礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年1月3日
 
「み業を見せてください」
年頭礼拝
 
竿代 照夫 牧師
 
詩篇90篇1-17節
 
 
[中心聖句]
 
  16,17   あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
(詩篇90篇16-17節)

 
聖書テキスト
 
 
詩篇90篇 神の人モーセの祈り
1 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。
3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。5 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。6 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。7 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。13 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。14 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。15 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。16 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。17 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
 
はじめに
 
 
明けましておめでとうございます。今年が主の恵みの年であることを祈ります。

当然のことながら、新しい年は、古い年の継続として始まるわけですから、昨年をどう捉えるか、どう評価するかというところから考え始めねばなりません。昨年末の感謝礼拝でも語りましたように、2009年は、様々な分野で主のお働きを見ました。主のみ業が前進した年であったと思います。その思い巡らしの中で与えられたのが、上の御言です。ここに、「神の業を見せてください」という祈りがありますが、私の祈りでもあります。

まず、この祈りの背景から見たいと思います。
 
1.詩篇90篇の背景
 
 
・表題:
この詩篇の表題に記されているように、これは「神の人モーセの祈り」です。

・モーセの人生の変遷:
モーセは、イスラエルをエジプトから導き出した偉大な指導者でした。今日は詳しく触れませんが、彼の生涯は有為転変に満ちたものでした。エジプトの王子としての生い立ちから、ミデアンの荒野で孤独な羊飼いの老人にいたる生涯を通して、モーセは、人生の儚さ、栄耀栄華の儚さを嫌と言うほど知らされました。詩篇90篇を流れている「諸行無常」の響きは、このような人生を経験したモーセの心情から生まれたと思います。

・指導者としての苦労:
さらに、イスラエルを救出する指導者となった後の苦労も並大抵ではありませんでした。大いなる奇跡を見ては喜び、苦しい目に遭うと手のひらを返すように呟き、反逆するイスラエルの民に大いに苦しめられました。その結果として、イスラエルの民は40年間荒野でさまよい、モーセと同年輩の者たちはすべてその屍を荒野に曝して死んでいったのです。このような、人生の無常を目の前にし、その対極にある神の偉大さ・永遠性に思いを寄せつつ歌ったのがこの90篇です。
 
2.詩篇90篇の構成
 
 
この90篇は三つの部分から成っています。

1)永遠の神(1-2節):
最初の2か節は、永遠にいます神についての信仰告白です。

2)人間の儚さの告白(3-11節):第二の部分は、永遠なる神に比べて、短時間しか生きられない人間の弱さ儚さの告白です。

@人間の「つくり」がもろい(3節):「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』」人は塵から造られ、塵に帰る運命にあります。

A人生は短い(4節):「あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」神の時間の尺度から考えると、人生はホンの束の間です。

B人間の繁栄も虚しい(6節):「朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。」奢る平家は久しからず、といわれますが、どんなに人間が栄え、権力や名声を誇ったとしても、それは朝咲いて夕べには枯れてしまう花のようなものです。

C人生は苦労に満ちている(10節):「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」人生は苦労の連続だと言うのがモーセの洞察です。

Dその虚しさは罪から来る(7-9節):「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。」モーセは、人生の虚しさの理由を人間の罪深さに求めます。荒野の40年間で、彼の後輩が一人、また一人と死んでいき、同年輩者は誰も居なくなった状況で、罪の齎す結果を厳粛に悟ったのです。モーセは、自分自身もやがては飛び去る、ということをひしひしと感じながら祈りました。何を祈ったのでしょうか。

3)儚い人間の祈り(12-17節):
第三の部分は、その儚い人間の祈りです。その祈りは5つあります。

@知恵の心を求める(12節):自分の命の短さを自覚し、その価値を認識できるようにとの祈りです。

A回復を求める(13、15節):不服従に対する神の刑罰を終わりにしてくださいという祈りです。人の罪故に背を向けたかのように見える神が、こちらを向いてくださるようにとの祈り。

B喜びと満足を求める(14節):主の恵みをもって心を満ち足らせてくださいとの祈りです。この「恵み」とは、旧約聖書の鍵となる「ケセド」という言葉で、永続的な、契約に基づく愛を示します。更にその愛の故に、短い人生のすべての日々を喜び楽しむことができるのです。

C神の栄光と慈愛を見せるように(16節、17節a):その回復の業を通して、神の素晴らしさと恵みがその民に示されるようにとの祈りです。

D私達の業の確立を求める(17節b):人々のなす業が祝され、確立されるようにとの祈りです。今日は、終わりの4と5の祈りに注目します。
 
3.神の業がみられるように祈る(16節,17節a)
 
 
「あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。」(16節,17節a)
 
・神の驚くべきみ業への期待:
神の業を見せてくださいという事は、「神の業はすばらしいものです。でも心頑なな人々には、それがそれとして認められていません。どうか、彼らにもはっきりと分かるようにはっきりと働いてください。」という、大胆でありつつも謙遜な祈りです。具体的にモーセは何を祈ったのでしょうか。恐らく差し迫ったアジェンダであるカナン入国のための祈りであると思います。エジプトは出たものの、入るべき地である豊穣のカナンには強い人々がひしめき、強固な城がたくさん聳えていました。そのカナンをイスラエルの譲りの地として与えてくださることによって、神の力、神の栄光が現れますようにとの祈りであったことでしょう。もちろん、カナン入国だけが神の業ではありません。重ね重ねのイスラエルの罪を取り除く「罪からの救い」のみ業こそ、神の業の最大のものです。本当の意味での贖いは、主イエスキリストの来臨まで待たねばなりませんでした。

・神の栄光が現れるように:
このようなすばらしい業を通して、神の栄光が崇められるようにとの祈りです。神の栄光を求めるとは、素晴らしい成果が上がった時に、それに対する人間の貢献をどのように評価するかを考えるのではなく、素晴らしい成果の原因は主ご自身なのだということを認めることです。もっといえば、そう認めざるを得ないほどの鮮やかな勝利を祈ることです。今年から、デボーションにシーモンズ先生が書かれた「新しい朝に」という本を用いることにしましたが、1月1日の分の例話が奮っています。象の背中に乗って吊橋を渡ったカラスが、「どうだ、俺のおかげで吊橋が揺れただろう」と自慢している滑稽さが描かれていました。確かに神は、人間の働く部分を残してはくださいますが、それは、象の背中のカラス程度なのです。

・神のご慈愛を感得できるように:
「ご慈愛」という言葉は、ノーアムです。これは「ナーエム(楽しい、喜ばしい)」という動詞から来た名詞で、「喜ばしいこと、嘉納すること」という意味です。イスラエルの人々は、その罪と反逆の故に40年も荒野でさ迷いました。神に棄てられて当然のような頑なな人々でした。その人々をも神は見捨てずに受け入れてくださることで、限りない神の愛が示される、そのような業を見せてくださいと祈りました。

・日本の救いのため:
今年の私たちの祈りは、今までの祈りと変わりません。日本の福音化です。クリスチャン人口が1%に満たない残念な現状を打破するような、大きな破れのみ業を祈りましょう。主は、そのような時をリバイバルという形で与えて下さることでしょう。しかし、そうした大きな目標を一方で持ちつつ、今私が与えられている一人ひとりの魂を主に導く地道な働きの前進のために労し、祈りたいと思います。
 
4.私たちのわざの確立のために祈る(17節b)
 
 
「私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(17節b)
 
・神のわざに加担する:
神の大いなる、鮮やかなみわざを祈ることは、自分のなすべきことを放棄して、サッカーのサポーターのように、応援席でがんばれがんばれと叫ぶことではありません。象に比べるとカラスほど小さな務めかもしれませんが、私達にも、果たすべき努めがあります。その務めが小さなものというへりくだりが、「手の業」という表現です。

・確実に責任を果たす:
しかし、小さくはあっても、それを確実に行い、進める必要があります。どうかそれを確実に行うことができるように、との祈りが、「確かなものにしてください」という祈りです。野球の選手でも、ヒットも沢山打てず、ましてホームランも打てそうもないバッターでも、バントをすれば殆ど100%失敗しないで打てるという選手がいました。要所々々で監督は彼を用いて、勝利を得ました。「確かなものにする」とは「堅い(クーン)」という動詞の強意形で、「確立する」という意味で、建築などに使われる言葉です。積み上っていくように物事が進展し、栄えることです。
 
おわりに
 
 
・日本の福音化のために祈ろう:
この年、主のみわざが全国に進み、福音を受け入れる人が多く起され、この国が主に喜ばれる国になるように、その面で「あなたのみわざを見せてください」と祈りましょう。

・中目黒教会が貢献できるように:
私たち属しているこの中目黒が日本の福音化の一翼を担えるよう、救われる魂が次々に起され、恵みに成長する年となるように祈りましょう。その面で「あなたのみわざを見せてください」と祈りましょう。

・私たちの証しが用いられるように:
私たち一人ひとりが輝く証し人となり、その証しを通して、どなたかを主に導くことができるように祈りましょう。その面で、「あなたのみわざを見せてください」と祈りましょう。
 
お祈りを致します。