礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年1月31日
 
「開かれたアンテオケ教会」
教会シリーズ(4)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き11章19-26節
 
 
[中心聖句]
 
  26   弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
(使徒11章26節)

 
聖書テキスト
 
 
19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
 
はじめに
 
 
私たちは、自分のことを「クリスチャン」と呼んでいます。その呼び方は、教会が誕生してから、12年後に始まりました。しかも、それが起きたのは教会が誕生したエルサレムではなく、エルサレムから500kmも離れたシリアのアンテオケでのことです。アンテオケ教会は、母教会であるエルサレム教会とは色々な面で正反対の性格を持っており、その中には、私たちが教えられる特徴を多くもっています。

1月10日から中目黒教会のミッション・ステートメントを学んでいますが、第4項は、「開かれた共同体」というモットーです。私たちは「地域に対して、物理的にも心理的にも開かれた教会となるよう努めます。地域社会のさまざまなニードに対して積極的に応え、より良い社会の形成を目指します。」と宣言しています。この目標とアンテオケ教会の特色が必ずしも100%一致しているわけではありませんが、基本的な方向性が同じであると思うのです。
 
A.アンテオケって?
 
 
・アンテオケ:
シリヤ州の州都です。日本語から餡子(あんこ)が手桶に入っている姿を想像すると覚えられますね。(イラスト@)BC323年のアレクサンドロス大王の死後、広大な彼の王国は、四人の王様によって分割されますが、その一人セレウコスで、シリヤ地方を治めます。その息子がアンテオコス1世でした。彼の時代にシリヤの首都として町が作られ、それがアンテオケと名づけられました。(地図参照)

・メガシティ:
アンテオケは、港町のセルキヤからオロンテス川沿いに20km陸地に入ったところですが、水上交通が可能でしたので、地中海沿岸の商売や文化の中心地となり、大きな町として成長しました。初代教会が誕生した頃は、(ローマ、アレキサンドリヤに次ぐ)ローマ帝国第三のメガシティ(人口80万人)となっていました。

・国際都市:
アンテオケには色々な人種が集まったのは当然です。もともとのシリア人、ギリシャから移住したギリシャ人も多数いました。また、商売に長けたユダヤ人も数多く住んでいました。(イラストA)

 
B. アンテオケ教会の誕生
 
 
・エルサレム教会への迫害がきっかけ:
(後でパウロと呼ばれるようになった)サウロがリーダーとして起した教会への迫害で、エルサレムの信徒たちは殆どエルサレムの外に散らされてしまいました。面白いことに、この「散らす」という言葉は「種を撒き散らす」(ディアスペイロー)という動詞で、ディアスポラの元の言葉です。さて、散らされた人々は、行く先々でイエス様の事を話しましたので、却って福音が広がりました。タンポポが風に散らされると遠いところに飛んでって、その場所で芽を出し花を咲かせるのと似ています。もし迫害がなかったなら、教会の居心地が良くて、周りの町々に伝道しようという気持ちにならなかったかもしれません。迫害ですら、神様のみ許しで起きるのです。(イラストB)

・救われてしまったアンテオケ人:
散らされたエルサレム教会員は、ユダヤ人でしたが、多くは外国生まれのユダヤ人(これが本当のディアスポラ)でした。最初は、同じユダヤ人を見つけてはイエス様の福音を話しました。その方が話しが通じたからです。とうのは、ユダヤ人は、真の神様を信じた人々だったからです。真の神様を知らないギリシャ人がイエス様を信じて救われるなんて想像も出来ませんでした。救われたいならば、まずユダヤ人の仲間になる(これを改宗といいます)というステップを経て、それから、イエス様を信じるのが筋道だとみんな考えていたからです。ところが、キプロスやクレネ生まれのユダヤ人がアンテオケに来た時、興味深そうに話しを聞いていたギリシャ人にイエス様の話しをしたところ、「それは、素晴らしい話しだ。私もイエス様とやらを信じたい。」という人が次々起きてきて、「救われてしまった」のです。話しをした人もびっくりしました。こんなことってあり?という具合です。今で言うと、小学校を卒業していきなり高校に入ってしまうほどの驚きです。(イラストC)

・バルナバの励まし:
そんな風に出来た教会は、エルサレム教会から見ると「とても変わった」教会でした。旧約聖書の教えをよく知らないままイエス様を信じていましたから、旧約の細かい決まりを守らない人々ばかりでした。たとえば、豚を食べたり、安息日に仕事をする人がいました。エルサレム教会はこれを聞いて、アンテオケ教会はとんでもないところに行ってしまうのではないかと心配して、監督のためにバルナバを派遣しました。幸い、バルナバ自身がキプロス出身のユダヤ人で、心の広い人でしたから、自分たちと違う生き方をしている人々でも、その心の中に住んでおられるイエス様は同じということを見て、心から感謝し、励ましを与えました。23節「心を堅く保って」というのは、「目標をしっかり持って」という意味です。その目線は、受け入れたばかりのイエス様に向けるようにと勧めたのです。ここでバルナバが、食べ物や、カレンダーや、色々な生活習慣のことで注文を付けたならば、アンテオケ教会は萎んでしまったことでしょう。リーダーが、広い心のバルナバでよかったのです。
 
C.アンテオケ教会の特色
 
 
・「クリスチャン」の元祖:
アンテオケの信者は、二言目にはキリスト、キリスト、どんな話しにもキリストという言葉を使いました。たとえば、「おはようございます。お元気ですか?」「はい、とても元気です。キリストのおかげです。」「〇〇さん、何か最近楽しそうですね。どうしたんですか?」「ええ、実は、先月私はキリスト様を救い主として信じたんですよ。その時、私の罪が赦され、心が軽くなりました。感謝です。」「xxさん、今日飲みに行かない?」「どうもありがとう、でも、キリスト様が心の中に入って、楽しくてしょうがないんです。特に飲まなくても私は幸福です。」・・・という具合です。周りの人々は半分あきれ、半分からかいながら、「あいつらは何でもキリストだね。キリスト屋(クリスティアノス=クリスチャン)だ」と言う様になりました。丁度八百屋の金さん、魚屋の銀さん、という感じで、キリスト屋の伝さん、キリスト屋のテルさん、という形で呼ばれるようになりました。それを聞いたアンテオケ信徒たちは、「うん、それもいい名前じゃない。そうか。僕らは自分たちのことをキリスト屋(キリストの従うもの)と呼ぶことにしよう。」ということになったのです。つまり、クリスチャンという呼び名の元祖はアンテオケ教会だったのです。それまでは、「弟子」とか「この道の人」とか、「聖徒」とか、「ナザレ人」と呼ばれていたのですが、ここからクリスチャンと呼ばれるようになりました。

・インターナショナル:
先ほども言いましたように、アンテオケの町自体が大変インターナショナルな雰囲気を持っていました。そこで生まれたクリスチャン達は、もっとインターナショナルでした。リーダーであるバルナバもサウロもディアスポラ・ユダヤ人でしたから、国際感覚豊かでした。また、13:1に出てくるリーダーのうち、「ヘロデの乳兄弟マナエン」は、権力の中枢に近い人です。「ニゲルとあだ名されるシメオン」は、アフリカ系だったと思います。インターナショナルという意味は、自分が生まれ育った文化が一番正しい、自分と違う着物を着、食べ物を食べ、自分と違う肌色をしている人々を変わった人として見下さないということです。その点、アンテオケ教会は人種や文化の違いを余り気にしない雰囲気がありました。残念ながら、その反対がエルサレム教会でした。確かに聖霊に満たされた素晴らしい信徒の集まりではありましたが、保守的なユダヤ人の集まりでしたから、外国人と交わることはとてもおぞましいこと、という偏見からなかなか卒業できませんでした。ペテロがコルネリオの家に行って一緒に食事をするだけでも清水の舞台から飛び降りる大決心が必要でした。そのペテロの行動をきいたエルサレム教会の指導者は、ペテロが外れた行動をしたのではないかと詰問しました。誤解は溶けましたが、でもそんな空気は強かったのです。福音は、このような自文化中心主義(エスノセントリズム)を乗り越えるものであるはずですが、エルサレム教会の場合に、なかなかここから卒業できませんでした。島国で育った私達日本人は、このエスノセントリズムに囚われているように思います。毛色の変わった人々が来ると、何となく弾き飛ばしてしまいます。福音による、本当のインターナショナリズムを捉えたいと思います。インターナショナリズムとは英語をぺらぺらしゃべるとか、外国かぶれをするという表面的なものではなく、自分と違った生き方をする人々を、わだかまりなく受け入れることなのです。

・与えることを喜ぶ教会:
丁度教会が成長し始めた頃、エルサレム地方で大飢饉が起きて、人々が食べるものに困っているというニュースが届きました。アンテオケ教会にとってエルサレム教会は微妙な対立関係にありました。自分たちはそれほど意識しないのですが、エルサレム教会のほうが、アンテオケは変わっているとか、自分たちの行き方に沿わない勝手な方向に進んでいるとか、もっと厳しい人々は、割礼も受けないで(つまり、宗教的にはユダヤ人にならないで)救われているのはおかしいとか思っていたのです。ところが、そのような偏見を持たれているはずのアンテオケ教会が、エルサレム教会の窮状を聞いた時、早速義捐金と義捐物資を集めて、エルサレムに送りました。広い心を持った人々なのですね。(イラストD)

・世界宣教を始めた教会:
13章を見てください。アンテオケの教会で礼拝が行われていたとき、ある預言者が立って、「聖霊が、『この教会のリーダーであるバルナバとサウロを世界宣教のために送り出しなさい』と語られました。」(13:2)と発言したのです。みんなは、そんなばかな!とは言わないで、本当にそれが御心かどうかを確かめるために断食の祈りをしました。その結果、そうだ、その通りだと確信して、この二人に手を按いて祈り、献金を託して送り出しました。それからは、毎日、この二人の働きのために祈り続けました。第一回の旅行、第二回の旅行が終わるたびに宣教師を迎え入れ、報告会を開き、宣教師を温泉に連れて行って(?)休ませ、次の旅行に送り出しました。第三回目の旅行の終わりには、パウロが投獄されましたので、アンテオケには戻れませんでしたが・・・。もし、アンテオケ教会がなかったら、世界宣教は、もっと遅れていたかもしれません。
 
おわりに
 
 
アンテオケの教会の特色をまとめて言うと、それはすべての人に開かれた教会、大きな広い心を持った教会ということです。

中目黒教会の第4の目標は「開かれた共同体」特に、地域社会に対して開かれた群であるようにということです。どうしてこれを掲げたかと言いますと、私たちの群はその始まりから、地域社会と余り結びつかないで成長してきたからです。広尾にいた時も、努力はしたのですが、やはり、近所の人から言わせると外から集まってくる宗教団体と見られていたようです。中目黒に土地を買い、恒久的な会堂を建てた時から、私たちはこの地に根ざそう、この地の人々の一部となろうと決心して、それに向かって歩み始めました。色々な伝道の営みも、「求道者の裾野を広げる」ことに目標づけられて行われました。この6年間である程度進んだともいえますし、まだまだという気も致します。どんなプログラムを持つかというよりも、どんな心で近所に接するかが大切です。

具体的にいいましょう。近所の方と挨拶しましょう。集会の途中に出会う近所の方に対して、明るく、挨拶することは大切です。余りしつこくなく、しかし、ウエルカムの態度を取りましょう。反対に、違法駐車をしたり、ゴミを捨てたりというような近所迷惑な行動はなさっていないと思いますが、慎みましょう。積極的には、教会の大掃除の時に目黒川沿いを掃除するとか、近所の証しになることを心がけましょう。今、課題になっている隣接地の緑地保存運動など、社会の役に立つ行動に加わってください。老人福祉の奉仕、近所の方々を巻き込んでのコーラス・グループ創設など、重荷を持った方々の提案やご奉仕も歓迎します。

形はアンテオケと違うのですが、同じように「開かれた心」をもって、近隣の方々と接しましょう。そして、その「開かれた心」で、もっと広い地域、社会背景の方々を受け入れようではありませんか。
 
お祈りを致します。