礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年11月29日
 
「本当の王様とは?」
待降節講壇(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイ2章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  2   ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。
(マタイ2章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同さまであった。4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
 
はじめに
 
 
あと3週間でクリスマスです。20日の祝会には大人も子供もみんなが参加して劇をすることになっています。今年は、みんなが手を挙げて、やりたい役を演じることになっています。私は、みんながやりたくないだろうと思われる役を申し出ました。それはヘロデ王です。ヘロデとは、とんでもない悪者でしたが、でもヘロデがいたからこそ、本当の王さまであるイエスさまが引き立ったのです。今日は、この二人を比べながら、お話しすることに致します。
 
1.王として生まれたイエスさま
 
 
・「ユダヤ人の王」をたずねた博士たち:
東の方(ペルシャ地方と思われます)からイエスさまを拝みに来た博士たちは、「ユダヤ人の王として生まれた」方を尋ねてやって来ました。どうしてイエスさまは「日本人の王」ではないのか、「アメリカ人の王」ではないのか、と言わないで下さい。「ユダヤ人の王」という言い方は、ユダヤ人の中から救い主(メシア)が起こるという旧約聖書の予言があったからなのです。

・それは、メシア予言を知っていたから:
メシア予言の中でも、特に民数記の予言が東の博士たちを動かしたものと考えられます。「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こる」(民数記24:17)と言うのがそれです。この予言から次のような伝説が生まれました。「神の子がイスラエルに生まれる。その子に世界の多くの人々が従う。その現れの印は不思議な星だ。その星はあなたを彼のいる場所へと導く。その星を見たら、黄金、乳香、没薬を携えて彼の所に行き、彼を礼拝し、そして帰って来なさい。」ですから、博士たちが、黄金、乳香、没薬をもって、この新しく生まれた王さまを拝みに来たわけです。黄金、乳香、没薬については、後で説明します。
 
2.「おさなご」の王さま
 
 
・赤ちゃんがどうして王さま?:
小さな赤ちゃんであるイエスさまが王さまである、というのは不思議なことです。

・イザヤの予言による:
でも、このことは、イザヤという、イエスさまが生まれる7百年も前に生きていた預言者によって予言されていました。こう書かれています:

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は
 『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』
 と呼ばれる。
 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 その王国を治め、正義によってこれを堅く立てる。」

メシア(救い主)がおさなごとして現われること、そのおさなごの王さまが私達に平和な世界を与えることを予言しているのです。イザヤが住んでいたのは、戦争によって自分の国がめちゃくちゃになった暗い時代でした。そんな時、イザヤは、戦争は終わる、平和が支配する時代が来ると預言したのです

・神が武力でなく、愛によって平和を作るシンボル:
 (イラスト@)

その平和は、幼子の誕生と支配によって実現します。幼子は、神が強力な武力によってではなく、平和の理念によって世界を治めなさるという平和主義のシンボルです。

・(おさなご王の下で)狼と子羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ・・・が仲良くくらす:
そのイザヤは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」(イザヤ11:8)とも言っています。子供の無邪気さ、無害性がコブラやまむしをも友達とする平和な国の光景が描かれています。メシアは、強い力をもって国を治めるのではなく、平和な性格をもって国を治められます。絶対に仲が良くない動物たち、狼と子羊、豹は子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子とまむしの子が仲良く暮らすのです。その真ん中に、純粋な幼子が王さまとして支配するというのです。
 
3.平和を造り出した王さま
 
 
・十字架によって神と人との仲直り:
もちろん、イエスさまは、ずっとおさなごであったのではありません。大人になって、人々の喧嘩を止めさせる大きな仕事を成し遂げられました。誰と誰の喧嘩でしょうか。それは、神さまと人間の喧嘩です。神さまは喧嘩をする積りではありませんでしたが、人間が勝手に神さまに逆らい喧嘩して家を出てしまったのです。イエスさまが最後に十字架に掛かられたのは、人間が犯した全部の罪の身代わりとして、重い、厳しい罰を受けるためでした。それを書いているのはパウロの手紙です。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。・・・神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Uコリント5:18、21)

・十字架によって人と人との仲直り:
イエスさまは、神さまと人間の仲直りをさせることで、人間と人間の仲直りもなさいました。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14、15)夫と妻、親と子、民族と民族、国と国が敵対したり、誤解したり、争っている時代ですが、それを繋ぐのは、その一人ひとりが神に近づくことです。私達が神に近づくと、お互いの間も仲が良くなります。
 
4.王の誕生を喜ばない「にせ王ヘロデ」
  (イラストA)
 
 
こんな素晴らしい王さまの誕生の知らせを聞いたら、みんな喜ぶはずなのに、喜ばない人がいました。それがヘロデ王さまです。「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同さまであった。」(2:3)エルサレムの人々は、ヘロデと一緒に恐れたのではなくて、このニュースを聞いたヘロデがが気違いになって、変なことをしないかと恐れたのです。ヘロデ王さまについて少し説明します。

・もぐりこんできた王:
マタイ2章に登場するヘロデは「ヘロデ大王」と呼ばれます。この人は、ユダヤ人ではないのに、ユダヤ人の王さまとなった人です。その父はユダヤ人の親戚ですが、とても仲の悪いエドム人の支配者アンティパトロスでしたが、ユダヤ人に征服されてユダヤ教を受け入れました。その後アンティパトロスは、BC47年にローマで力を振るっていたユリウス・カイザルにおべっかを使ってユダヤ総督となりました。アンティパトロスの次男であるヘロデ大王はローマ帝国内部の争いの片方に味方したために、自分の命も危なくなりますが、味方が負けると反対側にくっついて、大変なごますりをして、「ユダヤ王」という地位を手に入れました。それがBC37年のことです。このころはローマ帝国が全世界を支配していましたから、どの国もその家来(総督)という立場でしたが、ヘロデは、どうしても「王さま」という名前が欲しいとたくさんの賄賂を贈って「王さま」に認めてもらったのです。

・競争相手を「消して」行った王:
ヘロデは、自分の位を保つために、競争者と次々と殺していきます。最後には自分の子供や奥さんも殺してしまいます。ヘロデが死んだのはBC4年でしたが、暴君の支配からまぬかれたユダヤの民は安堵の声を挙げました。

・ヘロデの戸惑い:
イエスさまの誕生はBC5年頃です。このヘロデが死ぬ一年ほど前です。疑り深い老王が「ユダヤ人の王」の誕生というニュースを聞いたときに物凄く怒り、恐れたかは良く分かります。自分は、王さまではないのに王さまと名乗り、ユダヤ人でもないのにユダヤを治め、人々から愛されていないのに人々を治めていると言うことを良く知っていたからです。ですから、イエスさまの誕生の場所を突き止め、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子をみなごろしにせよ、という命令をしたことは不思議ではありません。

・「自分を王さまとする」人間の絵:
ヘロデの中に、自分を王さまとする私達の絵を見ます。私達は、ヘロデほどわがままで、残酷で、自分の立場にこだわっているわけではないでしょう。でも、自分の人生について「自分自身が王であろう」とする性質は人類共通のものと言えないでしょうか。アボット博士は「聖化」の中で、罪とは自己を神の座に置く神への反抗であると述べています。自分のやり方を何にも勝って主張し続けることが罪の本質なのです。その意味では、私達は皆このヘロデ性を分け持っているのです。本当の王として世に生まれなさったキリストを王として受け入れることは、自分の王座を明け渡すことに他なりません。
 
5.王さまを王さまとして拝んだ博士たち
  (イラストB)
 
 
・博士たちは、王さまに相応しい贈り物を持って来ました。

「黄金」: 黄金は昔から最も価値高い金属でした。産出量が少ないこと、錆びないこと、独特の光沢があることがその理由でした。特に王さまに関する器具、装身具として用いられましたので、キリストを王として認めるのに相応しい贈り物でした。これは、王さまとして生まれる方への尊敬を表します。

「乳香」: その文字が示すように、乳頭に似た物体で、良い香りのするものです。乳香は、オリーブのような木の幹を傷つけて出てくる液体を固めたもので乳白色の半透明な樹脂です。それを焚くと物凄く良い匂いがする香料です。エジプトでは神に捧げる薫香として使われ、王にしか使用が許されていませんでした。ですから、乳香も、この王さまへの贈り物に相応しいものでした。

「没薬」: 没薬も、その漢字が示しますように、人間の死後との関係が深い物体です。植物の汁から採った液体で、色々な病気を治したり、ばい菌を殺す薬として用いられていました。古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、胃薬、うがい薬、皮膚薬、麻酔薬、化粧品としても用いられていました。この王さまが人々の傷を癒すお仕事をすることの象徴でした。

・王さまに相応しい礼拝の仕方を持って:
「ひれ伏して拝んだ」のです。この礼拝する(プロスキュネオー)という言葉はプロス(前に)キュオーン(犬)と言う言葉の合成語です。犬が主人の前に「伏せ」をするように彼らの顔を地に付けてひれ伏したのです。彼らは、理屈抜きで靴を脱ぎ、帽子を取り、額も、手も、胸も、足も、皆触れられる所は全部床に触れて礼拝しました。外見は全く普通の子供と変わらない幼子イエスに対して、何もかも打ち捨てて謙りをもって礼拝したのです。博士達はこの黄金、乳香、没薬を捧げたとき、自分自身を救い主に捧げました。
 
終わりに
 
 
・イエスさまは私達の王さまですか?:
キリストは本当の意味で私達の王でしょうか?私達の家庭、事業、経済、計画、時間、趣味を司る王でしょうか?自分が王さまとなっていませんか。王として生まれなさったキリストを王として受け入れましょう。

・イエスさまに全てをささげよう:
ウェッバーという人が「神が求め給うのは、単なる儀式ではなく、心を捧げることである。」と記しています。その面から言いますと、この博士達が幼子イエスに捧げた礼拝は、本当の礼拝のあり方を私達に示すものです。私達も礼拝において、「王の王、主の主」の前に出ています。礼拝の時には献金が捧げられますが、私達の神への貢ぎ物、私達の全身を捧げる象徴なのです。このような礼拝をささげた博士達は、喜びと満足をもって、この地を去りました。私達の礼拝も、その営みを終えたとき、今日も主に出会った、主に自らをおささげしたと言う喜びと満足を持って立ち上がりたいと思います。
 
お祈りを致します。