礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年11月22日
 
「満たしてくださる主」
ピリピ書連講(20:終講)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピへの手紙4章14-23節
 
 
[中心聖句]
 
  19   また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
(ピリピ4章19節)

 
聖書テキスト
 
 
14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
20 どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。21 キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに、よろしく伝えてください。私といっしょにいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。23 どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。
 
はじめに
 
 
前回は、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(13節)というパウロの偉大な信仰告白を学びました。これは、ピリピ教会からパウロに贈られた応援物資との関連で語られた言葉ですが、14節以下もその応援物資へのお礼が続きます。
 
A.分かち合い(14−15節)
 
1.困難を分かち合う(14節)
 
 
「14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」
 
スュンコイノーネオー(共に分かち合う)You did well sharing suffering with me. クリスチャン仲間の特徴は「分かち合い」です。良い物を分かち合うだけでなく、困難・迫害・乏しさを共に乗り越えるという形の分かち合いもあります。ピリピ教会は迫害に耐えつつ伝道していたパウロの傍に立って、その困難を分け持ってくれました。困難にぶつかった時、本当に嬉しいのは黙ってその傍に立ち、荷物を担いでくれる人の存在です。私達も、そんな存在になりたいものです。榊原先生がお子さんを交通事故で亡くしたとき、黙って手を握ってくださった方があった、それが大きな励ましとなった、と昨週お証ししてくださいました。ピリピ教会の人々は、パウロが町の有力者に虐められて、鞭打たれ、牢屋に入れられたときも、一緒にその苦しみを担ってくれたのです。
 
2.良いものを分かち合う(15−16節)
 
 
「15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」
 
「マケドニヤを離れた時」というのは、第二次伝道旅行の時、ピリピ、ベレヤ、テサロニケなどの開拓を終えて、マケドニヤの南のアテネ、コリントの伝道に向かった時です。(イラスト@)

「テサロニケにいた時」とはマケドニヤの一部ですから、時間的にはその前の出来事です。

いずれにせよ、パウロがピリピ教会を去った直後も、その後も、物質的サポートを続けたのは、パウロにとって大きな助けでありました。他の教会はそうしてくれなかったと言うのは、不満の表明ではなく、ピリピ教会の素晴らしさの強調です。

パウロの独立精神:
本当を言うと、パウロは助けてもらうことを潔しとしない独立精神に満ちた伝道者でした。ピリピを離れた直後に開拓したテサロニケでは、「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」(Tテサロニケ2:9)と言い、その説明として、「それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。」(Uテサロニケ3:8−10)と言っています。まして、ピリピ教会からのサポートで食べて行こうとは決してしていませんでした。その後で行ったコリント教会では、誕生した教会から生活の糧を得る権利は充分にあるけれども(様々な誤解を生まないためにも)その権利を一つも用いなかった、といっています(Tコリント9:12,15)。

ピリピ教会の援助は感謝:
そういいながらも、ピリピ教会からのサポートを喜んでもらっているのは矛盾だと言わないで下さい。パウロは、ピリピ教会の親切、配慮は神の喜びに繋がるものと考えて感謝して受け取ったのです。それが、次の文節で説明されます。
 
B.満たし給う主(17-20節)
 
1.与えるものは祝福される(17-18節)
 
 
「17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」
 
・謝状は贈り物の催促でない:
「私は贈り物を求めているのではありません。」といって、パウロは次なる贈り物を催促していないと念を押します。お礼の言い方は難しいものですね。宣教師時代に、宣教応援物資を頂いて本当に感謝でしたが、お礼を書かないと、嬉しくないのかなと思われますし、感激しすぎたお礼を書くと、もっとたくさん、頻繁に送らなければという催促に取られてしまいます。パウロは、ピリピ教会の贈り物を感謝しつつも、これは、次の贈り物の催促ではありませんよ、と念を押します。それが次の17節です。

・ピリピ教会の祝福を求める:
17節の後半「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」を直訳しますと、「私が求めているのは、あなたがたの帳尻(ロゴス)を充分以上に多額なものにする(プレオナゾー)結実(カルポス)です。」結実とは、御霊の実としての愛でしょう。その愛が実際的行動を通して豊かにされていくことを願っているのです。ウェスレアン注解によりますと、「パウロはこの教会を、贈り物それ自体の価値のゆえにではなく、それに象徴された彼らの親愛、愛情、誠実のゆえに、尚一層尊ぶのであった。」と言っています。

・パウロの満足と感謝:
「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。」とパウロは満足感を二度も繰り返して表します。エパフロデトがどれだけのもの(或いはお金)をもってきたかは分かりませんが、パウロは、それは満ちあふれるほどだ、と言っています。いくら貰っても不満をいう人はいつも不満を言いますが、感謝を知っている人は、小さなことにも心から感謝できるのです。

・贈り物は、神への供え物:
「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」献金もそうですが、捧げる行為、与える行為は、対象者の喜びである以上に、神ご自身の喜びなのです。それは、香ばしい香の供え物だとパウロは、その貴さを強調します。(イラストA)「喜んで受けてくださる」とは、ユウアレストス(ユウ=良い+アレスコー=喜ばせる→well pleasing)という言葉です。これは、神への供え物の中でも、香の供え物という種類のものと譬えています。これは、主イエスが、冷たい水一杯を弟子に与えたものは、私に与えたことだと語られたことに符合します。私達が誰かのためになす業は、直接主への奉仕であり、主の喜びとなるのです。
 
2.ピリピ教会への約束(19節)
 
 
「19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
 
ピリピ教会の人々に対して、パウロは自分の経験から、ひとつの確信を約束として述べます。その約束と言うものは、ピリピ教会に対してだけではなく、私達全てにも当て嵌まるものです。その内容は何でしょうか。

・すべての必要が満たされる:
「あなたがたの必要を・・・」私達には、経済的必要だけではなく、肉体的・霊的必要という様々な面における「必要」があります。それらが全て満たされるのです。ここで注目すべきことは、「必要」です。必ずしも、「願い」「欲求」ではありません。神は、私達が何を必要としているかを、私達よりもご存知です。私達の願いは必ずしもそのまま答えられないことはあるでしょう。しかし、私達の(本当の)必要は、必ず満たされるのです。

・神の無限の富によって:
「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」と言うのは、無限の富と言うことです。天国銀行に破産はありません。神は 「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。・・・世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。」とおっしゃいます(詩篇 50:10、12)。

・パウロの必要を満たした神が:
「私の神」と言いつつ、パウロは、自分を満たしてくださる神が、あなたがたの必要も満たしてくださると確信して、この約束を与えています。

・豊かに満たし給う:
「栄光の」(in glory=エン ドクセー)という言葉は、「富」を修飾するよりも、「満たす」を説明する言葉に取りたいと思います。栄光ある方法で、つまり、神の栄光に与るもののように、との意味であるとビンセントは説明しています。満たしてくださるのです。やっとやっとではなく、豊かにです。
 
3.頌栄(20節)
 
 
「20 どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」神が満たして下さることは、当然ながら、神の素晴らしさの証しです。間違っても、「自分たちが何か価値があるから満たされるのだ」と自慢の気持ちを持ってはなりません。一切の栄光を主にお帰しすること、これこそが信仰者のあるべき姿です。私達もパウロと共に、「私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」と唱和したいものです。
 
今日は、奇しくも会堂建設六周年記念の礼拝です。先の趣意書にもありましたように、このプロジェクト全体は12億以上でした。会堂プロジェクトが始まった2000年に、タバナクル献金という積み立てがあり、その額は5千万円前後でありました。尊い積み立てでしたが、圧倒的に不足でした。その内に広尾の借地権を譲って欲しいという買い手が徐々に現われました。最終的にはその額が8億円となりました。大きな追い風でした。更に一時献金が2億円近く予約されました。レプタ二つを含む尊い捧げ物が続きました。当時の役員会の取り決めで、この会堂一時献金の扱いは、会計ではなく、主牧にして欲しいということでしたので、今日まで続けています。その領収書は番号にして850枚以上です。私は何度その領収書を書くときに感涙をもって書いたことでしょう。更に、二億円に余る個人及び銀行からの借金について、この7年間で約4分の3が返済済みとなりました。このことだけでも「パウロの神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私達の必要をすべて満たしてくださいます。」と頷けます。

前主牧の蔦田眞実先生は、アメリカ留学時代に、この言葉を小切手の様にして机の前においておいたそうです。(イラストB)

・振出人:イエス・キリスト
・支払人:(全地を所有したもう神が出資者である)天国銀行
・受取人:私達信仰者
・金額:全ての必要
・振り出し日:いつでも

今日、私達は、このパウロの力強い約束を、額面どおり受け取りましょう。
 
C.最後の挨拶と祝祷(21-23節)
 
 
「21 キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに、よろしく伝えてください。私といっしょにいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。23 どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」
この部分を説明する時間はありません。これをもって20回に亘るピリピ書連講を閉じますが、もう一度、19を私達への確実な約束と捉えて感謝の祈りを捧げましょう。

 
お祈りを致します。