礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年12月13日
 
「私達のために貧しく」
待降節講壇(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
第二コリント8章1-9節
 
 
[中心聖句]
 
  9   あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
(Uコリント8章9節)

 
聖書テキスト
 
 
1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。8 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。
9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
 
1.献金は、恵みに感じて行うもの
 
 
・Uコリント8−9章は献金の奨励:
第二コリント8章と9章は、献金の奨励の章です。パウロが計画している世界大のエルサレム教会援助募金活動に、コリント教会が積極的に加担して欲しい、と言うことがその趣旨です。パウロは、コリント教会内の募金状況がやや遅れがちなのを懸念しており、マケドニヤ(ピリピ教会)の良き模範を示して(1節)、彼らがそれを完了するようにと励ましています。

・献金は「恵み」の業:
ただ、それも命令口調ではなく、恵みに感じる心からするようにと勧めています(6−8節)。恵みという言葉が8章に6回でてきますが、パウロは献金のことを「恵み」とか「恵みのわざ」という表現で述べています。献金が義務や競争心からではなく、神の恵みに感じる自発的な行動としてなされることを期待しているからです。

・恵みの表れが9節:
そのアッピールの中心は9節です。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」クリスマスにおいて己を無にして地上に降りて来られたキリストの行為は、神の恵みの大きさを示します。それが本当に分ったら、献金などは黙っていてもできるはずではないか、というのがパウロの論理です。
 
2.富んでおられたキリスト
 
 
・神としての栄光:
キリストは、これ以上持てないと言う程、全てに富んだ方でした。ピリピ2:6を見ると「キリストは、神の御姿」「神のあり方」という表現が出てきます。前者は神としての実質、後者は神と等しくある立場を表します。父なる神との深い交わりの中にあって、神たる実質と姿をもっておられた事は確かです。ヨハネ17:5には「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光」という表現で、17:24では「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光」という言葉で、天地創造の前から大きな栄光に包まれておられたキリストの姿が描かれています。
 
3.貧しくなられたキリスト
 
 
・貧しさに徹底:
栄光に満ちたこのお方が、これ以上貧しくなれない程貧しくなって下さったところにこそ福音の恵みだ、とパウロは強調します。譬えて言えば、19世紀末にバックストン師がイギリスの貴族としての生活を捨てて、日本の田舎に来て、チンドンやの様な格好で路傍伝道された、それの何百倍もの格差が天上のキリストと地上のキリストの間に存在しました。この貧しさとは中途半端の貧しさではなく、物乞いをしなければならないほど無一物となることです(ptoocheuooの文字通りの意味はそうである)。どんな風に貧しくなられたのでしょうか。

・人間のかたち:
ピリピ2:7−8には、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ・・・」と人間の形を取られたことが貧しさの第一歩でした。人間というひ弱な構造、弱さを纏われました。神が人となる、それ自体、人が蟻になる以上の謙りであり、自分をそんな小さな限界の中に置くことです。

・「飼葉おけ」:
キリストが家畜小屋で生まれ、家畜の餌を置く飼葉おけに寝かせられたことが、貧しくなられた第二歩でした。ルカ2:7には、「飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼ら(ヨセフとマリヤ)のいる場所がなかったからである。」と短く説明しています。住民登録のために混雑していたとはいえ、恐らく特別室を頼むような手持ちのお金もなかったヨセフとマリヤには、泊まる部屋さえなかった、つまり、貧しさの齎す悲哀です。せめてもの親切で、旅行者が連れてきた家畜を繋いでおく(今日で言えばガレージのような目的で岩穴を利用した)家畜小屋が備えられました。その夜生まれた赤ちゃんイエスは、(恐らく洞窟に掘り込まれた)飼葉おけに寝かせられました。これ以上の貧しい生まれを経験した人が、この世にあるでしょうか。誰もいません。クリスマスカードの飼葉おけは美しく、清潔で、光り輝いていますが、実際の飼葉おけは、汚く、臭く、どうにもならないものでした。

・貧乏な生い立ち:
貧しさは、誕生の時だけではありませんでした。そして幼児期から成人期に至るまで、貧しさの極みを経験されました。その後に生まれた弟妹が少なくとも6人はいましたし、その後ヨセフは若くして他界したようです。未亡人となった母マリヤを支え、弟妹の面倒を見ながら大工として、額に汗して必死に働きました。10円玉を握り締めて、夕食のおかずに2羽の雀を買いに行かされたこともありました。20円だと5羽買えるという知恵も獲得しました。一ヶ月のお小遣いを1千万円以上も貰う方とは比べようがありません。

・与えつくした生涯:
30歳を越えて、伝道者生涯に入りましたが、やはり、貧しさは続きました。野宿は当たり前、みんなが払う人頭税さえ持っていない、それこそ無一文の生涯でした。人に与えつくし、その最後は十字架でした。ご自分の命も、誇りも、人権も皆捨て去り、来ていた下着さえも剥ぎ取られてしまったのです。
 
4.それは私達を富ましめた
 
 
・貧しかった私達:
エペソ2:12において、キリストを信じる前の異邦人について、パウロはこういっています。「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」ないないづくしです。その根元は自己中心に活きるという罪から発しているのだと聖書は語っています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)

・豊かにされた:
キリストの貧しさは私達を豊かにしました。具体的にはどんな道筋でしょうか。それは、@自己中心の罪を砕いてくださり、他を愛する愛に富ましめてくださったという道筋です。「主は私達のために命を捨ててくださった。これによって愛を知った。私達もまた、兄弟のために命を捨てるべき」とヨハネは言いました(Tヨハネ3:16)。A神の子となり、神の相続財産を受け継ぐ者とされたのです。エペソ2:6 には「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」と記されています。B人生の豊かさの中に導きいれられた。恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬ、歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ、とは私達の心からの賛美ですね。
 
5.私達も他を富ましめよう
 
 
・「他者のために生きる」:
キリスト教の純粋な立場を貫いた為にナチによって捕らえられ、獄死したボンヘッファーというドイツの牧師がおりました。かれは1944年にその獄中からの手紙で「キリストとは、今日、私達にとって誰であるのか」という大切で深刻な問題を提起しました。彼の答えの一節は「キリストとは他の人の為に命を捨てて活きる存在であり、私達のとっての生とは、他者の為の存在であるイエスの存在に与る新しい命である」というものでした。そのことが如実に現れたのがクリスマスです。

・「クリスマス・キャロル」の話:
150年ほど前イギリスで著されたチャールズ・ディッケンズの処女作「クリスマス・キャロル」が映画化されて、人気を呼んでいます。それは、エベネーザ・スクルージという冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴で、人間の心の暖かみや愛情などとは、まったく無縁の日々を送っている人物が、あるクリスマスイブに、友人の亡霊を通して、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるかを教えられるのです。夜明けと共に、彼が経験した悪夢のような未来が、まだ変えることができる可能性があることを知って、早速自分がその助けを拒んでいた会計のクラチットという男とその息子を助ける、という心温まるお話しでこの作品は、ディッケンズ自身がその人生において、貧困の矛盾と悲惨を深く経験し、これを社会改革思想の域まで高めていたからだとも言われています。

・出来る形で愛を実行!:
私達は、全財産を投げ出して貧しい人、病人たちのために生涯を捧げたアッシジのフランチェスコのような行動は取れないかもしれません。しかし、ささやかな形であっても、このクリスマスに周りのお友達のために「自分を貧しくする」という行為を何かの形で実行しようではありませんか。幼いとき、良く意味は分かりませんでしたが、クリスマスの歌に、こんなものがありました。「うたげの座に集うとき、貧しき友、忘るなよ。飢うる孤児、寡婦にまで、恵みあれと祈れかし。奇しきかな、クリスマス。楽しきかな、クリスマス。」
 
お祈りを致します。