礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年12月6日
 
「イエス、罪から救う方」
待降節講壇(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイ1章18−25節
 
 
[中心聖句]
 
  21   マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
(マタイ1章21節)

 
聖書テキスト
 
 
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
 
1.名前は大切
 
 
・命名の重さ:
子供が生まれた場合に、どんな名前を付けるか、これは親にとって大問題です。親の信仰や期待が現われるような、聖書から取った信仰的な名前、聖書人物をそのまま取ってきてつけた名前、など、名前は単なる区別のための符牒ではなく、その人の一生を決める方向付けを示すものです。昔の日本では、親でなくて、お坊さんとか、偉い人に付けてもらう習慣がありました。その典型的なものが、後に落語になった「寿限無」でしょう。「寿限無、寿限無五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末・・・」などと面白おかしく語り継がれている物語です。

・聖書の中の名前:
聖書において、名前は個性を表わします。アブラハム(多くの国民の父)、ヤコブ(かかと=おしのける者)の例のようにです。特に、神に於いては自己紹介的な意義を持つ啓示の一つです。「私は在る、(またはあらしめる)」(ヤハウェ)は神の性質を表わす大切な名前としてユダヤ人は神聖視していました。神の名は、人が神を捉え、呼び求める時の鍵であったからです。
 
2.主イエスのお名前
 
 
主イエスは三つの代表的な名前を持っておられました。

・預言的な名前「インマヌエル(神、私達と偕に)」:
これは、イザヤ予言の成就として、御使いによってヨセフが告げられた名前です。神が人となられたという重要な意義を持っていますが、実際に使われることはなかったようです。

・個人名「イエス(主(ヤハウェ)は救い)」:
このお名前については、後で詳しくお話します。

・職名「キリスト(油注がれた者)」:
旧約聖書で予言されていたメシアのことですが、主が生きておられるときは、余程のことがないと、このお名前を使いませんでした。弟子達が「あなたはキリストです。」という告白した時は、例外的にこれを受け入れなさいました。また、サマリヤの女性が「あなたはキリストですか。」という肯定的に問いかけた時、「そうです」と答えられました。十字架に掛かる前の裁判の時祭司長が「あなたはキリストか。」と挑戦的に問うた時、命を賭けて「あなたが言うとおりです。」と答えられました。このように、主イエスがご自分をキリストと表したのは、ごく例外的なことでしたが、復活後は弟子達がこの方をキリストと信じ、証ししたため、イエス・キリストと繋げて呼ばれるようになりました。
 
3.「イエス」という名前の意味
 
 
・「ヨシュア」のギリシャ語名:
「イエス」という名前は、へブル語のイェホーシュァ(ヨシュア)から来たギリシャ語(イエースース)です。イェホーシュァとは、「救う、釈放する」という意味の動詞ヤーシャァと、ヤハウェの合成語で、「ヤハウェは救う」という意味です。その後、これがギリシャ語的に訛って、イエースース(ihsous)となったのです。実際、この時代に、イエースースと呼ばれる人は多く居ましたので、主イエスだけが「変わった名前」を持っておられたのではありません。でも、主が、「主は救う」という名前を個人名として持って居られたことは偶然ではなく、大変意義あることでした。このことは、次の項目で説明します。

・世界への広まり:
このイエースースの名前が救い主として世界中で広まって行きました。そして、それぞれの言葉で表わされています。ラテン語では「イエズス」です。英語ではジーザスです。ただ、英語を使うユダヤ人クリスチャンはジーザスとは言わず、イェシュアと呼んでいます。スワヒリ語ではイェスです。

・日本語の呼び方:
16世紀、日本にキリスト教が伝わった頃は、ラテン語のままイエズスと呼ばれました。明治の初期には、耶蘇という漢訳聖書のあて字が、そのままヤソという呼び方で流用されるようになりました。明治時代にはクリスチャンもヤソと呼ばれていました。ある葬儀屋さんが、「ヤソの仏さんはみんなキレイな顔をしている。」と呟いたそうです。面白い言い方です。その後、プロテスタントはイエスと呼ぶようになり、新共同訳の完成以来カトリックもイエスと言うようになりました。
 
4.ヨセフによる命名
 
 
・ヨセフの人生:
ヨセフというのは、ガリラヤの片田舎ナザレという村で大工をしながら生計を立てている、ごく普通の若者でした。普通と違う点があるとすれば、ダビデ王の直系であるという点でしたが、王朝が滅びて600年近く経っている今、栄光の家系が何を齎すのでしょうか。実質的には何もありません。でも、捕囚から帰還した民を率いて神殿を建てたゼルバベルの血筋を引く人間としての誇り、イスラエルを贖うメシアの誕生への期待というものは、しっかり持っていたことでしょう。

・大きな課題:
そのヨセフが、同じ村のマリヤという若い女性と婚約をしました。マリヤについてその背景は分かりませんが、祭司の民であるレビ族とも親戚関係にあるがユダ族であること、聖書に親しみ、信仰深く成長した女性であったことは確かです。当時の婚約というのは、今日の婚約よりももっとしっかりした結びつきで、同じ屋根の下に過ごすことはしませんが、法律的には結婚と同じくらいの強い結びつきでした。その解消は離婚と同様の重みを持っていました。ルカによれば、「いいなづけの妻」(ルカ2:5)と呼ばれるほどでした。勿論、今日平気となっている婚前交渉などは絶対にアウトという倫理はしっかりと生きていました。ところが、そのマリヤが事もあろうに妊娠してしまったのです。今日のように、マターニティ・ウェディング・ドレスが堂々と売られている時代とは全く違った厳しい(本当はそれが当たり前ですが)時代ですから、マリヤは石打ちにあって当然の状況です。マリヤを深く愛していただけに、痛く傷ついたヨセフは、マリヤを助けるためには、一番穏やかな形での婚約解消しかないだろうと思いはじめました。(穏やかな形とは、離縁状を二人の証人に渡して離縁を正式なものとするもので、それは、自分がこの妊娠に関わっていないという正義の証しであり、同時に、マリヤのことも守れる道でした。公の離縁状を出す場合には、マリヤの処罰は免れなかったからです。)それにしても、マリヤを愛しつつも分かれねばならないという事は、男性としてどんなに苦しいことだったことでしょうか。それは眠れないほどの悩みだったことでしょう。私も同じ男性として、その苦しみを想像することができます。

・天使のみ告げ:
その悩みの真最中に与えられたのが、主の使いのみ告げです。御使いは「ダビデの子ヨセフよ。」と切り出しました。「大工の子ヨセフよ。」でもありません。「ヤコブ(ヨセフの実父)の子よ。」でもありません。「ダビデの子」つまり、イスラエルの栄光ある歴史の中心人物であり、メシアがその子孫から生まれるという歴史の鍵を握ったダビデ家の直系であるヨセフ、という意味づけを持って語られた呼称です。ヨセフは、この呼び方で、大きな感動を覚えたことでしょう。実在の人物で恐縮ですが、スケートの織田信成選手が、夢を見て、「信長の子、信成よ。」と呼ばれて、しゃんとする姿を想像してみてください。さて、御使いは「マリヤの妊娠は、聖霊の働きによるものだ。」ということを告げました。私の想像ですが、ヨセフはマリヤの口から同じメッセージを聞いていたのではないかと思います。半分信じたいが、半分以上は信じられない、さてどう考えて良いものか、というのがヨセフの悩みだったと考えるのは、行き過ぎでしょうか。御使いが続けたのが、生まれるべき子供の名前とその使命です。
 
5.イエスが齎す救い
 
 
・「その名はイエス」:
男の子が生まれる、という予言に加えて、そのこの名前をイエスとつけなさいと指定されました。もちろん、この頃、イエスという名前は、さして突飛でも奇妙でもありませんでした。割合普通の名前です。しかし、この子の場合には特別な意味を持っていました。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と、イエースースは、その名前の意味通り救い主としての生涯を送り、救いを成就する方と使命づけられたのです。

・その民を救う:
勿論、第一義的に「その民」とは、イスラエルのことです。しかし、イスラエルに限るのではなく、イスラエルを始めとして、全人類の救いを全うされるべきお方でした。

・罪からの救い:
罪とは、神の御心と掟に背く行いと心のことです。その本質は、眞の神から離れて自己を主張する人間中心主義です。その罪に苦しんでいる人類をそこから救い出すのがイエスです。罪の中にあってそのまま救うのではありません。徹底的に、その外へと救い出すお方です。そのために、ご自分を罪の罰を受ける生贄として提供することです。ですからバプテスマのヨハネは、キリストを指して「世の罪を除く神の小羊」と語りました(ヨハネ1:29)。ご自分を人々に与えつくした生涯の最後に待っていたのは、十字架でしたが、その十字架において「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、・・・大祭司ととなえられたのです。」(ヘブル5:7)。イエスは天から降って自動的に救い主になったのではなく、大きな叫びと涙と苦しみとを通して救い主となったのです。その徹底的な献身の結果、死から蘇って、もろもろの名に勝る名、即ち「救い主」(真の意味での)を賜わり、すべてのひとが膝を屈めて「イエス・キリストは主である」と告白するに至ったのです(ピリピ2:9-10)。
 
6.「イエスの名」を呼ぶことが齎す救い
 
 
・名前の力:
一般的に言って:重いドアが、小さなハンドルで開けられるのと同様に、神の名前を呼ぶとは、神ご自身を捉える事です。あまり神秘的、魔術的に捉えてはいけませんが、その聖名に篭められた力があることは事実です。

・「イエスの名」による救い:
イエスの聖名を信じて呼ぶときに、その力と救いが私達のものとなります。ローマ10:13を読みましょう。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」のです。使徒4:12には「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」救いを必要とする人は、単純に「イエス様」と(彼の救いの業を信じて)呼びましょう。それだけが救いの道なのです。

・イエスの名による業:
ルカ10:17はこう記録しています。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」と。また悪霊に妨げられている女性に向かってパウロは、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った途端に、霊は出て行きました(使徒16:18)私も、悪霊に憑かれた回教徒の家で、キリストの聖名の力強さを経験したことがあります。
 
終りに
 
1.イエスを救い主として受け入れよう
 
 
今日、救いを必要としている人は、聖名を信じる信仰をイエスに対して告白しましょう。
 
2.イエスの聖名によって勝利しよう
 
 
罪の誘惑、サタンの力を感じる時、その他あらゆる生活の状況、場面で、あらゆる仕事の局面において、主の聖名によって勝利を獲得しましょう。
 
お祈りを致します。