礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年1月17日
 
「愛の共同体」
教会シリーズ(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章41-47節
 
 
[中心聖句]
 
  44,45   44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
(使徒2章44-45節)

 
聖書テキスト
 
 
41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。42 そして、彼らはたちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43 そして、一同の心に恐れが生じ、たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
 
はじめに
 
 
教会総会を控えて中目黒として進むべきミッション・ステートメントの5項目を取り上げて、一つずつ解説的な講壇としております。昨週は、「礼拝の共同体」としての教会を取り上げました。今日は「愛の共同体」としての教会について考えます。私たちのステートメントの第2項は「心を開いて交わるグループにおいて、互いの建徳と霊的成長を目指します。また、主を知らない方々をその交わりに迎えます。」と記されています。

このテーマを考えるにあたって、先ず初代教会の姿を取り上げたいと思います。今日のテキストである使徒2章から、幾つかの項目について考察します。
 
1.教会の構成員
 
 
@罪を認めた人々:
37節に「人々はこれを聞いて心を刺され」と記されています。文字通りの意味は、鋭い切っ先で刺されるということで、この場合は、ペテロの説教で引き起こされた鋭い痛みの感情です。彼らは、慈愛に満ちた主イエスを「十字架につけよ!」と叫んだその行為を本当に申し訳ないと感じました。そのイエスが甦って救い主となられた(36節)という事実に、彼らは自らの大きな過ちを愕然と悟りました。

A悔い改めた人々:
この人々にペテロは言いました。「悔い改めなさい。」(38節)悔い改めとは方向転換のことです。自己中心と、神への反逆という罪から神に従う道へと方向転換することなのです。この認罪と悔い改めというプロセスを飛ばして「信徒」になると、聖書が言っている「愛」の本質を捉えそこないます。そして、人間的な愛の延長という捉え方となり、主キリストが持っておられ、また、聖霊によって私たちに注いでくださるアガペーではない、単なる親しさに終わってしまいます。多くの場合、教会の腐敗はここから発生します。

B信じてバプテスマを受けた人々:
「それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(38節)信じた人々は、その信仰を公に告白するために、バプテスマを受けました。その数は3千人に及びました。

C聖霊を受けた人々:
「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(38節)聖霊を受けるのは、信じて救われた結果です。キリストを信じたもの全てには聖霊が宿っています。聖霊は、私たちに主を愛するここと、主に従う心を与え、その信仰生活を導いてくださいます。
 
2.教会の営み
 
 
42節には、初代教会が行っていた四つの営みが簡潔に記されています。この四つは、今でも教会の基本形です。

@教え:
42節a「彼らは使徒たちの教えを堅く守り」ました。使徒達は、聖言から神のみ心を知り、それに従った歩みを努めました。「使徒達の教え」とは、キリストの生涯と教えと救いについての教えでした。使徒達が覚えている限りのキリストの言葉、行いを、新しく信者となった人々に伝えました。こうした教えが繰り返され、定式化されるに従って信徒達の記憶に留められ、伝承されて行きました。これが福音書の基礎になったと考えられています。初代教会が、その営みの第一に「教え」を据えたことは重要です。というのは、彼らの集会の主な部分がキリストの教えに関する説教であったこと、彼らが集会を重んじて、休まずに励んでいたことが分かります。私達が集会を重んじるのも、集会において神の聖言を正しく理解し、それを日常生活に当てはめるためなのです。

A交わり:
これについては次項で触れます。

Bパンを裂く:
42節c「パンを裂き」最後の晩餐に倣った、シンプルな、しかし印象的なものであった。彼等はこのシンプルな儀式を毎週日曜日に行いました。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒20:7)のです。パンを裂く度に、彼等は主イエスが五千人を養われたこと、十字架の前の夜にご自分の肉の象徴としてパンを裂かれたこと、復活の夜、パンを裂いて祝福されたことなどをとても近しい出来事として思い出していたのです。「教会的キリスト教」という本の中で、ある神学者が言っていっています、「我々は、教会においてのみ現臨のキリストをとらえることができる。キリストは単に霊としてのみならず、教会においてこそ体として現臨したまうのである。したがって教会をぬきにしたキリスト信仰は、単に過去のキリストを信じているのであって、現在のキリストと本当に交わっているのではないし、それは聖書の真意でもない。」と。そしておなじ本で、「聖餐とは・・・キリストとの生命の交流、生けるキリストとのふれあいである。・・・ゆえに聖餐にこそキリストは現臨したまう。しかも体をもって現臨したまう。」と。私達はこの「教会に臨在したまう」お方としてのキリストをより強くとらえるべきではないでしょうか。

C祈り:
42節d「祈りをしていた。」儀式的な宮での祈りの時間と共に、信徒間での自発的な祈り会が持たれていた雰囲気が伺えます。使徒12:5を見ると「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」という祈り会が自発的になされていた様子が伺えます。
 
3.初代教会における交わり
 
 
@霊的な分かち合い:
44、45節「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」交わりとは「共通の、共同の」(コイノス)という言葉から来ています。教会でなされていたコイノーニアは単なる社交でなく、第一義的には霊的な分かち合いのことを意味していました。神の恵を称え、互いを励ますことを目的とした会話です。このような霊的交わりは、お互いが主にあって兄弟姉妹であるという家族意識によるものでした。それは、共に食事をするという行為に現れました。尤も、44節の「いつも一緒にいて」という言葉は余り拡大的な解釈をしない方が良いと思われます。3千人前後の弟子達が一カ所に集まって共同生活をすることは事実上不可能だからです。そもそも初代教会には会堂が無かったのです。ですから、家毎の集まりが教会であった訳です。三々五々、適当に家々に集まったと言うのが正確でありましょう。

A物質的な分かち合い:
更に、この分かち合いは、持ち物を共にした共同的な生活に現れました(45節)。「いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」のです。勿論所有の権利をも放棄したのではありませんし、集団の圧力でさせられたのでもありません。或る狂信的な宗教団体が個人の所有を処分させて共同生活をルールとするのとは根本的に違います。自発的な喜びと感謝の心から出た愛の行いとしての助け合いでした。

B共有システムは、一般的な法則か?:
私がここで持つ大きな疑問は、初代教会が持っていた、このような共有システムは、後の時代にも受け継がれるべきパターンだったかどうかという点です。実際、このようなシステムがおこなわれたのはこの時だけで、その後の教会歴史のなかかでは、修道院とか、小さな信徒のグループでなされたという例外を除いて、殆ど見られません。それを理解するには、この一種共産的なシステムをおこなったエルサレム教会の特殊性を考える必要があります。第一に、教会員の殆どがガリラヤ出身の弟子達か、ペンテコステへの巡礼者がそのまま残って共同体に加わった人々であった、という特殊な背景がありました。また、時代的な角度からいえば、当時は社会保障制度は全くなかった時代だったということも考慮されねばなりません。彼らの税金はみんなローマ帝国の拡張のために使われていましたが、今日の私たちの税金は、その大きな部分が社会保障に使われています。ですから、初代教会の実践したやり方は一般的にはなりませんでしたが、彼ら持っていたスピリットが大切ですし、それを見習わねばなりません。

C分かち合いの基になった「兄弟愛」:
繰り返しますが、この助け合いの根底には、真実に他の人々の福祉を考え、実行する「兄弟愛」があったのです。信仰を同じくする兄弟姉妹が、ある必要に迫られているのを見て、ごく自然な愛の発露として、分かち合いがなされたのです。決して制度として、強制されたのではありません。あくまでも一人ひとりの自発性、自主性が重んじられつつの行動形態であったのです。(序ながら、この時代でも、私有財産の基本的な理解はありました。使徒5:4でペテロは、「それ(地所の代金の一部)はもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」と言っています。私的所有権を認めつつ、自発的に必要な人々に分け与えたというべきです。)。更に、この分かち合いの形だけ残って、スピリットが失われたための弊害を使徒の働きは2例で挙げています。第一は、与える側の問題で、人々の間に競争心や見栄が入ってきたのです。アナニヤとサッピラが、みんなの賞賛が欲しくて偽りの施しをして叱られました(使徒5章)。主イエスが教えられたように、「右の手の業を左の手に知らさない」というスピリットが忘れられていたのです。もうひとつは、受ける側の態度です。こうした施しは、恵みとして受ける筈なのに、貰うのが当然という権利主張が入り込んでしまいました。自分の貰い分が他の人々と比べて少ない、これは不公平だという呟きで、この制度をだめに仕掛けました(6章)。つまり、分かち合いという「制度」だけでは有効ではありませんし、弊害さえ生じえます。当事者たちが自己中心に死に切って、真のアガペーの愛のスピリットを持つことが必要なのです。
 
4.新約聖書における「兄弟愛」
 
 
さて、新約聖書には「互いに」という言葉をもって、信仰者相互の協力関係が強調されています。その内「兄弟愛」についての教えを拾ってみます。

@尊敬を基とした兄弟愛:
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(ローマ12:10)

A神から教えられ実践しているが、ますます努めるべき兄弟愛:
「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」(Tテサロニケ4:9-10)

Bきよめから来る偽りなき兄弟愛:
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(Tペテロ1:22)

C徳の積み重ねに立つ兄弟愛:
「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Uペテロ1:5-7)

Dもてなしや思いやりに現れる兄弟愛:
「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル13:2-4)

相互愛によって成り立つ共同体について松永氏は次のように述べています。「神に愛され神を愛し返すということは、必ず己の如く隣人を愛し、また、信頼するという形にならざるを得ない。そしてまた、隣人のかたも、もし神と出会ったならば、お互いの関係が相互になり、私と隣人の関係が入れ替わります。・・・そういう形で共同体が成立する。これが聖書の真理の本質に含まれているのです。」
 
5.愛の広がり
 
 
@愛の広がり:
さらに或る注解者は、彼らの愛の施しはクリスチャン内部のものだけではなく、他の人々にも及んだと考えます。私も同意します。ですから、多くの人が彼等の喜びに引き付けられて加わっていったのです。47節には「すべての民に好意を持たれた。」とあるのはそのことであろうと思います。

A信徒の増加:
それに続いて「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」と記されています。拡大的な愛が人々を引き付けました。折伏によって信徒数が増加したのではなく、恵に引き付けられて増加したのです。ルカはそれが毎日起きた、と記しています。主がその様な驚くべき大漁をこの日本に起こして下さることを信じますか。信じます。人々は真の交わりに飢えています。そこでキリスト者の真の愛の交わりを見ると、ひきつけられて導かれるのです。
 
おわりに
 
 
@緊密な交わりを形成しよう:
今、与えられている組会や牧会小グループを通して、心を開いて互いに語り、祈りあい、助け合うコイノーニアを体験しましょう。それを、人間的な助け合い制度に変えないで、霊的な水準を保ちましょう。もっとはっきり言えば、キリストが私たちを愛されたアガペーの愛の実践の場、愛を学ぶ教室としましょう。

Aその交わりを「開放的なもの」に:
お互いに仲が善いことは素晴らしいのですが、仲間の外に対して排他的な印象を与えてはなりません。絶えず仲間の外の人を思いやり、どんな「変わった人」や「溶け込みにくい人」がたまたま交わりの集会に来られた時も、暖かく迎える心と態度を持ちましょう。第一テサロニケの御言をみんなで読んで、祈りましょう。「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土の全ての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」(4:9-10)
 
お祈りを致します。