礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年10月11日
 
「思い煩うな」
ピリピ書連講(17)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙4章2-7節
 
 
[中心聖句]
 
  6,7   何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4章6-7節)

 
聖書テキスト
 
 
2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
 
はじめに
 
 
前回は、「私たちの国籍は天にあります。」という言葉から、私達が天国市民であるという自覚を持つべき事を学びました。4:2−7からは、終わりに当たっての三つの勧告が列記されています。一つ一つに珠玉の意義があるのですが、二つを瞥見して、残りの一つをじっくりと味わいたいと思います。
 
A.指導者は一致せよ(2−3節)[イラスト@]
 
 
2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
 
・ユウオデヤとスントケの対立 :
ユウオデヤとスントケというのは女性の名前です。ユウオデヤは、「良い香 (または、繁栄せる旅) 」という意味、スントケとは、「幸福な機会」という意味です。このすばらしい名前を持った女性二人は、ピリピ教会では女執事という指導的な立場にありました。他の何人かの人々と共に「福音を広めることで私(パウロ)に協力して戦った」のです。開拓の当初からパウロを助け、多くの人々を主に導き、更にその成長を助けていました。しかし、何らかの理由で、この二人の関係はギクシャクしていました。教会の指導者とて人間ですから、すべての関係がいつもしっくりいくとは限りません。しかし、緊張関係が許容限度を超えますと、教会全体の憂いとなります。前進の妨げとなり、未信者への躓きとなります。

・二人は一致しなさい:
この二人を一人ずつ名指しをして、パウロは、個別に「同じ思いを持ちなさい」と勧告しました。フロネオー(思う)という言葉が使われています。2:2で「一致を保ち」と言い、2:5で「キリストの心を持ちなさい」とパウロが勧めたあの同じ動詞です。

・周りは、彼女たちを支えなさい:
「真の協力者」(単数=直訳は、共に頸木を負う者)に対して、彼女たちを健全に支えなさいとパウロは勧めます。この「協力者」が誰であるかは分かりません。多分1:1に言及されている監督の一人でしょう。彼が、ユウオデヤとスントケの間に入って、彼女たちが一致するように努力しなさいとパウロは勧めています。
 
B.喜べ(4−5節)
 
 
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
 
・喜べ:
ピリピ書には喜びが名詞として7回、動詞として8回繰り返されています。牢屋にあったパウロですが、そのスピリットは、喜びに満たされていました。

・寛容であれ:
キリストの精神を自分に頂き、それを日常生活の中でノン・クリスチャンに対して実践しなさい、とパウロは勧めます。
 
C.祈り、委ねよ(6−7節)[イラストA]
 
 
6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
 
1.思い煩うな
 
 
・「心配事」が無くなることはない:
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。主は私達の荷を担って下さる。」(詩篇68:1)という御言があります。この表現は、私達は「日々」重荷を持っているという前提で語られています。私達が地上にいる間、心配事から逃れられる可能性はありません。この心配事が終わったと思うと、不思議なように違った心配事が現れるものです。今週こそは平穏無事に過ごせるかなと思うと左に非ず、思いがけない重荷が次々現れるものです。日常生活の細々とした心配事、健康への不安、試験のこと、就職の不安、年金の将来についての不安、世界情勢に関する不安、テポドンが東京に落ちたらどうしようという不安、数えればキリがありませんね。

・思い煩うな:
そんな中で主イエスは空の鳥を見なさい、野の百合を見なさい、彼等は何も心配していないではないか、と思い煩いの不必要さを説いておられます。鳥が一切思い煩わないかどうかは別にして、思い煩わったからといって、それによって寿命が一日でも延びるでしょうか。百合が心配したからと言って、背丈が一センチでも伸びるでしょうか。そんな事はありません。それどころか、思い煩いは、私達の集中力を削ぐ結果となります。思い煩いとはメリムネオー(心を砕く)という言葉から来ていますが、心をこのことあの事に心が分散してまとまらない状態を指すのです。本当になすべき事から私達の関心を逸らして、ああでもない、こうでもない、こうなったらどうしよう、と先の先迄心配して結局何もしないと言うのが落ちです。こうなったらどうしよう、という将来への心配事で、その通りになる確立(的中率)は1%に過ぎないと「どんなことにもくよくよするな!」という本の中で佐々木満男氏が語っています。実現可能性がない99%の事柄を思い煩って、そのストレスが胃潰瘍となると言うのは割の合わない話です。

・「無計画・無準備」で良いのか:
「思い煩わない」という生き方は、脳天気に徹して、将来の計画も立てず、準備もせず、何事にもくよくよしない、と言うのとは違います。私の住んでいたアフリカでは「ノープロブレム」がキーワードでした。どんな事にも思い煩わない、くよくよしない、こんな生き方が国民全体のものです。それはそうでしょう、一年を通じて春のような陽気で、着るものも季節毎に替える必要はありません。一年中バナナが実り、キャッサバが繁り、スクマウイキ(ケイル)が繁って、その葉っぱを毎日少しずつ切り取っておかずにできるという場所ですから思い煩う方が可笑しいのです。ケニアの国民歌はこんなものです:

 ジャンボ、ジャンボ、ブワナ (こんにちは、だんなさん)
 ハバリ、ムズリ、サナ (お元気?はい、とても元気です)
 ワゲニ ワカリビシュワ (お客さんは大歓迎です)
 ヌチ イエトゥ ハクナ マタタ (私達の国には問題なんかありません)

どんな問題があっても、ハクナ マタタと笑い飛ばしてしまいます。でも、私は、もう少し心配した方が良いのではと、外国人として思ったことです。
 
2.祈って、委ねよ
 
 
さて、パウロは、「思い煩うな」という勧めの後「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と勧めます。何という積極的な勧めでしょうか!

・感謝から始める:
「感謝をもって捧げる祈りと願い」、との言葉が、私の心を捉えました。感謝には、祈りの答えへの感謝という過去的な側面と、祈りが答えられるはずだという将来的側面と二つあります。

@過去への感謝: 感謝から会話を始めるというのは、人間同士の礼儀としても大切です。お願い事、小言をしたいときにも、いきなりそれを切り出さずに、何か感謝から話し始めると心がほぐれます。過去において、私達どんなに多くの場合、祈りの答えを頂いたことでしょうか。このことを助けてください、とお祈りする前に、私達はどんなことを過去に祈り、どんな風に答えられたかを静かに考えましょう。すると、まあ、感謝、感謝が溢れてくるのではないでしょうか。それを先ず言い表しましょう。

A将来の先取り: 今祈っている課題が答えられるはずとの信仰は、先取りの感謝に導きます。祈っているときに、答えられるかどうか分からないが、当たるも八卦、当たらぬも八卦で、気休めのために祈ろうといういい加減な気持ちではなく、今までもそうであったように、今祈る祈りは必ず答えられるのだ、それならば、答えられたと信じて、もう感謝してしまおう、というのが「得たりと信じる」信仰です。主イエスも、ラザロの墓を前にして、祈りの答えを先取りして感謝しておられます。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」(ヨハネ11:41、42)私達も「神様、今度はどんな風に答えてくださいますか?楽しみですね。お手並みを拝見させてください。」という信頼に基づく祈りを捧げようではありませんか。

・祈りと願いをする:
「祈りと願いをもって」と記されています。「祈り」とは、献身と礼拝の心でなされる一般的な祈り、神との会話のことです。「願い」とは、特別な嘆願のことです。

・「願い事」を言い表す:
そして、それらの祈りと願いを、「私の願い事」(アイテーマ=特別な、そして詳細に亘る願い事)として明確な形で言い表して、神に知らしめることは大切です。「神様は何でもご存知で、私達が何かを言う前から願いをご存知なのだから、わざわざ口に出さなくても良いのではないか。」というのは屁理屈です。はっきりと願いを申し上げることで、私達の心もそれに向かって統一されます。口に出すことは謙りであり、信仰の告白でもあります。ですから口に出して祈ることはとても大切です。ヒゼキヤという王様がいました。彼は、エルサレムがアッシリヤ軍によって包囲され、軍の大将から、脅かしと嘲笑に満ちた投降勧告文を貰った時、その手紙を神殿で広げて祈りました。「神様、このような敵の脅かしとあざ笑いを見てください。あなたのみ力と栄光を現わしてください」と。主は答えて下さいました。
 
3.主の平安が守る[イラストB]
 
 
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

・平安が心を守る:
私達がこのように祈る時、神の平安が私達の心を包んでくださいます。この「守る」(プルーレオー)という言葉は、軍隊が陣営を張って守る、パトロールする、という言葉です。なんと力強いお約束でしょうか。三人の子供たちが高校までお世話になったリフトバレーアカデミーという宣教師子弟の寄宿学校がナイロビ郊外のキジャビという山の中にあります。1950年代、ケニア独立運動がピークに達した頃、マウマウ団というテロ組織の攻撃対象となりました。攻撃を実行しようとしたその夜、彼らは、光り輝く武装した軍隊がその学校の周りを取り囲んでいるのを見て、攻撃を諦めました。後になって、そんな軍隊は存在せず、御使いが現れたのだろう、という結論になったということです。主は、主を畏れるものの回りに御使いをもってガードしてくださいます。

・人の思いを超えた平安:
神の平安の内容は何でしょうか。それは私達が想像する以上のものです。少なくとも、神が私を受け入れてくださったという安堵感、主が私達の願いを受け入れてくださったという安心感、そして、神の時計で一番良い時に答えてくださるという確信に基づく平安であるという事は言えます。
 
終わりに
 
 
今日、あなたが持っている心配事は何ですか。健康のことですか。人間関係のことですか。経済のことですか。事業のことですか。魂のことですか。死の恐れですか。何であったとしても、私達のために荷を負ってくださる主にそれを口に出して祈り、委ねましょう。感謝を先取りして立ち上がりましょう。
 
お祈りを致します。