礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年11月1日
 
「どんなことでもできる?」
ピリピ書連講(19)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙4章10-13節
 
 
[中心聖句]
 
  13   私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
(ピリピ4章13節)

 
聖書テキスト
 
 
10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
 
はじめに:驚くべき偉大な信仰告白
 
 
前回は、「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」(4:8)から、私達の心をみたしている思想は何かということについて、パウロの勧めを学びました。

今日は進んで「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(パンタ イスキュオー < I am able, or strong in > エン トー エンドュナムウンティ メ)」(ピリピ4:13)というパウロの告白に焦点を当てます。この言葉は、考えれば考えるほど、とてつもない内容の偉大な告白です。間違って捉えると、物凄くおめでたい楽観主義になりますが、本当に学んで捉えると大きな励ましとなります。今日はこの一点に絞って学びたいと思います。
 
1.本当に「どんなことでも出来る」?(イラスト@)
 
 
・自信過剰ではない:
ナポレオンは、「余の辞書に不可能という言葉はない。」と豪語したそうです。それでも、ロシアを征服することは出来ませんでした。パウロが「どんなことでも出来る」と言ったのは、一見、ナポレオンのような自信過剰に見えます。しかし、それを聖書の文脈(流れ)に沿って考えると、自信過剰な宣言ではないことが分かります。

・万能でもない:
さらに、「どんなことでも出来る」とパウロが言っているのは、無条件にありとあらゆることが出来るスーパーマンだ、と言っている訳でもありません。自分で空を飛んでみたり、重い石を軽々と持ち上げてみたり、触るものを金に変えたりというマンガチックなものではありません。況して、神おひとりが所有しておられる「全能」を、人間であるパウロが分け持っているわけでは決してありません。
 
2.パウロの意味した「可能」(イラストA)
 
 
どんな聖句もそうですが、その前後の文脈(文章の流れ)から、特定の聖句の意味を考えることがとても大切です。そこで、13節の告白を取り上げる前に、10−12節の文章の流れを見てみましょう。

・「関心」の復活を喜ぶ(10節):
9節で細々した勧告を終えたパウロは、10節からは、この手紙の本来の趣旨である、贈り物への感謝に話題を移します。「私は、あなたがた私をケアする思いが芽吹いたことを、主にあって大いに喜んでいます。」と言って、ピリピ教会が、パウロのことを心に留めていることを感謝しています。でも、その言い方はやや微妙です。「甦った」(文字通りには、冬枯れの肢が再び芽吹いて、花咲いた)ということは、すこし休んでいた期間があったことを示唆します。15−16節を見ると、パウロがピリピを去った後でも継続的なサポートをしてくれたことが回顧されています。しかし、どうやらその後は関心が薄れ、サポートは継続しなかったようです。パウロは、その休止期間のことを強調せずに、関心の回復のことを強調しています。休止期間については、「あなたがたは、このことを思っていたのですが、機会を欠いていた訳なのですね。」と庇う言い方をしています。行き届いた配慮を感じます。

・感謝と満足の態度(11節):
それでも、休止期間のことを責めていると取られないように、彼は、「乏しいことも確かにあった、しかし、私は、その乏しさの中にも満足感を持って生活したのですよ。不満を述べているのではありません。」と信仰的告白をしています。他人に申し訳ないという気持ちを起させず、感謝だけを表す牧会者的な物の言い方、配慮を深く感じます。知恵のない人は、あの時は辛かった、それはあなたがたが冷たかったからだ、などとズバッと言って人を傷つけます。パウロの物言いは、何と知恵深く、愛に満ちていることでしょう。その本質は、彼がどんな境遇でも満足し、心から感謝していたからです。「全てのことについて感謝しなさい」とテサロニケ第一の手紙で書いていますが、彼自身がそのスピリットで生きていたのです。彼は、どんな状態であろうと充足しているという(境地を)経験を通して学んだからです。I have learned the secret of being content in any and every situationと言っています。

・「どんな境遇でもOK」と言える秘密(12節):
彼は、どんな境遇でも、という中に、貧しい道と共に、富におる道も知っていたと述べています。伝道者として、何の収入も無く、パンの耳を齧りながら飢えを凌いだ時も決して卑屈にならず、明るく過ごせました。反対に、王侯貴族の招待を受けてフルコースの食事を頂く時も、「いや、私は貧しい人の味方ですから、こんなご馳走に手はつけられません。」などとパンひとかけらだけしか食べないで、端っこの方に座っているようないじけた態度も取らず、堂々としたテーブルマナーで、話題にもしっかり加わるという態度を取ったのです。私達にあてはめると、貧しきにおる道を知っている人は富におると居心地が悪い、富におる道を知っている人は貧しさには耐えられない、とアンバランスな場合が多いのですが、パウロはどっちも経験したよ、どっちでもOKだよ、と言っているのです。あらゆる変動を経験しながら、彼はそれに対処する秘訣を得た、といっています。この表現は、そのように訓練された(ムエオー=initiateの受身・完了形)という意味です。

・「どんなことでもできる」という真意(13節):
「私は・・・どんなことでもできる」と言っているのは、その流れのいわば結論です。もっと言えば、「私はどんな境遇でも、感謝して、満足して、賛美して進むことが出来る」といっているのです。これはスーパーマンのような万能とは違った、しかし、物凄い信仰告白ではないでしょうか。私達にも、赤貧洗うがごとき貧しさに直面して今日のご飯、今日のおかず、子供の給食費に事欠くことがありえましょう。その中でも、感謝と賛美をもって過ごす秘訣を得たいものです。お金が余って余って困るほどの状況に(多くの人はぶつからないでしょうが、偶には)ぶつかることもあるでしょう。それでも奢らず、威張らず、信仰を失わず、それを用いて主の御用を全うする道はありますね。健康である道があり、同時に病に囚われる道もあるでしょう。多くの友に囲まれて楽しい時もあり、孤独で誰も顧みてくれない時もあるでしょう。やることなすことがうまくいって順風満帆の時もあり、打つ手打つ手がみんな狂ってどん底に落ち込む時もありましょう。人々が賞賛してくれる時もあり、全世界が敵に回ったように集中砲火を浴びる時もあるでしょう。どんなときにも「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と言い得たパウロの秘訣を自分のものとしたいものです。
 
3.なぜ可能なのか?(イラストB)
 
 
13節の小さな言葉が鍵です。「私を強めてくださる方によって」という主をしっかりと捉えることがその秘訣です。私を強めるとは、神の力を人間の力に融合させてくれる、という意味です。電動自転車があります。自力で漕ぐのが原則ですが、坂道などで、電気のスイッチを入れると、人間の漕ぐ力を押してくれるのです。これが強めてという意味です。少し具体的にいいましょう。

・強め給う主によって:
私の「何を」強めてくださるのでしょうか?前後の文脈からこれは明らかです。逆境の中で、それに耐える忍耐力を与えるのが主です。「忍耐強く」して下さる主です。迫害にあって「打たれ強く」して下さる主です。心が挫けて絶望してしまいそうな時「力強く」雄々しくしてくださるのが主です。

・内に働く力によって:
どのように強めてくださるのでしょうか。私達の内側に働きかけなさいます。パウロはコロサイ1:29で、「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」と語っています。活ける御霊を通して、復活のキリストが心に働きかけてくださるのです。

・主を捉える信仰によって:
それを頂くのが信仰です。「よって」という言葉は、頼って、信頼して、縋ってという心の営みを示しています。言い方を変えると、私の内側には、「何でも出来る」どころか、「何にも出来ない」者なのです。それを100%認めて、しかし、神の全能を100%認めることを信仰と言います。この信仰に今日しっかりと立とうではありませんか。
 
終わりに
 
 
終わりに自己テストをして見ましょう。

テスト1:
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。」というパウロの言い方に倣って、私達が一番身近である問題を当てはめて見ましょう。つまり、「私は、( )の中にいる道も知っており、[ ]の中にいる道も知っています。」の(カッコ)の中に、「孤独」とか、「疎外されること」とか、「いじめられること」とか、「病に苦しむこと」とか、「人々から疎まれること」のマイナス概念を、次の[カッコ]の中に、「賑やかさ」とか「受け入れられること」とか「優しくされること」とか、「健康であること」とか、「人々から賞賛されること」とかのプラスイメージを入れて見ましょう。どの道にあっても満ち足りると心から言えるかどうか、テストしましょう。

テスト2:
もう一つのテストは、この日、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と確信をもってと言い切れるかどうか、と言うことです。主にあって、それを確信し、言い表し、そしてその信仰に立って、一週間の営みを始めましょう。
 
お祈りを致します。