礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年2月7日
 
「普遍的な共同体」
教会シリーズ(5)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き9章1-6,26-31節
 
 
[中心聖句]
 
  31   こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
(使徒9章31節)

 
聖書テキスト
 
 
1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。 3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
 
はじめに:使徒信条の一節「公同の教会を信ず」
 
 
教会シリーズを5回続けました。第5項目は、「普遍的共同体」です。第5と位置づけましたが、決して重要度が低いのではなく、当然であり、最も大切な認識です。中目黒の礼拝で毎週唱えることはしておりませんが、多くの教会で唱えている「使徒信条」の一節で「我は・・・聖なる公同の教会、聖徒の交わり・・・を信ず。」と謳われています。「公同の」という部分の原文はカトリカス(英語でcatholic)ですが、この意味は普遍的というものです。新約聖書で「教会」という言葉は、地域ごとの信徒の集まりが第一義的ですが、それだけではなく、各教会の集まりも「教会」です。つまり、聖書は教会を普遍的なものと見ています。そのことを示す記事が使徒9章でありますので、テキストから学びます。
 
A.「キリストの体」である教会
 
 
9章は、教会を迫害しているサウロが、復活のキリストに出会って、キリストの弟子となった記事ですが、その記事の中の主イエスの言葉(5節)は、キリストと教会との関係を物語っています。
 
1.パウロの迫害対象は教会
 
 
パウロが迫害していたのは、キリストの教会でした。彼の意識においては、キリストに直接逆らうというより、「人間に過ぎない」(とサウロは考えていた)ナザレのイエスをキリストと崇め、献身的に従っている弟子の群を滅ぼしてしまおう、教会という信徒のグループを破壊しようというものでした。サウロ(後にはパウロ)が自分の迫害の行動を振り返っている証言があります。その記事を拾って見ますと、「私は神の教会を迫害した」(Tコリント15:9)、「私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとした」(ガラテヤ1:13)、「その熱心は教会を迫害したほど」(ピリピ3:6)、という言葉から明らかなように、サウロは、信徒の集まりである教会を迫害していたのです。
 
2.教会(体)の痛みは、キリスト(頭)の痛み
 
 
教会を迫害していたサウロに対して、主イエスは「あなたが迫害しているのは、この私なのだ」と語られました。つまり、キリストは、教会をご自分と一体化しておられると表現なさったのです。この部分についてウェスレアン注解はこういっています。「キリストは、迫害で苦しむ民と、ご自身を同一であるとされたことが明白に告げられた」。教会の痛みは私の痛みだ、教会を迫害することは私を迫害することだ、という言い方の中に、教会はキリストの体であり、キリストはその体の頭であることを示しておられるのです。丁度、電車の中で誰かの足を踏むと、上のほうから「イタイ!」という声が聞こえるのと同じなのです。この時だけではなく、2千年に亘る教会の歴史は迫害の歴史でもありました。キリストを信じる信仰の故に、ライオンのいる闘技場に放り込まれ、火あぶりにされ、鋸で挽かれた多くのクリスチャンがいました。日本でも、熱い油をかけられ、生きたまま土に埋められた多くのキリシタンがおりました。今でもインド・オリッサ州でキリストの名の故に迫害されている方々が多くいます。キリストは黙って見ておられるのでしょうか。いいえ、かれは、それらの苦しみをご自分の苦しみとして背負っておられ、共に痛んでおられるのです。
 
3.他地域の教会の痛みは私の痛み
 
 
もし、体の肢の一つが痛む時その頭が痛むとすれば、当然のことながら、体の他の肢も共に痛みます。Tコリント12:26に「もし一つの部分(肢)が苦しめば、すべての部分(肢)がともに苦しみ」とあるのは、一つの地域教会内の相互関係だけではなくて、教会同士の関係をも意味しています。かりそめにも、私たちが教会のある部分の痛み、或いは失敗、欠点を語るときに、外部の人間が批評家的に論じることがないようにしたいものだと思います。教会の痛みは主の痛み、主の痛みは私の痛みであるはずですから・・・。
 
B.教会は地域的かつ全体的
 
1.使徒行伝の「教会」は殆ど地域的
 
 
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」とあります。エルサレムにあった教会が各地に飛び火してそれぞれの教会(交わり)が出来たことが示唆されています(地図参照)。使徒の働きの記述の中の殆どは、教会といった場合には、一つ一つの地域に存在する信徒の集まりのことを意味しています。

 
2.31節の「教会」は単数(全体的)
 
 
31節の記述は興味深いものです。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」とありますが、その冒頭の「教会は」という教会は単数です。実際的には、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり」とあるように、一つ一つの地域教会を総合しているのに単数形が使われているのです。エルサレムにあった教会が各地に飛び火してそれぞれの教会(交わり)が出来、それを総称する言葉もまた「教会」でありました。もし教会という概念が地域的な交わりだけを指すとすれば、ルカはここで「諸教会は」と複数で言わなければならなかった筈ですが、敢えて単数で表わしている所に意味があります。教会の一体性は文化の違いを越えるだけではなく、地域の違いをも乗り越えるものです。各々の教会は、全体としてキリストの体なのです。
 
3.公同的教会観
 
 
これを私たちに当てはめて見ましょう。地域教会の集まりである教団も教会と言えます。ですから、インマヌエル全体やそして各地域教会の課題は、私の課題なのです。「祈りのネットワーク」で祈っておられると思いますが、他の教会の課題を祈ることは大切です。他の教団やそれに属する諸教会も、みんな一つの体です。外国の諸教会もみなキリストの体の一部です。こうした広い見方を「公同的教会観」と言います。私たちは一方において地域教会をしっかりと重んじつつではありますが、他方、公同的教会観をしっかり持ちたいものです。
 
C.教会の建て上げと前進
 
 
「そういうわけで、教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地に亘り平和を保った。主への畏れと聖霊の励ましの内に建て上げられ、推進されながら・・・。人数も倍加させられた。」(31節)とありますように、この時期の教会が進展した様子が紹介されています。この節の中から四つのポイントを拾います。
 
1.平和を保った
 
 
ステパノの殉教(AD32年ごろ)から始まったキリスト者たちへの大迫害が、サウロの回心(34年ごろ)によって一段落しました。更にその前にも、教会はアナニヤの偽りとそれに対する処罰、ギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャンとヘブル語を話すユダヤ人クリスチャンとの対立がありましたが、それらがみごとに乗り越えられました(5−9章)。迫害、偽り、対立を回避することなく信仰による知恵と恵みによって乗り越えた事が、「こうして教会は・・・」と言われる教会の成長と平和の基礎でした。「教会は・・・全地方で平和を保ち」とあります。迫害の主謀者であるサウロがキリスト教に回心したお陰で、迫害の勢いが減っただけではありません。教会が、和解を齎す福音を宣べ伝え、その和解を教会内で実行することによって、平和を保つのです。はっきり言えば、教会の中から、不協和音が聞こえなかったのです。もし、教会の中ががたがたしておりますと、求道者が折角教会を訪れても、その教会に落ち着かないで、去ってしまいます。勿論、人間の集まりですから、全く波風が立たないと言うことは期待できませんが、「つとめてすべての人と和らぎ、かつ聖からんことを求めよ」とありますように、互いの平和を追い求めましょう。
 
2.建て上げられた
 
 
その教会が「建て上げられた」と記されています。もちろん教会が建物だといっているわけではありません。でも、聖霊の住み給う群れであり、また、人々が増えることによって成長する、と言う点で建物に譬えられています。しかも、ルカが教会の建て上げを受身形で表わしていることにも注目しましょう。教会は、私達の力、計画、経営的才覚で建て上げるものではなく、主の助けと恵みによって建て上げられるものなのです。会社の成長とは異なる、神の恵みの要素が、成長のカギであることを私達は謙って認めたいと思います。
 
3.前進させられた
 
 
さらに、「教会は前進し続けた」と記されています。この前進と言う言葉は、「強められた」(strengthened<ポリュウオー=運搬する、の受身=進む)とNIVでは翻訳されています。強められた要素として、ルカは二つを挙げています。

@主を恐れる:
「主を恐れる」とは、神が神であり、私達がその被造物であるということを認め、その御前に謙ることです。また、どんな時にも私達を見ていてくださり、私達の心を計り給うお方としての神を意識しながら、そのお方に相応しく歩むことです。新約聖書ではこれを「敬虔」(ユーセベイア=良い+畏れ・尊敬・礼拝、英語ではpiety or godliness)と言います。パウロは、敬虔こそ「今のいのちと未来のいのちを保証するもの」(Tテモテ4:8)と位置づけています。そしてルカも、この敬虔が初代教会成長の大切な要素であった、と記しています。今日の教会で欠けているものは、この敬虔ではないかと思います。「キリストが私のために死んだ」などと敬語無しに言われると、私のような年代の者は抵抗を感じてしまいます。主に対する畏れと畏敬を失ってはなりません。

A聖霊による励まし:
この「励まし」とはギリシャ語でパラクレーシスです。主イエスが聖霊を紹介なさったときに、聖霊はパラクレートス(傍らに立つもの、弁護士、カウンセラー、慰め手、助け手)であると語られたあの言葉とおなじ語源です。具体的には、聖霊が説教者を感動し、それによって聞く者たちも感動を受ける様子を表します。説教者が聖霊の感動を受けて神の御言を語り、聴衆も聖霊の感動によって励まされ、慰められる、そういった集会が続いたのです。更に、聖霊によって感動を受けた互いのクリスチャン同士が証しし合うことが、教会の前進にとってどんなに大きな力となることでしょうか。<牧会小グループの恵み>
 
4.信徒数が増加した
 
 
結果として、この時期、信者の数がふえて行きました。成長目標を定めたのではなく、自然的に増えていったのです。このような恵みの業を御教会にも祈ります。私たちの教会が、どんな励ましにも勝って、聖霊ご自身の慰めと励ましを頂くことによって、強められ、建て上げられていきますように祈ります。
 
おわりに:所属教会への忠実さと、広い視野との健全なバランス
 
 
中目黒が「普遍的な共同体」という項目で意識しているのは、「近隣の諸教会、インマヌエルの諸教会、日本と世界の福音的諸教会と連帯して、日本と世界の福音化を目指します。特に、ディアスポラ日本人の伝道と帰国者受け入れのために心を用います。」ということです。

中目黒教会が、一つの地域教会としてしっかりとまとまり、交わりの面で、伝道の面で、教会運営の面で健全に成長すること、メンバー一人ひとりが会員としての当然の務めを忠実に果たすことは大前提です。ここが崩れてしまって、教会は普遍的なのだから、自分の教会への責任を果たさずにあちこち飛び回って公同教会に仕えているという理屈はなりたちません。

しかし、反面、自分の教会だけが信仰生活を送る世界のすべてであって、他の世界には全く無頓着、無関心というのは、頭であるキリストの御心ではありません。その意味で、一つの地域教会の秩序と規律を持ちながら、他の教会の方々との協力関係を築くことは私たちにとっても、また、全体の教会にとっても大切です。私たちは、その分野を、近隣教会、インマヌエル諸教会、福音派諸教会、世界の日本人クリスチャンフェロシップ、私たちが送っている宣教地と教会、という風に、段階的・現実的に列挙しています。余り不可能な大風呂敷を広げてもいけませんが、同時に、小さく固まってもいけません。バランスの取れた対内・対外関係が健全に築かれるよう祈り、努力したいと思います。

以下の図は、昨年9月の日本伝道会議の講演で使ったものです。私たちは自分の教会だけしか考えないマイチャーチイズムから脱却して、真のインターチャーチイズムを理解し、実践したいものです。世界の中の中目黒であるという意識を持って、私たちの教会の建て上げと世界への貢献とのバランスを保ちつつ前進しましょう。(イラスト参照)

 
【 ミッションステートメント #5 】
近隣の諸教会、インマヌエルの諸教会、日本と世界の福音的諸教会と連帯して、日本と世界の福音化を目指します。
特に、ディアスポラ日本人の伝道と帰国者受け入れのために心を用います。
 
お祈りを致します。