礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2009年12月20日
 
「御心にかなう人々に平和が」
聖誕節に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカ福音書2章8-16節
 
 
[中心聖句]
 
  14   いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。
(ルカ2章14節)

 
聖書テキスト
 
 
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
 
はじめに
 
 
クリスマスおめでとうございます。2009年は、日米の政権がそれぞれ交替して、新しい希望が見えてきたような感じを抱いた年でしたが、年の暮れになって、それらの希望も消えてしまいそうな行き詰まり感が日本もアメリカも、そして世界全体を覆っています。特に地球環境を巡る会議が難航している姿に、国家エゴのぶつかり合いの悲しい姿を見る思いです。

そんな行き詰まり感の中に迎えるクリスマス、私達は心新たに、飼葉おけに眠り給う平和の君であるキリストに目を留め、主が今日私達に語られるメッセージを受け取りたいと思います。特に、キリスト誕生についての御告げのあとに歌われた「グロリヤ・インエクシェルシス」から、今日的メッセージを捉えたく思います。
 
1.「天の軍勢」
 
 
・聖誕の告知は、御使い(単数)による:
救い主誕生の知らせを齎したのは、御使い(単数)です(9節)。

・コワイアは、天使の「軍団」:
その御告げが終わるや否や、「天の軍勢が現れた」と13節に記されています。「天の軍勢」とは、やはりみ告げを行った御使いと同じ「御使いたち」(15節)でしたが、恐らく戦うものとしての姿を取って現れたのでしょう。ルカは、この天使の集まりを軍勢(軍隊=ストラティア)と表現しています。平和の福音が軍隊によって告げられるというのは、何とも面白いコントラストです。余談になりますが、今年ノーベル平和賞を授与されたオバマ米大統領は、その授賞式で平和を齎すために軍隊は必要だ、と語ったそうです。これには議論があると思いますが・・・。
 
2.「神に栄光、地に平和」
 
 
・救いの計画を成就した神の栄光を称える:
さてこの軍勢は、生まれたばかりの幼子を通して現われるべき神の栄光を称え、幼子を通して与えられる平和を祈る歌を歌いました。メシアを待望する長い歴史の過程で、神は、その救いのご計画が徐々に示されてきましたが、幼子誕生の時、それが一挙に示されました。ですから、そこに顕された神の栄光が、第一のテーマだったのです。

・「平和の君」もたらす和解への祈り:
第二のテーマは平和です。平和の君として生まれてくださったキリストを通して、神と人、人と人との宇宙的な規模における和解が与えられるはずでした。その感謝と祈りが「地に平和」という言葉に籠められています。
 
3.翻訳の課題
 
 
この歌の翻訳には色々なブレがあるようですので、ちょっと脱線のようですが、その問題に触れます。まず、この歌を言葉の順序どおりに並べて見ますと、

栄光(あれ)<ドクサ> 、いと高きところに<エン ヒプシストイス>、神に<セオー>。
また<カイ>
地の上に<エピ ゲース>、平和(あれ)<エイレーネー>、
人々のうちに<エン アンスロポイス>
「嘉納」の<ユウドキアス>

・原詩の順序:
この最後のユウドキアとは、「良く思う」(ユウドケオー)から来た名詞の所有格で、「良き思いの」「喜びの」「良く思われることの」という意味です。後に「善意の」という意味でも使われましたが、それは主流ではありません。

・昔の訳:
昔の翻訳は、ユウドキアを「善意」と捉え、しかも所有格であることを無視して、善意が人々にあるように、としていました。英語欽定訳はこうした考えに基づいて「神に栄光、地に平和、人には善意」と訳しました。つまり、天地人と三つの句からなっている歌と理解しました。ですから、チャールズ・ウェスレーが作った「神には栄え」の歌は、

「神には栄え、 地には穏やか(平和)、人には恵み、 あれと歌える・・・」

と三つの構造になっているのです。

・今の訳:
しかし、最近の翻訳は殆ど、この取り方をしないで、新改訳聖書のように、二つの句から成っているものと考えています。「天では、いと高きところにおられる神に、栄光があるように。地上では、神に喜ばれる人々に、平和があるように」しかも、「喜ばれる」の前に「神に」と言葉を補っているのも妥当であると思います。
 
4.平和到来の順序
 
 
・神と人との和解=私達が神に喜ばれる人となること:
つまり、この祈りは、「全世界に平和が来ますように」という一般的な意味ではなくて、(もちろん、全世界に平和がくることは私達の祈りであり、期待でありますが)、神に喜ばれる人々の間に平和的な関係が訪れるようにとの祈りです。聖書でいう平和とは、単に戦争がない状態のことではなくて、調和の取れた環境、調和した人格同志の関係のことです。具体的に言いますと、調和した神と人との関係、調和の取れた人と人との関係を指します。さて、人間は神と敵対関係にありました。人間は神に造られ、神の許においてのみ安らぎを見出す存在として造られ、神の栄光を顕すために造られたのに、自分を主張して、神に逆らいました。これを罪といいます。人間は権威に従うことが嫌いで、神を認めたくないのです。もっと言えば、自分が神でいたいのです。キリストは人間の心にある神への敵意、つまり、その罪を取り除き、神と人との平和を作って下さいました。その為にキリストが仲介者となり、私達罪を犯した人類に代わって罪を引き受け、父なる神にご免なさいと謝って下さった、それがキリストの十字架です。それによって人が神と和解する事ができました。私達は神に喜ばれる者となるのです。

・人と人との和解=私達が受け入れられたように、他を受け入れる:
私達が先ず、神の子となり、神に喜ばれる関係に立つとき、互いの平和は自ずと訪れます。キリストは、人間の心の奥底にある敵意を除くために十字架にかかり、その敵対関係を解除して下さいました。その救い主を受け入れる者の心に平和が訪れ、それが家庭(嫁と姑、夫と妻、親と子)隣同士、同僚や社会生活を共にするもの、地域社会、そして世界各地へと広がっていくのです。つまり、自分の罪も赦されたのだから、互いの罪も赦して上げましょうと言う大きな広い心が生まれてきます。自分のような者が愛されたのだから、自分に意地悪をする人をも愛して上げましょうと言う心になるのです。「地に平和が主の喜び給う人にあれ!』と言うのは、縦なりに言えば神との平和を確立し、横なりに言えば神に喜ばれるようになった人々の間に平和が訪れることを示唆します。
 
おわりに:平和の造り手となろう
 
 
・「平和を造る者は幸いです。」:
キリストは、「平和を造る者は幸いです。」(マタイ5:9)とも語られました。私達が争いのあるところに乗り出して、積極的に平和を造り出すものとなるべきなのです。こんなお話しがあります。

ある年取った牧師が死の床におりました。彼は、彼の書記と彼の弁護士を呼び出しました。両方とも彼の教会員でした。二人が牧師館に到着するや否や、牧師のベッドルームに導かれました。牧師は二人の手をしっかりと握り、満足そうに一呼吸し、微笑して天井を見つめました。誰も、何の言葉もしゃべりませんでした。書記も弁護士も、非常に感動し、この老いた牧師がその最後の瞬間に自分たちのようなものに立ち会ってくれと願っていることは光栄であると囁きました。しかし、この二人は、この牧師が、そのどちらに遺言的なメッセージを残してくれるだろうか、といぶかっていました。とうとう我慢ができなくなって、弁護士が口を開きました。「先生、どうして先生は私達二人が来るようにと願われたのですか。」牧師は、最後の力をふりしぼって弱々しくこう言いました。「主イエスは、二人の強盗に挟まれて亡くなられた。私の死ぬ時もイエス様のように死にたいと思ってな・・・。」

これは、やや高級な小話ですが、私達の努めが、相争う人々の間に立って、平和を齎すことであることを示唆しています。

・アッシジのフランシスの祈り:
終わりに、アッシジのフランシスの祈りの一節を引用します。これを私達の祈りとしたいと思います。
 
ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、・・・
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、・・・
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
 
お祈りを致します。