礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年1月10日
 
「礼拝の共同体」
教会シリーズ(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの黙示録4章6-11節、5章11-14節
 
 
[中心聖句]
 
  10,11   二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
(黙示録4章10-11節)

 
聖書テキスト
 
 
4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。7 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
 
はじめに
 
 
教会総会を2週後に控えて、それに向けて暫く教会のあり方について、準備的講壇を守ります。特に、この年の総会で、中目黒として進むべきミッション・ステートメントを採択する予定でありますので、そこに謳われている5項目を取り上げて、一つずつ解説的な講壇としたいと導かれております。
 
1.「ミッション・ステートメント」
 
 
「ミッション・ステートメント」とは、私たちが特に目指すべき使命についての声明のことです。そこで声明されていることは、特に目新しいもの、特殊なものは一つもありません。新約聖書が教会とはこうあるべきだ、と記している事柄を項目的に並べ、そして21世紀という時代に、東京の一角で群を形成している中目黒教会としての時代的使命を考えつつ、纏めたものです。まず、一般的声明として、「キリストのからだである大きな共同体の一肢としての中目黒教会は、この地域において、また世界に対してキリストの光を放つ存在となることを願います。」と掲げ、私たちが世界大のキリストの体である教会に連なる存在であることを自覚します。更に、21世紀において、東京の一角である中目黒という地理的状況を考えて、なすべき使命を捉えようとしています。それらを次の5項目で掲げます。
 
2.5項目
 
 
@礼拝共同体
すべての集会において復活の主を仰ぎ、活けるみ言葉に接することによって、共に成長します。すべての公会を重んじ、主体的に加わります。特に、特に聖別会を大切にし、聖化の恵みに進みます。

A愛の共同体
心を開いて交わるグループにおいて、互いの建徳と霊的成長を目指します。また、主を知らない方々をその交わりに迎えます。

B伝道的共同体
考えうるすべての方法を用いて、一人でも多くの方を主に導きます。

C開かれた共同体
地域に対して、物理的にも心理的にも開かれた教会となるよう努めます。地域社会のさまざまなニードに対して積極的に応え、より良い社会の形成を目指します。

D普遍的共同体
近隣の諸教会、インマヌエルの諸教会、日本と世界の福音的諸教会と連帯して、日本と世界の福音化を目指します。特に、ディアスポラ日本人の伝道と帰国者受け入れのために心を用います。
 
3.礼拝共同体
 
 
今日は、5つの項目の内、第一の礼拝共同体というポイントに注目します。教会とは何か、と聞かれたならば、私は先ず、「教会とは礼拝するものの集まり」だと答えます。

・エクレーシア=集まり:
先ず、言葉の意味から考えます。教会という言葉はギリシャ語のエクレーシアから来ています。エクレーシアとは、エンカレオー(ekkalew) という動詞から来た名詞で、「呼び出されたものの集まり、集会、会衆」を意味します。エクレーシアは、キリスト教会の発明ではなく、古代ギリシャの諸都市で「市民議会」 (召集状によって呼び出されたものの集まり)をさす言葉として使われていました。さらに、旧約聖書のギリシャ語訳である「七十人訳聖書」では、ヘブル語のカーハール(QHL=会衆)のギリシャ語訳に翻訳する時エクレーシアが当てられました。その双方に共通なのは、「共同体と成るべく呼び集められた」という意味で使われていることです。つまり、集まること、集まって共同的な営みをする所に目的がある訳です。そして、エクレーシアは、新約聖書においてキリストを信じる者の群を表わす言葉として用いられるようになりました。ここで申し上げたいのは、教会とは人々の集まりであり、集まるのが教会だということです。反対の言い方をすると、集まらなければ教会ではありません。もちろん、病気の人とか物理的に集まれない人もおられますから、欠席したら教会のメンバーでなくなる訳ではありませんが、集会に集まることは、初代教会以来基本的に大切なこととして実行されてきたことは忘れてはなりません。ヘブル10:25には「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い・・・」と記されています。初代教会でも、集会を疎かにする人がいたこと、しかし、その人々は少数であって、譴責の対象であったことが分かります。

・礼拝のために集まる:
信徒たちが集まるのは、共に主に礼拝を捧げるためで、それ以外ではありませんでした。「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」(Tコリント14:26)とパウロは言いました。時々、教会の集まりには出てきても、礼拝とは全く関係なく他の目的で来る人もいます。初心者の場合は、どんな動機であっても来てくださるだけで感謝なのですが、何時までもその状態ではいけません。牧者としては、どこかで本当の目的に目覚めるようにと祈らされます。ボンヘッファーが、教会の本来の意味とその大切な機能である「集まり」の重要さについてこう記しています。「言葉があるところでは、その言葉のまわりに集まりがなければならない。神の言葉は、われわれにとってまず第一に、礼拝する集まりにおいて存在する。言葉に参与することは、具体的には集まりに参加することを意味する。原始教団のひとたちにとって、それは自明のことであった。」私達は共同的な礼拝と言う形で共同的な信仰を告白し、聖餐によって共通の信仰の基礎を確認し、互いが一体であることを確認します。Tコリント10:17に「パンは一つですから、私達は、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」と記されている通りです。
 
4.創造者への賛美と礼拝(黙示録4章)
 
 
・4章の位置:
黙示録4章以下は「この後、必ず起こる事」(1節)、つまり、主の再臨の後に起こるであろう出来事の予言です。そして、そこで示されている第一は、天における礼拝の姿です。

・礼拝者@:
4章での礼拝では、天の御座の回りに24の座があり、24人の長老たちが礼拝しています(4節)。これこそ、やがての日に完成される教会の姿です。24人の長老については、色々な解釈がありますが、私が一番有力と感じるのは、24人が12人と12人の総和であること、旧約においては神の民を示す12部族、新約においては12使徒と捉える見方です。つまり、旧約と新約の聖徒の代表です。

・礼拝者A:
それに体中が目で満ちている不思議な「四つの生き物」が加わります(6節)。その四つはライオン、牡牛、人間、鷲のような顔を持っているのです(7節)。これは被造物の代表と思われます。ライオンは野生生物の王様です。牡牛は家畜の王です。人間は被造物の冠です。鷲は飛ぶ鳥の王様です。24人の長老が全教会を表すのに対して、この生き物は被造物全てを表します。

・礼拝の姿勢:
彼らの礼拝の姿勢は、冠を投げ出しているところに現れています。24人の長老は、それなりに教会において責任ある立場を持ち、ある一定の座(つまり支配する権威)に着き、白衣を着、金の冠をかぶっていました。しかし、10節を見てください。彼らは、それらの一切を脱ぎ捨て、その座から降り、御座におられるお方の前に平伏したのです。これが礼拝です。

・礼拝の賛美:
彼らは、万物の創造者なる神に対して、そのご存在のゆえに賛美を捧げます。理屈ではないのです。一切の源である神に、栄光と誉れと力とをお返しするのです。私は、「お返しする」というのが正しい表現と思います。このお方がすべての根源であられるのに、私たちが自分のものと錯覚している栄光をお返しするのです。自分のものにしてしまった名誉もお返しするのです。自分のものと思っていた力も、当然の所有者である神にお返しするのです。「力は、貴方からのものでした。私たちは間違って自分のものと思っていましたが、申し訳ありませんでした。」と悔い改めとともに神を賛美するのです。
 
5.贖い主への賛美と礼拝(5章)
 
 
・神の右の手の巻物:
第5章は場面が変わります。神の右の手に巻物が握られています。これは、歴史における神のご計画が記されている巻物です。その封印を解く鍵を握っているのが「小羊」であるキリストです。そのキリストが5章における礼拝の対象です。

・礼拝者:
4章に記された礼拝者に加えて、ここでは「万の幾万倍、千の幾千倍もの御使い」(11節)が加わります。更に7章を見ますと、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」(7:9)が礼拝に加わる姿を見ます。これは、小羊が屠られたその目的である贖いによって救われた人々のことです(9-10節)。つまり、礼拝という営みは、新約の教会が始まる前から神の民であったイスラエル、教会の始めから加わった使徒達、その後のキリスト者達、そして御使いたち全てが一体としてささげるものなのです。具体的に言えば、私たちはこの中目黒という東京の一角で、2百人そこそこの集まりで礼拝しているのですが、この礼拝は、世界中の諸民、諸部族、諸言語の民が加わる大きな共同体の営みなのです。たとい、過疎村の小さな教会の一握りの群であっても、それはみんな繋がっているのです。さらに、この21世紀に生きているクリスチャンのものだけではありません。過去の何千年という歴史を生きた信仰者と一緒に礼拝しているのです。これは想像するだけでも楽しい、エクサイティングな光景ではないでしょうか。

・小羊が礼拝の対象:
この小羊は、「ユダ族からでたライオン」、つまり王としての権威と支配力を持ったメシアです(5節)。同時にこのお方は、「ほふられた小羊」です(6節)。ほふられたと見える、と記されていますが、恐らく、傷のない小羊としてではなく、前身に傷を負った小羊として描かれているのでしょう。キリストは、その贖いの死を通して救いの道を開かれました。神の歴史のご計画をその手で開かれたのがこの小羊です。ですからこそ、「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと 、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(5:12)と賛美が向けられるのです。この聖句は、ヘンデルのメサイアの最後を飾る大合唱としても知られています。
 
おわりに
 
 
・冠を脱ぎ捨てよう:
今日の礼拝の最後に、私たちも私たちのすべてを脱ぎ捨てましょう。神の受けるべき名誉を自分のものとしていたら、それをお返ししましょう。力や正しさを密かに自分のものとしていたら、それを悔い改めて、主のものとしてお返ししましょう。

・すべてを主に捧げよう:
私たちを造り、大いなる犠牲を通して救いを成し遂げてくださった主に対して、私の持っているすべてをお捧げしましょう。最後の歌は、私の命、手足、口の言葉、意志、愛のすべてを主に捧げます、という歌です。これを意味して歌い、主にすべてを捧げましょう。そして捧げたものとして一週間の歩みを全うしましょう。
 
お祈りを致します。