例えばお祭りの寄付を求められた時、理由を説明してお断りをすることも必要でしょう。そのために、誤解されることがあるかもしれませんが、他の分野で良き隣人であることを証しすれば、理解されることが殆どです。世にあって、世と同化しながら、世と違う価値観をもって生きているのが天国の市民です。丁度主イエスが、この罪深き世に受肉され、しかも、罪に染まらずに生きなさったのが、最大の実例です。

・再臨の主を待ち望む:
「待ち望む」(アペクデコマイ)という言葉は、「他のものから目を離して、熱心に、忍耐強く待ち望む」ことです。私達は、遠い国にいながら母国を懐かしく思い、母国からの使者を待ちわびるように、天から再び来り給う主イエス・キリストをひたすらに待ち望むのです。この箇所に来ると不思議に「竹取物語」が思い出されます。竹の中から取り出されたかぐや姫が、その美しさゆえに世のすべての男性を虜にし、遂には帝に見初められ、帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになります。八月の満月が近付くにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であり、十五日に帰らねばならぬ」というのです。それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送る事となりました。そして当日、空から天人が降りて来て、戦意を喪失した軍勢や翁も嫗を残して、かぐや姫は月へ帰っていきます。なんともカッコいい話です。私達は、かぐや姫様のきれいさは持ち合わせていませんが、私達を迎えるために来り給うキリストを待ち望む点では、かぐや姫に劣りません。

・キリストの似姿への変貌を待ち望む:
もっと素晴らしいことは、弱さに纏われている私達の卑しい姿を変えて、キリストの似姿に変えてくださることです。外側の姿も栄光に満ちたものに変えられますが、それ以上に、内側の品性も、キリストらしさが完成されるのです。それも、万物を従わせるような全能の力(エネルゲイア)をもってです。もう一つ加えますと、それは、いまの生き方と不連続的に起きるのではなく、日ごとに主のみ姿に近づいていく聖化の恵みの延長線上に起きるクライマックスとしての出来事です。Uコリント3:18において、パウロは、その聖化の過程を美しく描写しています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」私達はみな、この線上を進んでいるでしょうか。

・堅固・堅実さの必要:
このような方向性をしっかりと持っているのですから、右にふらふら、左にふらふらする必要も暇もありません。しっかりと天国を目指して、この世の人生を全うしましょう。
 
おわりに:
 
 
皆さんは、天国の市民に登録しましたか。住民登録が未だの方は、天国の戸籍係が働いておられる間に、主イエス様を信じ、その名前を登録しましょう。登録済みの方は、天に目を向けながら、しかし、足元もしっかり固めながら、今週の歩みを全うしましょう。
 
お祈りを致します。