礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年10月25日
 
「私の心を満たしているもの」
ピリピ書連講(18)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙4章6-9節
 
 
[中心聖句]
 
  8   すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
(ピリピ4章8節)

 
聖書テキスト
 
 
6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
 
はじめに
 
 
前回は、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(6−7節)から「思い煩うな」とのテーマで語りました。今日は、最後的なもろもろの勧めの纏めとして、私達が心を留めるべきことについてのパウロの勧めを学びます。
 
1.最後の勧め
 
 
8節は、「最後に」(ロイポン)という言葉で始まります。実は、この「最後に」は、3:1にも現われます。パウロは、一度はこれで終わりにしようと思ったのですが、息子のことを心配しているお母さんが、「それはそうと」とか「あれも言っておくわ」とか言ってなかなか電話を切らないように、パウロもあれこれ勧めを述べるわけです。その本当の最後が4章です。
 
2.「心に留めなさい」という勧め
 
 
そして8節は「心を留めなさい」(ロギゼステ)という言葉で終わっています。この動詞は、ロギゾマイから来ています。その言葉はロゴス(言葉)が語源で、「記録をする」、「記帳する」、「心に留める」という意味から進んで、「思いめぐらす」、「熟慮する」という意味にも使われます。この場合は「心に留める」と訳されていて、それで良いのですが、忘れないように覚えておくという程度ではなく、これから述べる幾つかの思いが私達の心を満たしていなさい、という強い意味なのです。「心に留める」べきことは次の8つです。
 
3.何を「心に留める」のか
 
 
この8つについて、簡潔にその内容と反対概念を記します。

@真実さ vs 偽り:
「すべての真実なこと」(アレセイア)は、偽りや偽善の無い高潔さ、誠実さを示す言葉です。今から約90年前の1918年、新渡戸稲造によって創立された東京女子大学の標語は、この聖句「すべて真実なこと」から取られているそうです。

A高貴さ vs 卑しさ:
「すべての誉れあること」(セムナ)とは、尊敬の念を抱かせるような高貴さ、威厳のことです。卑しいもの反対語です。

B正義 vs 不正義:
「すべての正しいこと」(ディカイア)は、正義や公正を示す言葉です。反対語は不正義、不公正です。

C聖さ vs 不潔:
「すべての清いこと」(ハグナ)とは、ハギオスと共通の言葉で、世の悪から切り離された状態のことです。反対語は不潔です。私達が読むもの、聴くもの、見るものがこの条件にあっていませんと、クリスチャンといいながらも、その魂は不潔さの中に誘われて行きます。実際、私達は、道徳的にはソドム・ゴモラよりも腐敗した水準の文化に取り囲まれています。私達の思想を常にきよく保つためには、御言の思い巡らしが必要です(詩篇119:8「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」)。同時に、不潔な思いに誘うきっかけを与えるような読み物やテレビドラマ、〇〇ビデオ、仲間との会話の内容にはっきりとノーを言うべきです。誘惑自体は罪ではありませんが、誘惑に身を曝し続けて自分の意志の強さを験そうなどと傲慢な考えを持ってはなりません。私達は弱いものです。ヨセフがポテパルの妻から逃げ出したように、さっさと逃げる、そのように自分の心を律すべきです。

D快活さ vs 気難しさ:
「すべての愛すべきこと」(プロスフィレー)とは、「魅力的な」、「愉快な」、「愛すべき」、「愛想の良い」との意味です。気難しさの反対です。清い人でも、冗談一つも言わないで、じっと目を閉じてしずしず歩く人というのは、近づきがたいですね。ウェスレアン注解は、「キリストを信じるすべての信仰者はまた、心のやさしさと、親切と快活さの特質を所有すべきである」と付け加えています。

E好評 vs 悪評:
「すべての評判の良いこと」(ユーフェーマ)とは、「好評を得た」、「広く推賞される」との意味です。自分だけ素晴らしいクリスチャンと自認していても、多くのクリスチャン仲間から、或いはクリスチャン以外の人から、「あの人はどうもねえ?」と疑問をもたれるようでは、証しになりません。

F諸々の徳:
「そのほか徳と言われること」(アレテー)は、元々は「男らしさ」ですが、一般的には「良い性格」、「すぐれたもの」という意味で使われます。新約聖書には、随所に「徳」のリストがあります。ガラテヤ5:22−23には、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とありますし、ヤコブ3:17 には、「純真、平和、寛容、温順、あわれみ、えこひいきがなく、見せかけのないもの」と記されています。

G道徳的卓越さ:
「称賛に値すること」(エパイノス)とは、その道徳的卓越さ故に、人々の賞賛を受けることです。
 
4.8つのリストへの反応
 
 
さて、こういうリストを見る皆さんの心の反応は如何でしょうか。

@優等生的答:
「本当にそうです。私は皆これらを持っています。」と言うのが、まず優等生的答えでしょう。

A正直な反応:
「努力目標としては良いけれども、実際は反対の心も相当あって、こんな清らかな心持ちだけで人生は生きられない。」というのがかなり正直な反応かなと思いますが如何でしょうか。

B斜めの反応:
「こんな堅苦しいのは人間らしくなくて嫌だ。私はもっと奔放な、自由な生き方をしたい。」と思う人もいるかもしれません。
 
5.聖書の答え
 
 
皆さんが、この三つの反応のどれであるか、或いは、それ以外であるか、私には分かりませんし、それを論じるのが私の仕事ではありません。ただ、聖書のメッセージを単純率直に伝えます。

@これは神の命令:
私達がそれを好むと好まざるとに拘わらず、これはパウロが(神の霊感を受けた使徒として)ピリピのクリスチャンに(そして私達すべてに)命令した大切な教えです。8節で「心に留めなさい」と命じた後、9節で「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」と繰り返しているほど、大切な命令です。再びウェスレアン注解を引用します。「われわれはこれらのどの形容詞も適用できないどんなものにも、心を占領させるべきではないし、少なくとも心の糧とすべきではない。精神に益を与えない題目は、道徳的堕落をもたらすだけでなく、それは更にすぐれたものの場所をも奪ってしまう。もしパウロの忠告に従って、これらのことを思い巡らすなら、この世界には人の注意を占領して余りあるほど、多くの良いものがある。」

Aパウロは模範を示した:
9節で「見たことを実行しなさい。」と言っているのは、パウロがこのような教えを教えただけでなく、自分で実行していたことを示唆します。神の力によって、このような思いの中に生活することは可能ですよ、とパウロは自分の例を紹介しています。

B神は従うものに臨在を約束される:
更に、それは神の大きな約束に基づくものです。「平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」この表現は、7節と共通です。神はどんな場所にもどんな人にも共におられます。しかし、この9節が語っている「臨在」というのは、一般的な神の遍在ではなく、力強い守りと導きと祝福を伴っての臨在です。反対の言い方をすれば、心が世のことに満たされていてもなお、「神は共にいます」と言い張るのは幻想でしかありません。

C神がこれを可能にして下さる:
こんな心で満たされるのは可能だろうか、という最大の課題を考えます。実際私達の心は本来的には悪いもので溢れています。エレミヤは言いました、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(17:9)自分を正直に見つめ、他人の反応を見ると、エレミヤの観察は100%本当と頷けます。しかし、キリストの力に支配されるとき、私達の思いも彼に占領されます。「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(思い)をとりこにしてキリストに服従させ・・・る用意ができているのです。」(Uコリント10:5−6)「私達の心は悪しき思いで満たされています。しかし、主よ、これらの全ての悪しき思いを十字架につけ、あなたを愛する愛、隣人を愛する愛によって私達の心を満たしてください。」と祈る時、主はそれを実現してくださいます。そして、その祈りを、朝に昼に夕に、継続しましょう。
 
終わりに
 
1.朝の祈り:
 
 
朝の祈りの中で、「詩篇 19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」と祈りましょう。
 
2.仕事の中での祈り:
 
 
日中の忙しい働きの只中で、折々にでも、主を見上げましょう。「主を思う思いに、我が心は満つ」と歌いましょう。一軍の大将であり、王として国を治めたダビデは、猛烈に忙しい時間を過ごしていましたが、しかし、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇 16:8)と告白しています。いつも、主を意識しつつ生きていたのです。
 
3.夕の祈り:
 
 
一日の終わりに、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇 139:22−23)と祈って休みましょう。
 
お祈りを致します。